近代将棋1999年9月号、鈴木宏彦さんの連載「プロ将棋はこう見ろ」より。
名人戦第7局が終わってしばらく経つが、筆者の頭にはまだ興奮の余韻がある。ことに第6局の終盤、あの激闘は忘れられない。
総手数203手。手の善悪だけ言えば、両者の指した悪手は10を超えるだろう。だが、名人戦のヒノキ舞台で一流棋士が悪手を連発する。そうした状況にこそ、普段の対局では絶対に見ることのできない人間的ドラマがある。最後の第7局についても、東京の若手棋士の評判はあまりよくなかったが(手の善悪という意味で)、米長永世棋聖は「土壇場の勝負に手の善悪は関係ないんだ」と言っていた。まったくその通りだと思う。
ご存知のように、第6局は双方に何度も必勝の局面が現れた。最初に勝勢になったのは佐藤だが、寄せを誤り大逆転。だが、入玉して必勝になった谷川も寄せを逃して大逆転。これで佐藤勝ちという結末である。
劇的な場面は何度もあったが、一つだけあげれば第1図か。
ここで谷川は△7七銀と打って寄せに行ったのだが、銀を手放したために上が抜けてしまった。銀の代わりに△7七角と打てば詰んでいたのだ。銀の手駒があれば、先手玉が8六まで逃げたときに△7五銀と打って押さえる順がある。
もちろん、この一局面だけをとらえて、この第6局を語ることはできない。両者は数十手前から残り1分の秒読みに追い込まれていたし、その前に佐藤が何度も勝ちを逃していたのは先に書いた通りだ。ただ、この第6局に関しては、佐藤に奇跡的な勝ち運があったということはいえるだろう。生涯を通じて詰みを逃したことなど何度もないはずの谷川が、名人位を目前にして詰みを逃したのだ。まさにドラマというほかない。
第6局の感想戦を見たある棋士が「佐藤さんは泣いていましたね」と言っていた。それが本当なら、筆者もぜひ目にしたかった。棋士は小さいときから感情のコントロールをする癖がついているから(一人になれば別だろうが)、相手の目の前で涙を見せることなどめったにない。名人戦に勝った棋士が感想戦で泣くところなどもう見られないだろう。
結果的に見て、この第6局の内容が第7局に影響を及ぼしたことは間違いない。谷川にもチャンスがあったとはいえ、第7局は終始佐藤ペースの戦いだった。終局後の両者は第6局とは違ってすっかり落ちついていたという。どちらにも、それなりの覚悟ができていたのだろう。
振り返ってみると、今回の名人戦は両者が名人としてのプライドを正面からぶつけあった勝負だったとも言える。谷川は十七世名人としての、一方の佐藤は現役名人としての矜持を十分に見せつけた。
例えば谷川は挑戦者としての立場を守り、常に名人より先に対局室に入っていた。第7局に敗れた翌日、谷川は東京で行われた国際フオーラムの前夜祭に出席したが、現役棋士ではただ一人、和服を着て現れた。名人になったのではなく、負けて和服を用意する。簡単にはできないことだ。
一方の佐藤にとっては6月1日の対局が一つのカギになったと思う。名人戦のさなかにぽつんと行われた王位リーグの佐藤-谷川戦。この時点の王位リーグは谷川4連勝に佐藤1勝3敗。谷川にはリーグ優勝がかかっているが、佐藤の陥落はすでに決まっている。つまり佐藤にとっては勝っても負けても全く関係のない対局だったのだが、秒読みまで頑張った佐藤は、あわやという局面まで谷川を追い詰めた。
この将棋の戦型が谷川の横歩取り△8五飛であり、それがベースになって名人戦第7局の戦いが生まれた。王位戦の全力投球が直後に生きたのである。
相手の得意を避けない。昔からそうだが、今回の名人戦でも佐藤の姿勢ははっきりしていた。負けても負けても谷川の先手角換わりに挑む姿勢には凄みがある。谷川の横歩取り△8五飛に対してもそうだ。谷川にとって横歩取り△8五飛はかなり相性のいい戦法で、あちこち勝ち星を稼いでいるのに、ついに名人戦では1勝もできなかった。負けて悔しくないはずはないが、「この相手になら負けても納得できる」という気持ちが谷川にあると思う。
佐藤の一番の趣味はゴルフだ。筆者も何度か一緒に回り、スコアではよく勝っているのだが、いつも「負けた」と思うことがある。彼は球を決して触らないのだ。
日本の多くのゴルフ場には「スルーザグリーン6インチリプレース」という変なローカルルールがある。球をちょいと動かして、打ちやすくしてから打っていいですとというルール。ゴルフの基本精神は「あるがまま」だから、他のどんな国にも、こんなルールを認めているゴルフ場はない。要するにスコアにこだわる日本人と、お客にたくさん来てもらいたいゴルフ場が阿吽の呼吸で作り出したいんちきルールなのだ。
筆者ももちろん、ゴルフのノータッチは当たり前だと思っている。でも、コンペなどで「今日は6インチOKで行きます」と言われるともうダメなのだ。他の競技者が1回1回置き直しているのを見ると、自分だけ不利になるのは我慢できない。悲しいかな、結果的に人の倍くらい触っていたりする。
だが、そんなときでも佐藤は絶対に球に触らない。昼飯代を賭けたりすることもあって、そこで負ければすごく悔しがるのだが、人のタッチに関しては何も言わない。
「人は人ですから」とあっさりしたもの。この真似もそう簡単にはできない。
谷川の和服もそうだが、佐藤のこの姿勢もまさに名人としてのプライドである。名人戦の両雄を見ていると、将棋界の将来も捨てたものじゃないなと思う。
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ゴルフの基本は「あるがまま」だが、知らない人同士が集まってやるコンペなどでは、互いに気を使い合ってスロープレーになりがちになる。
そのようなスロープレーを少しでも解消するために取り入れられたのが「スルー・ザ・グリーン・6インチ・プレース」のローカルルール。
私はゴルフを10回位しかやったことがないが、このローカルルールは知らなかった。
ゴルフも自分との戦いの要素が強い。佐藤康光王将の将棋に対する真摯な姿勢が、ゴルフにも現れている。
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この鈴木宏彦さんの文章、必要な部分のみを抜粋しようと考えていたのだが、すべてが主題に関わってくる内容なので、省略をする部分が全く見当たらなかった。
素晴らしい構成だ。
観る将棋ファンが増えている現在、「プロ将棋はこう見ろ」のような連載があれば、多くの人に喜ばれるのではないかと思う。