羽生善治竜王・名人(当時)「こんどは説明しなくてもいいんで、よかったなと」

将棋世界2003年8月号、作家の常盤新平さんの「名人閑話 ―羽生善治竜王・名人にきく」より。

 羽生善治名人に会ったら、どんなことを訊こうかといろいろ考えた。羽生さん、天才とはなんですか、ジェラシーを感じたこと、ライバル意識を持ったことはありますかとか、偏見や先入観を持ったことは? とかありきたりの、初歩的な質問事項である。

 不思議な縁で羽生さんに年に一度か二度お目にかかるようになってもう十年以上になるが、私ごときが将棋の話をもちかけるのは、畏れ多い気がして、雑談に終始してきた。それでも、若さに似合わず羽生さんのつねに悠揚迫らざる態度に大器を感じていた。

 今回、羽生さんに会ったのは、昨年の王座戦以来だから八ヵ月ぶりである。羽生さんはブルーのスーツに渋いネクタイを締めて、ホテルの四十五階の部屋に現れた。羽生さんの世代はみな服装の趣味がいい。

 羽生さんへのインタビューは雑談からはじまった。煙草の話がつづいて、羽生さんは私に「どうぞ喫ってください」と言ったが、私は遠慮した。棋士が対局中に煙草を吸うのを見ることがほとんどない。日本将棋連盟の三階は禁煙だそうである。羽生さんは「煙草を吸う人は人格まで否定されるようになって」と同情したが、七期ぶりに名人に返り咲いた羽生さんは喫煙に対しじつに寛大である。煙草以外でも私にはじつに寛大である。

 インタビューをいよいよはじめるにあたり、まず「おめでとうございます」とお祝いを申し上げてから、名人と将棋の話をするのは今日がはじめてではないかと恐縮すると、羽生さんは大笑い。羽生さんの笑い声は明るく、こちらの心を和ませる。王座戦の対局後に羽生さんの車に同乗することがあって、羽生さんが勝ったときも、感想をきかずに「お子さんはお元気ですか」などときいた。それで、まず名人(七期ぶり、通算四期目)に返り咲いた心境を伺った。

羽生 名人戦は久しぶりのことだったので(笑)、春になってこういうことは久しぶりですね。いつも観戦する側にいて、今年は誰が挑戦するのかと、見る側にいるのが定着しつつあって、気楽にしていました。ただ、解説に出たりして、なんらかの形で参加はしていたんですけど、三月はじめに順位戦が終わると、リラックスしていたんです。生活のサイクルから名人戦がなくなっていたんです。

それでジェラシーを感じなかったのだろうか。「それはまったく感じなかった」と明快な答が返ってきた。

 A級順位戦は佐藤康光棋聖、藤井猛九段、羽生善治竜王がそれぞれ六勝三敗となって、挑戦者決定はプレーオフにもちこまれた。結果は羽生さんが藤井九段、佐藤棋聖を破って、挑戦権を獲得。

羽生 名人戦が決まった時点では途惑いというか、そういうことがありました。いつもとだいぶ違うなという気がしたんです。

 三月になればのんびりムードにつかることができたんですが、今年は逆にここから一番テンションを上げないといけなかった。プレーオフでは直前にタイトル(棋王位)を失って、いきおいがなくなって(笑)、終局(対佐藤戦)の一時間前に負かされたという印象があって、ああ、今年もだめか、またのんびりムードかという気持ちでした。名人戦に出られるとは、最後までその確信がなかったですね。後向きな考えを持ってまして、半信半疑でした。

 勝負ではいつも勝ちたいとは思っているんです。名人戦はタイトル戦の一つですが、これに対する思い入れのある棋士が多いんですね。私もそれは若干あるんですが、今回は名人戦に挑戦することを思い描くのが難しかった。毎年、最後まで挑戦者争いをしてる場合は来年こそはという気持ちになるのでしょうが・・・。

 羽生さんはグレープフルーツジュースを頼んだがほとんど口をつけない。対局中の羽生さんはお茶やミネラルウォーターをよく飲まれるが、このインタビューには飲み物を必要としないように思われた。くつろいでいた。

 名人になられて何か変わったことは?

羽生 知らない人によく羽生名人と呼ばれたので、そのときは、いや、違うんだと説明していたんですが、こんどは説明しなくてもいいんで、よかったなと。根本から説明しないといけないんで、「私は昔は名人だったけれど、今は違うんですと」(笑)。

 来年は名人戦に出られる、自動的に出られるわけですが、これまでは月に一回、順位戦があって、生活の中である種の緊張感を持続できたのですが、今度はその順位戦がないので、調整の仕方が難しいのではないか。テンションをある一定の高さに維持していかなきゃならないんですね。自分でかなり意識して考えていかないといけない。

 すると、順位戦があったほうがいいと?

羽生 いや、順位戦は体に悪いという感じなんですね(笑)。棋士はもともと体に悪いことをやっていますが、順位戦は技術の勝負ということもありますが、根くらべというところがあるんですね。お互いにスパッと斬り合って、それで終わりという将棋じゃないんですよ。ゴチャゴチャやって、それでどうなるかというのが多いんで。

名人であることをつねに考えられますか?

羽生 ほかのタイトル戦でもふだんの生活の中でもつねに意識していないといけないと思います。

(つづく)

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”羽生名人”と呼ばれて、「私は昔は名人だったけれど、今は違うんです」と、その度に羽生三冠は説明していたのだろう。

たしかに、名人でない時期には、どうしてもそのような会話上の手続きが必要になってしまうほどの羽生善治三冠の知名度だ。

”順位戦が体に悪い”というのも、見ていてもそう思う。

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常盤新平さんは、故・山口瞳さんの弟子筋に当たる直木賞作家。

いわゆる山口組の一員だ。

将棋ペンクラブ大賞最終選考委員も務めていただいた。

常盤新平さんが「ハヤカワミステリ」の編集長を辞めてフリーになった直後は、「小説現代」で、池波正太郎、阿川弘之、吉行淳之介などの一流作家のインタビューも行なっていた。

明日以降も、常盤新平さんならではの素晴らしいインタビューが続く。

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常盤新平さんの作品で私が読んだことがあるのは、「山の上ホテル物語」。

山の上ホテルは、山口瞳さんなどの多くの作家が執筆のときなどに定宿としていたホテルだ。

古き良き昭和が描かれているノンフィクション。

とても興味深く、面白かった。

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