森下卓六段(当時)の絶大な信用力

将棋マガジン1990年1月号、河口俊彦六段(当時)の「対局日誌」より。

 夕食の時間になったので、外へ出ようとしたら、入口で、女流棋士4人と若手棋士4人のグループが、10mぐらいの間隔を置いて、それぞれ相談している。これからどうしようというわけだ。

「しょうがないね、なぜいっしょにならないの」そんな憎まれ口を叩いて通り過ぎると、森下が「食事なら、いっしょにいかがですか」と声をかけて来た。で、六本木の焼肉レストランへ行くことになった。焼肉屋なら、近くにいくらでもあり、味だってたいして変わらないと思うが、若手棋士達はなかなか優雅なのである。

 店内は満員で家族連れが多い。森下がそれを見て、「子供のころから外食のクセをつけていいもんですかね」と呟いた。

「高い食事がいいってもんじゃない。みんな内面は貧しいんだよ」

「そうでしょうね。ボクもお客さんが来たときしか、店屋物を食べさせてもらえなかった」

 それからハシの持ち方の話(青野と塚田は正しく使えなかった)から、子供のしつけ(それを先崎と森下が言うのが可笑しい)と、なかなかの文明批評が展開されたのだが、そんなことに紙数を割く余裕はない。B級1組がおもしろくなっているのだ。

(以下略)

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そんなことに紙数をもう少し割いてほしい、と感じたのは私だけではないだろう。

ところで、この抜粋だけを読むと、青野照市八段(当時)が若手棋士4人のグループのうちの一人に見えてしまうかもしれないが、青野八段は河口六段との棋譜の検討を終えて二人で夕食に出るところだった。

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森下卓九段の絶大な信頼度を物語るエピソードがある。

将棋マガジン1992年12月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳 大内延介 勇み肌の運命論者」より。

 大内は芝で生まれて、神田ではないけれど、東京で育った。”東京人”の二代目で、大内自身も、江戸っ児を名乗るのはおこがましいといっているが、江戸っ児らしいところがないわけでもない。

(中略)

 いかにも勇み肌らしく、少々荒っぽい台詞も口にする。何年か前、大内が対局しているとき、森下卓七段が観戦にきた。大内は森下の顔を見て、思い出したように、研究会のことを尋ね、奨励会員の弟子を研究会に入れてくれないか、と頼んだ。森下が承知すると、

「お茶を入れさせたり、出前の後かたづけでも、下足番でも、なんでもやらせてよ。まだ子供だから、行儀の悪いところは、ビシビシ直して……。きみなら、安心して任せられるから」

 最後に、まじめな顔で付け加えた。

「お願いしますね。いうこときかねえようだったら、ひっぱたいたってかまわねえから」

(以下略)

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「きみなら、安心して任せられるから」という大内延介九段の言葉は感動的だ。

師匠が、弟子に研究会の世話をするというところも、弟子思いの大内九段らしい。

この頃の大内門下の奨励会員は、1990年時点の年齢で、鈴木大介初段(15歳)、田村康介3級(13歳)の二人だ。

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森下卓九段の唯一の弟子の増田康宏三段が、14歳で三段リーグ4位に位置している。

増田三段の今後の活躍も注目されるところだ。