将棋世界2002年4月号、片山良三さんの「充実の佐藤、会心の完封勝ち」より。
片山良三さんは1957年青森県生まれの競馬記者・ライターで、元奨励会員(花村元司九段門下)。武豊騎手の番記者を長く務めていた。。→Number Webでの片山良三さんのプロフィールと執筆記事集
奨励会を年齢制限の適用でクビになり(21歳の誕生日の時点で初段になれなかった)、その後しばらくの間、将棋ライターとして生計を立てていた時代があった。将棋指しの道を断念させられても、そのまま将棋連盟の野球チームには皆勤していたころの話なので、もう20年以上も前になる。都立高校を2年の途中で除籍(しばらく通わないでいたら、席がなかった!)という、学歴とは言えないそれしかない男としては、とりあえずそのあたりから第二の人生を歩き始めるしかほかに手が浮かばなかったのだ。
本誌の奨励会だよりを「銀遊子」のペンネームで書かせてもらっていたのもそれで、誰某は才能を感じさせる将棋を指す、誰某は成績はそれなりだが対局態度を改善しないと近いうちに壁に当たるだろうなどと、若さの特権で感じたままを好きなように書いていたのが、今となっては少し気恥ずかしい。現役の奨励会員だったときにすでに、将棋より競馬の方に興味の比重が移ってしまっていた筆者は、馬に対してなら「レースぶりに見処なし」とか「スピード的に見劣る」のような、相当に厳しい論評が許されているのに、将棋界の論評記事は書かれる側に対して極端なほど気を遣わなければいけないことに対して疑問を感じていた。奨励会だよりは、自分としては辛口原稿のテストの意味も込めたつもりだったのだが、ついにメジャーな新聞社から観戦記の依頼がやって来ることはなかった。
それはともかくとして、あのころの奨励会ウォッチングは非常にやりがいのある仕事だった。弟デシの森下卓が、6級、5級の時代から子供らしくないと思えるほどに手厚い、非常に負けにくい将棋を指していることを最初に紹介したのはあの欄だったし、森内俊之が説明しにくいほどの非凡な勝負勘を持っていること、丸山忠久が他人とは味が違う勝ち方をしていることなど、いま振り返っても我ながらなかなか鋭いところを衝いた論評をしていた。
羽生善治が多分生まれたときから持っていたきらめくような才能も、彼がまだ1級ぐらいのときに誰よりも早く紹介した。驚かされたのは、当時、突発的に開催された賞金付きの早指し大会(たしか、チェスクロックを使った10分切れ負けルールだった)での彼の活躍。有段者も参加したこの大会で、羽生は神がかり的な早見えを発揮して優勝してしまうのだ。
相手だって選りすぐられた将棋エリートたちなのに、あまりの手の見え方の差に動揺してしまい、時間に追われた末に銀が横に動くなどの反則負けを喫してしまう者もいたほどだったのだ。まだ海のものとも山のものともわからない少年を手放しで誉めるのはどうかと思う気持ちはもちろんあったが、羽生にだけは「天才!」の表現を使わせてもらった。それほど、まわりの奨励会員たちとは手の見え方に雲泥の差を感じたのだ。
佐藤康光は有段になるまで関西奨励会にいたということもあって、銀遊子としてその非凡さを紹介したかどうか、はっきりした記憶がない。ただ、当時の関西の奨励会だよりを書いていた東和男さんが、「佐藤君は関西の将棋界を背負って立つ素材だと見込んでいただけに、お父さんの仕事の都合とはいえ関東に移ってしまうのは本当に惜しい」と真顔で話されていたのが強く印象に残っている。
時が流れるのは本当に速い。佐藤康光と羽生善治が奨励会に入会してからすでに20年という歳月が過ぎていたのだ。
筆者は紆余曲折の末に、自ら望んだ競馬の世界に飛び込んで、どうにか生きていけるようになった。某スポーツ紙で武豊騎手の番記者を任されたことで、人脈が飛躍的に広がる幸運に恵まれたのがなんと言っても大きかった。少年時代を将棋界でもまれにもまれた経験も、いまだからこそ貴重なものとして振り返ることができる。
(以下略)
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片山良三さんがサンケイスポーツの競馬記者としてのデビューするのは30歳のとき。
銀遊子として活躍していたのは1978年~1987年の間ということになる。
羽生善治三冠か奨励会に入会したのが1982年12月、四段になったのが1985年12月なので、片山さんは羽生三冠の奨励会時代を100%見てきたと言える。
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また、片山さんは、競走馬をファンドとして募集する会社である、株式会社ウインレーシングクラブの社長も務めていたことがある。
渡辺明竜王は、2009年にウインレーシングクラブに入会して一口馬主になっている。
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片山さんは、将棋世界2002年10月号で第43期王位戦第3局(羽生王位-谷川九段)観戦記「これからの10年」 も書いており、その素晴らしい内容は昨年の記事で紹介している。