森雞二九段と郷田真隆九段が大好きだった師匠

将棋世界1996年8月号、「棋士それぞれの地平 大友昇九段」より。聞き手は鈴木輝彦七段(当時)。

 今回は大先輩である大友九段にお願いした。引退された棋士の中から大友先生を考えたのには理由がある。それは、A級復帰の森九段や今をときめく郷田六段の師匠だから、という訳ではない。

 心に残っていたのは二年程前の一枚の葉書だった。正しくは、気になっていたというべきかもしれない。

 その葉書の数日前に、先生の九段昇段パーティーがホテルニューオータニで開かれた。引退されて8年以上もたつのに棋士関係者は中原、米長の両先生を始め多数見えられていた。当然ながら、多くの棋士は大友先生の昇段を喜んでおられたが、「26年とは遅すぎる」と昇段の時期を嘆かれる声も聞かれた。これは、先生のお人柄が伝わってくるいい話だと思った。

 私自身は記録係をしたくらいで、大友先生との付き合いはない。むしろ、お弟子さんの関係で出席させて頂いたといった方が分かり易いだろう。そして、パーティー自体が楽しい物で大満足の一日だった。その後の団鬼六先生等数人で楽しく飲んだのは付録の様なものであった。

 その日から数日たち、大友先生から丁寧な直筆の葉書が送られてきた事には驚かされた。棋士のパーティーには今まで数多く出席しているが、こんな事は初めてだったのである。むしろ、逆の印象を持つことも少ないがあったりした。

 新四段の昇段祝い等、出来るだけ出席するようにしているけれど、本人等より師匠関係だったりする場合も多い。義理ではないにしても、背広にネクタイを締め、お祝いを持参するのは、そうたやすい事ではない気がする。それが、本人と後日会館で会っても挨拶一つしないことがあり、やや残念に思っていたのだ。

 行方君の時は、「他の人は当然として、先輩棋士には『先日はありがとうございました』と言うんだよ」と言ったりもした。ともあれ、その時の「ゆっくり話をしたい」とあった事を実現できて嬉しい出会いとなった。

奨励会の頃は

鈴木 ごぶさたをしております。二年半振りになりますか。

大友 あの時はよく来てくれたね。

鈴木 お弟子さんのことは存じ上げているんですが、先生の事はあまり知らないので失礼があるかもしれませんが、よろしくお願いします。

大友 引退して24年たつからね。今日はなんでも聞いてよ。

鈴木 奨励会の頃をまず。

大友 僕は20歳と遅かった。仙台では強かったんだけどね。飯塚先生(勘一郎八段)に強く勧められてね。

鈴木 10代はどうされていたんですか。

大友 高校が火災で焼けてしまって、中退したんだ。それから家庭裁判所で働いていた。どうもこの頃から裁判所に縁があるんだな(笑)。

鈴木 やはり、今とは全然違いますね。その裁判所の事は後で伺いますが(笑)。

大友 入会試験は二段の付け出しで、2勝2敗だった。山田君(道美九段)にトン死で勝ったのが大きかった。

鈴木 そうした強運が誰にもありますね。同期はどなたですか。

大友 山田君と、宮坂、関根、北村が一緒だった。

鈴木 その後は順調に上がっていった訳ですね。

大友 いやいや、三年で四段になるんだけど、生活が大変だった。一年は飯塚先生の内弟子だったけど、後は道場に住み込んでね。

鈴木 昭和26年入会ですから日本全体も貧乏だったと思います。

大友 浅草の国際劇場の地下の道場で津村さん(常吉七段)と一緒に手合い係をしていたけど、一日にパン一枚なんてこともあった。

鈴木 津村先生も御苦労されていたんですね。

大友 津村さんはその道場主の娘さんと結婚したんだよ。今思い出せば楽しい時代だったような気もする。その後は、加藤恵三先生の家の道場にいたんだ。

鈴木 加藤先生は僕も覚えています。本当にやさしい先生で。

大友 大変にお世話になった先生なんだ。

鈴木 この頃で何かエピソードは。

大友 恥ずかしいんだけど一番の思い出はケンカでね。街で会った女の子に誘われて一杯500円のコーヒー屋に入ったんだ。ところが、何万円も請求されてしまったんだ。

鈴木 それは今でも若手が引っ掛かったという話ですよ。キャッチバーですね。

大友 大ちゃん(佐藤大五郎九段)が俺がいるからというんで(笑)、国際の道場で会って、イスで男の頭を打ってしまったんだ。 軽い脳震盪を起したんだな。

鈴木 それは大変な事に。

大友 警察に連れていかれて、「こら、大友」と怒られたんだけど、検事の所にいったら警官が「大友先生ですか」となったんだ。当時は検察庁の将棋部の師範をしていてね。どうも(笑)。

―先生の話を伺っていると、そのまま昭和20年代の日本を映しているような気がした。棋士を目指した多くの人が似たような生活をされていたのだろう。棋士も社会的に認知されず、皆貧しさの中で戦っていたのだと思う。先生の言う「先輩の恩を忘れてはいけない」は体験から生まれたものでもあるだろう。

現役時代は

鈴木 四段になってからはどうでしたか。

大友 現役が18年かな。四段になった時は、まあA級までいくと思った。

鈴木 順位戦は順調なペースで。

大友 C2が2年。C1が2年、B2が1年でB1が少し長かった。

鈴木 五段時代の大阪新聞での14連勝は今でも語り草になっています。

大友 これは不思議でね。結婚前の女房が京都に住んでいて、会いたい一心で大阪の将棋を頑張った結果なんだ。

鈴木 婚約時代は強いですね。僕にも少し経験があります(笑)。

大友 それとは別にして、この時の事は今でも頭に来ているんだ。

鈴木 それはどうしてですか。14連勝は立派過ぎますが。

大友 この時は、5連勝、10連勝で賞金が出たんだ。それで15人目を指したかった。ところが14人目の塚田正夫九段で終わってしまった。後は大山名人しか残っていない。どうしても大山名人と指したかった。

鈴木 それは指せば話題になりましたね。

大友 ダメだって言うんだ。大山名人に傷がつくとね。当時の執行部は本当に良くなかった。これが、後年、山田君達とのクーデターの話につながるんだ。

鈴木 若手に理事会に対する不満があったんですね。後、山田先生との順位戦も最近知りましたが。

大友 あれはB2の順位戦だった。向こう(山田九段)は昇級が決まっていて、将棋盤の中に玉がないんだ。僕は当時四畳半の部屋に女房と住んでいて、夜全く眠れなかった。

鈴木 それはよく判ります。

大友 対局になったら眠くなり出して、こっぱみじんにやられてしまった。ところが、先輩の金高先生(清吉八段)が有吉君に時間一杯使って頑張ってくれたんだ。有吉君は勝てば上がりでね。

鈴木 はあ。それでどうなったんですか。

大友 信じられない事に、金高先生が勝って僕が昇級したんだ。あんなことがあるんだね。

鈴木 劇的なドンデン返しですね。それと、B2で四畳半とはビックリします。

大友 その頃はそんな物だった。対局料も安くてね。27歳でB1になったけど、体を悪くしてしまった。で、図面の方は引退する前の八段の時のにした。

鈴木 自慢の図は勝浦六段との十段戦ですか。

大友 新鋭に勝ち、次も勝ってリーグ入りした。1図から▲4六銀が一時間の長考で発見した自慢の一手。△4四角は▲8八角で指せている。

鈴木 確かにじっと▲4六銀は指しづらいですね。もう一図は。

大友 もう一図は思い出の図でね。弟子の森君と指した将棋。どうでもいいんだけど、2図から125分も考えたんだよ森君は。他の人とは早いのに、師匠に対して失礼だよ(笑)。ギリギリ詰まないんだね。この2局はいい思い出になっている。

鈴木 その辺が、現役と引退の違いかもしれません。

引退とその後

鈴木 43年(37歳)にはNHK杯優勝とA級八段になられました。

大友 B1時代に胃の手術をして、途中休場したんだ。6勝1敗だったけどAクラスでの活躍が目標だったから体を治してからと思ってね。

鈴木 それは辛い時期でもあったですね。

大友 入院している間は山田君が無料で検察庁の稽古に行ってくれたりして、人の恩を感じたよ。

鈴木 47年、40歳の時に先生は突然B1のまま辞められたんですね。今でも驚くほどの早さです。

大友 又、身体を悪くしてね。2年休場する気にはなれなかった。女房の事を言う人がいるけど、44年には離婚してるんだ。A級の一年は離婚裁判で将棋が指せなかった。

鈴木 誰かのエッセーでそんなことを読んだ気がします。

大友 もう一つは責任を取りたかった。僕は升田将棋が好きで升田さんに肩入れしてた。升田さんが「新聞社の苦しいのは僕が一番識っている」というのを信じていたんだ。棋士が苦しかったのは僕の責任でもあるからね。八段だし。

鈴木 契約金は確かに上がらなくて、51年位でしたか急激に上がりだしたのは。

大友 もし続けていたら、芹さん(芹沢九段)のように死んでいたと思う。全力でやるタイプだから。

鈴木 早く引退して苦労はありませんでしたか。

大友 それはあった。運送屋に勤めて、荷物運びをしたこともある。

鈴木 え、将棋の八段がですか。

大友 いや。逆にこれが良かったんだね。身体が丈夫になった。将棋は楽そうだけど、負けると体に本当に悪い。酒を飲むかバクチを打って気を晴らすしかないから。

鈴木 練馬で道場をされていた時期があったと思いましたが。

大友 道場と雀荘をやっていた。ここで田畑君(指導棋士四段)と郷田君が習いに来てた。小学6年と小学3年だったと思う。

鈴木 それは大変に意味のある道場経営と言えますね。

大友 ところが、雀荘は2年で止めるつもりで止めたんだけど、道場もだめになってしまったんだ。

鈴木 それはどうしてですか。

大友 使うお金が違うんだね。麻雀には2万使う人が将棋では500円だから。これはゲームの質かもしれない。

鈴木 雀荘の方はもうかったのですか。

大友 雀荘はもうかったね。ただ、身体が少しきつい。

鈴木 その後はどうでしたか。

大友 百石に一年行ったり、ただ青森は寒くてね。四谷で道場をやったりした。

鈴木 先生の一生は「道場と共に」ですね。森さんも確かどこかの道場で知り合われたと。

大友 やはりアマ出身だからね。森君とは五反田の道場でだった。飛車落ちで勝てないのに何番も挑戦してきて根性だけはあると思った。

鈴木 郷田君はどうでしたか。

大友 小学3年で母親と来た。平手で指したいと言って、途中で「先生投げて下さい」と言うんだ。本に書いてあるって。八段の先生に平手でしかも投げてくれとはなまいきな子だと思ったよ(笑)。

鈴木 それでも、二人ともタイトルを取ったのですから師匠冥利といえますね。

趣味とこれから

鈴木 現在の心境は如何ですか。

大友 一番が普及で二番が趣味の碁と野球観戦。三番は酒かな。特に野球は大洋ファンで、優勝した年に洋と付けたんだ。

鈴木 大洋が優勝してから随分たちますね。今は横浜ですが。先程伺った道場は最近ですか。

大友 3月からね。御茶ノ水駅から5分位で「妻恋坂将棋指南所」と言うんだ。無料で教えてるから紹介しておいて。

鈴木 道場というよりも、畳敷きでサロンといった感じですね。それにとてもきれいですね。

大友 ここで、アマの指導と子供達に教えていきたい。

鈴木 他に夢とかはありますか。

大友 郷田君が入門する時、「名人になります」と言ってくれたからね。生きてる内に実現してほしい。森君は才能があるけど、ギャンブルを止めてほしい(笑)。本人は本も出してるようだけど、あれはいけないな。

鈴木 先生は早く辞められましたが、その分お弟子さんが頑張ってくれますから自分の事のように楽しみですね。先生の話は人生同様に多くて楽しいのですが、全部は書ききれないかもしれません。本日は貴重なお話を伺いありがとうございました。

対談を終えて

 喫茶店に入るなり、「ジンフィーズはある?」と訊いたのでウェートレスさんも私も驚いてしまう。座ったらまず一杯というのが大友流であるようだ。酒類はなく少し辛抱して頂くことになった。

 話は私が将棋界に入る以前の事もあり、初めて聞く話題も多かった。山田先生が亡くなる前に年齢の近い加藤(一)先生や大友先生に皆で理事になる話をしていたそうだ。これが、本文中のクーデターの話になるが、実現するというよりも、若手らしい改革を願っての物のようだ。ただ、今よりもずっと貧しかっただけにより深刻ではあったと思う。

 3時に始まった対談も5時近くなると、時計を見て「あっ、ビールを飲まなければいけない」とおっしゃった。きっとそんな決りがあるのだろう。

 待ち合わせをした道場に戻り、先生はビールを幸せそうに飲まれた。私も先生ほどではないにしても、おいしく頂いた。幸せとは案外身近にあるものだと妙に感心したものである。

 この日は、偶然西村八段も来られていて、お手伝いをされる女性と碁を打っておられた。その碁が終わると、「それでは」と先生は言って西村先生と碁を打ち始めた。

 その姿を見ていると、老境に入られた仙人のようにも感じられた。そして、今日はお会いできて本当に良かったと思った。

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郷田真隆少年の「先生投げて下さい」は、以前このブログで取り上げているが、今回は大友昇九段が語ったことを中心に。

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「街で会った女の子に誘われて一杯500円のコーヒー屋に入ったんだ。ところが、何万円も請求されてしまったんだ」

年代は20年ほど違うが、小池重明さんもやや同じような手口で高額なお金を請求されている。

それにしても、昭和20年代の500円とは相当に高い。現在の4,000円~5,000円に相当するようだ……。

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大友昇九段が五反田で道場を開いていた時期と練馬で道場を開いていた時期が逆だったら、森雞二青年とも郷田真隆少年とも出会えていなかったわけで、運命的なものを感じてしまう。

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郷田九段は、大友九段が亡くなる2年前の1998年に棋聖位を奪取している。

師匠が生きている間に、師匠への大きな恩返しをもう一つ加えたことになる。

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郷田九段はNHK将棋講座2014年7月号で大友九段の思い出を語っている。郷田九段が大好きな師匠だったことがわかる。

郷田真隆NHK杯の記憶に残る、大友昇九段の「将棋の筋をかみしめる手つき」(NHKテキストview)

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上記のNHK将棋講座での記事で、郷田九段は、

「私が出会ってからも、外出するときは帽子をかぶってちょっとした洒落者の雰囲気があった。お酒が好きで、最後に師匠のお相手をしたのは、恐らく森九段、田畑良太六段、師匠と私の4人で、小さな一門会のようなことをしたときだったと思う。寂しがり屋の師匠が、最後まで帰ろうとしなかった。そのときの、やはり帽子をかぶった師匠の後ろ姿が、胸に残る」と結んでいる。

将棋世界1996年8月号「棋士それぞれの地平 大友昇九段」には帽子をかぶった大友九段の写真が載っている。