郷田真隆五段(当時)「羽生さんは名人にもなられましたし、いろいろ変わっているところはあるんでしょうけど、僕自身もそうですが、将棋に対する考え方とか基本的な姿勢は、変わってないと思います」

将棋マガジン1994年10月号、内藤國雄九段の第35期王位戦七番勝負第3局〔羽生善治王位-郷田真隆五段〕観戦記「短手数は面白い」より。(以下、青い文字

将棋世界1994年10月号より、撮影は中野英伴さん。

 将棋はなかなか女性の人気のつきにくい職業だが、棋士にもとうとう「追っかけギャル」がつくようになった。将棋界もようやく一人前の業界になったというべきか。お目当てはいまや飛ぶ鳥を落とす勢いの羽生プロ。

 この前の棋聖戦のとき。ギャルは短大生二人で同じホテルをとっていた。「直接会えなくても、同じ建物の中で羽生さんと同じ空気を吸っているということで彼女達は満足なんです」新聞社の人は私に解説してくれた。

 ホテルの支配人がやさしい人で、「やはり将棋ファンは違います。頭の良さそうな子ですよ。折角ですから会ってやってください」と打ち上げの席に二人を連れてきた。羽生プロと一緒に写真に収まったり、サインを貰ったりして喜んでいる姿を見ていると、こちらまで幸せな思いになった。

 女性ファンと言えば、棋界一の美男子郷田君をもりたてたらどうかという案を聞いたことがある。しかし郷田君もいずれ自力で追っかけギャルを獲得するに違いない。

 さて、今回の対局は76手と少ない手数で終わったが中身は濃い。私は、極端にいえば将棋は手数が短いほど面白いと思っている。長いのはいけない。自分が対局していても150手を超すあたりになると、一体日本中で何人の人がこの棋譜を最後まで並べてくれるのかと、自己嫌悪に陥ってしまう。一所懸命なのは本人達だけである。当人の勝ち負けだけが問題でだらだらした棋譜に商品価値はない。

 ピリッと引き締まった短手数の将棋。そういう棋譜に価値がある。

「200手以上の将棋を年に4局以上指したら、罰則として4局目から対局料を没収するという規定を作ってはどうか」この頃、くつろいだ席で私はこんなことを言っている。淡路八段のいるときは避けているが、これが案外棋士仲間に受けがよい。


将棋世界1994年10月号、郷田真隆五段(当時)第35期王位戦七番勝負第3局〔羽生善治王位-郷田真隆五段〕自戦解説「新手の成否」より。記は野口健二さん。(以下、赤い文字

―昨年とは立場を代えての七番勝負ですが、まず今回挑戦者になるまでの王位リーグ、挑戦者決定戦を振り返っていかがですか。

郷田 そうですね、正直なところは挑戦者になれないんじゃないかなあ(笑)という気がしてました。将棋自体の調子があまりよくなかったこともありますし。あまり考えなかったという方が近いかもしれないですね、挑戦権自体を。

―挑戦権を獲得した時の気持ちは。

郷田 すごく自信があったのなら、当然と言ったらあれですが(笑)、そういう感じになると思うんですけど。まあ、自信がないというわけではないんですが、あまり考えてもいなかったので、特に普段と変わらなかったですね。

―それでは、第1局を迎えた時は。

郷田 タイトル戦は、挑戦者決定戦でもそうですが、すごく久しぶりで1年ぶりになりますが、普段の対局とはやはり違いますから。そのくらいですかね。

―第1局、第2局と惜しい将棋でしたが、1年ぶりにタイトル戦で羽生王位と戦って、前回と違う部分はありましたか。自分の気持ち、あるいは羽生王位と戦った感触など。

郷田 羽生さんは名人にもなられましたし、いろいろ変わっているところはあるんでしょうけど、僕自身もそうですが、将棋に対する考え方とか基本的な姿勢は、変わってないと思います。

―本局に臨んだ時の心境は。

郷田 全く無心といえば、それは嘘になりますけれども(笑)、特に気負いもなかったですし、どうしても勝たなきゃという気持ちも、全くないとあれなんですが(笑)、わりと自然体だったですね。


第35期王位戦七番勝負第3局
1994年8月1日、2日
於・神戸市有馬温泉「中の坊瑞苑」
▲王位 羽生善治
△五段 郷田真隆
▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2六飛△6二銀▲9六歩△1四歩▲3八銀△6四歩▲7六歩△8六歩▲同歩△同飛▲7七桂△4二玉▲3六飛(1図)

 先手を持つ羽生五冠の作戦が注目されたがさほど迷うことなくひねり飛車を採用した。

 対する郷田挑戦者の△6二銀~△4二玉は、なんとなく古風な構え。後手方だけの手順を進めれば△3四歩~△4四角~△3三玉~△2二玉という意味だろうか。

 ▲3六飛は私なら▲4八玉と指す。△3四歩ならそこで▲3六飛だし、場合によっては▲9七角△8二飛▲7五角から▲8六飛で▲3六飛の一手を省略できる。

 挑戦者がどうして旧式の手順を選んだのか、王位がなぜ▲4八玉と指さなかったのか、不思議である。しかしこの辺を質すのを私は憚った。

 観戦記者なら何を聞いても構わない。しかし同じプロ棋士なら、企業秘密に属するかどうか匂いで分かるはずだ。逆にそういうところこそ聞き出そうとする棋士もいるが、それは無神経というより、道義に反すると思う。

1図以下の指し手
△8二飛51▲7五歩5△6三銀1▲4八玉24△3四歩76(2図)

 ▲4八玉に挑戦者は大長考。4手前の△8二飛に51分もかけているのでここでの長考はやや意外に感じた。私は次の一手を△9四歩か△4四歩と予想した。△9四歩は次に△3四歩(▲同飛なら△8七歩▲9七角△9五歩)。△4四歩は次に△4三金~△3四歩の意で、受け身にはなるが、△3三金とやらされたことを思えば一手得で不満はない。

 指し手は△3四歩―この歩を突かせまいとして▲3六飛としているのに、五冠王の羽生を相手によくやってくれると感心した。


―羽生王位のひねり飛車は、予想していましたか。

郷田 いや、なにを指してこられるのか分からなかったんです。ただ、第1局は相掛かりで▲2八飛の引き飛車、第2局は僕の先手で矢倉でしたが、同じことはされないんじゃないかなというぐらいで。

―△8六歩では△3四歩もあったということですが。

郷田 △3四歩も一局ですが、ちょっと頑張り過ぎのような気もしますし、△8六歩の方が自然な感じと思います。△4二玉でも、もちろん△4一玉や△3四歩、あるいは△6三銀とか指し方はいろいろあるところです。

―▲4八玉が、1日目の昼休直後の指し手でした。

郷田 ここが一番のポイントです。

―△3四歩(2図)は、一度指してみたかった手ということですが。

郷田 ええ。△3四歩と突いた理由はいくつかあるんですが、第一は、いろいろ研究した結果、この時点では、あくまでも(笑)この時点では、先手のひねり飛車に対する最善の対応が、この△3四歩と突いた局面だと思っていたということですね。これは付随するもろもろの変化を含めてです。要するに、かなり以前から頭の中にあったということですね。

―この局面での△3四歩は、公式戦では初めてですね。

郷田 前例はないと思います。ただ、羽生さんと佐藤さんの昨年の竜王戦第1局で、▲4八玉が▲1六歩に代わって局面自体もちょっと違いますが、タテ歩を取らせるという展開があって、含みとしては同じような感じです。第二の理由は、一番常識的にはここで△3四歩ではなく△4四歩と突くんですね。そして△4三金から△3四歩と突けば、歩を取られずに普通に進みます。ただ、これは感覚的なことですが△4四歩と突きづらかったんですね。というのも、もし私の方の玉が4一玉であれば△4二銀から△4四歩というのは、自然でスムーズな感じの手順です。ところが、4二玉だと、△4四歩はなんとなく突きづらかった。先手の陣形を抜きにして私の方だけいえば、4二玉型で△4四歩~△4三金~△3四歩ではなくて、単に△3四歩の歩が自然なんですね。もう一つ、これは後で無理だと分かったんですが、△4四歩に▲2七銀を少し心配しまして。大きな理由は、感覚的に突きづらかったことと、これが最善の対応だと前から考えていたからです。ただ、本譜△3四歩に▲同飛以下少し苦しかったので、ここでは△4四歩の方がよかったかもしれないですね。

(つづく)

将棋マガジン1994年10月号より、撮影は中野英伴さん。

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「ホテルの支配人がやさしい人で、『やはり将棋ファンは違います。頭の良さそうな子ですよ。折角ですから会ってやってください』と打ち上げの席に二人を連れてきた。羽生プロと一緒に写真に収まったり、サインを貰ったりして喜んでいる姿を見ていると、こちらまで幸せな思いになった」

今の時代では夢のような話だが、この頃はこのようなサプライズも可能だったということになる。

ファンの二人は大喜び、打ち上げに出ていた人達も幸せな思いになり、ホテルに対する顧客満足度も高まるという、皆が喜べる図式。

棋聖戦なので挑戦者の谷川浩司王将(当時)もいたわけだし、内藤國雄九段もいたのだが、やはり写真や色紙は羽生善治五冠(当時)一筋ということで、一点集中型だったのだろう。

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「郷田君もいずれ自力で追っかけギャルを獲得するに違いない」

郷田真隆五段(当時)は、自分の顔よりも自分の将棋を見てほしいというタイプ。あまりそのようなことは意識していなかったと思われる。

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「羽生さんは名人にもなられましたし、いろいろ変わっているところはあるんでしょうけど、僕自身もそうですが、将棋に対する考え方とか基本的な姿勢は、変わってないと思います」

この言葉が格好いい。

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「全く無心といえば、それは嘘になりますけれども(笑)、特に気負いもなかったですし、どうしても勝たなきゃという気持ちも、全くないとあれなんですが(笑)、わりと自然体だったですね」

全くないとあれなんですが、は郷田九段らしい言い回しだと思う。

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「挑戦者がどうして旧式の手順を選んだのか、王位がなぜ▲4八玉と指さなかったのか、不思議である。しかしこの辺を質すのを私は憚った」

郷田五段の解説では、この辺はいろいろある中の一つの手ということなので、そこまで深謀があったわけではないことが分かる。

棋士によっての視点の違いが面白い。

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「指し手は△3四歩―この歩を突かせまいとして▲3六飛としているのに、五冠王の羽生を相手によくやってくれると感心した」

3六に先手の飛車がいるにもかかわらず、△3四歩(2図)。

なんと挑戦的で剛直な一手なのだろう。取って来いと言っている。

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「前例はないと思います。ただ、羽生さんと佐藤さんの昨年の竜王戦第1局で、▲4八玉が▲1六歩に代わって局面自体もちょっと違いますが、タテ歩を取らせるという展開があって、含みとしては同じような感じです」

この竜王戦第1局では、佐藤康光七段(当時)が△3四歩と突いたのに対して、羽生竜王が▲3六飛と回り、佐藤七段がこれを△3三金と受けなかったので、羽生竜王は▲3四飛と歩を取ったという進行。

この王位戦第3局は、▲3六飛に対して△3四歩と突いたのだから、より挑発的で劇的だ。

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「いろいろ研究した結果、この時点では、あくまでも(笑)この時点では、先手のひねり飛車に対する最善の対応が、この△3四歩と突いた局面だと思っていたということですね」

あくまでもこの時点では、と話しているのは、この形での△3四歩が決して得策ではなかったということが対局中にわかったため。

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明日以降は、内藤九段と郷田五段のダブル解説でこの一局を掘り下げていきたい。