将棋マガジン1991年5月号、「忘れ得ぬ局面 観戦記者編 中平邦彦氏の巻」より。
昭和47年秋、内藤國雄王位対女優の岩下志麻さん。六枚落ち。
内藤が初めて王位をとったお祝い対局。所は羽沢ガーデン。名人戦の対局室に、長身で、華やかな二人がとても似合った。
岩下さん31歳、内藤32歳。
細い指で駒を並べながら、岩下さん「恥ずかしいから途中までよ」としりごみ。
それを応援にかけつけた俳優の岡田裕介さんらが「大丈夫、大丈夫」となだめてスタート。
こう始まった。
△3二金▲6八金△7二金▲6九玉△6二銀▲7八玉△5四歩▲5八金右・・・
ぜひ盤に並べられたい。
角道をあけるとか、飛車先の歩を突くとかの常識がここにはない。あるのは、岩下さんの将棋なのである。
見ていて、頬のあたりが自然にゆるんでくるのを感じた。どう指してもいいのだ。内藤も楽しそうだった。対局室に、春のようなほほえみが漂っていた。
岩下さんは将棋を父上(俳優の野々村潔)から教わった。小学生のときだ。夢中になって、一時、道を歩いている人が金や銀に見え、自分も銀のように斜めに歩いたそうだ。
子供のときに覚えたものは忘れない。そして、岩下さんは女性特有のかわいい性質を、そのまま盤上に見せてくれた。
王様を詰めに行くというよりも、目の前の駒を取りに行くのである。それも、自分の駒で、取る駒を押しのけ、先に升目を”占領”してから取った駒をつまんで駒台に乗せる。
この無邪気な戦法に、さすがの王位もかなわず、駒を中央に集めるのみ。岩下さん、どんどん駒を取ってしまい、図のようになった。
六枚落ちはよく指したし、数多く見てきたけれど、下手の駒台に歩が11枚も乗ったのを見たのは初めてだった。駒台から歩がこぼれ落ちそうだった。
黒のベルベットのマキシニグリーンのスカーフを粋に巻いた岩下さんが、時にハンカチを口元に当てながら「取っちゃおかしら」と、片っ端から駒を取る姿はほほえましく、ほとほと弱った王位は「負けちゃうよ、これは」と悲鳴をあげ、部屋のみんなが笑い出した。
ま、後ろから岡田三段の助け舟もあったけれど、岩下さん快勝。きゃっきゃっと楽しげに笑う声が、今も耳に残っている。
将棋を指す姿が実に美しかったことも。
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岩下志麻さんである。あの岩下志麻さんだ。
私よりもずっとずっと歳が上だが、私が大学生の頃から憧れている大女優だ。
岩下さんは、大河ドラマ『草燃える』では北条政子、『独眼竜政宗』では義姫(保春院)、映画『鬼畜』では夫の隠し子を虐待死させる妻役、『極道の女』シリーズなど、激しく気が強い役を多く演じているが、実際の岩下さんはのんびりとした穏やかなタイプだといわれる。
1986年頃、ある仕事でアルバイトに来てもらった女性が、岩下志麻さんの家の近所に住んでいる子だった。
岩下さんは、とても気さくで優しい人だと、その子は言っていた。
面白かったのは、岩下さんが普段の生活でも、その時に演じている役に心をシフトしていたということ。
幸せな家庭の主婦役をやっているときなどは、家で布団を自ら干したり主婦らしく振る舞い、凛々しい役をやっているときは道を歩いていても凛々しいオーラを出していたと、その子は語っている。
まさしく女優魂だ。
内藤國雄王位(当時)との対局が行われた頃の岩下志麻さんの写真を探してみた。
下のDVDジャケットは、対局が行われる1年前、1971年の映画『内海の輪』の岩下志麻さんの写真。
内海の輪 [DVD] 価格:¥ 2,800(税込) 発売日:2009-09-26 |
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応援に駆けつけた俳優の岡田裕介さんは、現在の東映代表取締役社長。
将棋が強く、俳優時代に将棋世界でお好み対局なども行なっている。
この頃、慶応義塾大学4年生。
岡田さんはこの年に岩下さんと映画を共演している。