将棋世界1992年12月号、「私の修行時代 三浦弘行四段」より。記は冬木悟さん。
アマ四段だったお父さんの指導で
―まずは四段昇段おめでとうございます。将棋を覚えたのは。
「小学校3年のときです。アマ四段の棋力があった父から教えてもらいました。駒の動かし方はその前から知っていたと思いますが、ただ知っていたという程度で、将棋というゲームがどういうものなのか、よく分かっていなかったでしょうね」
―それは三浦先生がせがんで教えてもらった。
「僕のほうが積極的でした。父は早く自分の手から離したかったようですが、なにしろ道場へ行くには弱すぎる。道場で普通に指せる棋力がつくまで面倒をみてくれました」
―お父さんの指導はどんなことを。
「ズーッと二枚落ちを指してもらっていました。父は現在44歳になります。大学時代は将棋部に入っていたそうで、大学のリーグ戦などにも出場したことがあるそうですよ」
―大学の将棋部出身で四段の腕前なら、かなりのアマ強豪ではないですか。基本や定跡を、しっかり教えてもらえたでしょう。
「まあ、それほど強豪という訳ではないのですが・・・。確かに二枚落ちの定跡である銀多伝や二歩突っ切りなどを教えてもらいました。たまに平手で指してもらいましたが、ほとんどが二枚落ちです」
―たまの平手では、どんな戦法を使いました。
「父の得意戦法がその当時、振り飛車だったと思います。だからそのころ平手で対戦すれば、父が振り飛車で僕が居飛車という対陣だったでしょう。父は今、得意戦法は矢倉と言っていますが」
―道場へ行ったのは。
「それから1年ほど経ったころになります。父の認定でアマ4級ぐらいの棋力まで上がったので『大宮将棋センター』へ行きました。そのころ僕は埼玉県の北本というところに住んでいて、大宮は駅でいうと5つ離れているだけで、比較的近かったんです。一番最初だけ父に連れていってもらいましたが、あとは一人で行きました。なんだか将棋が指せてうれしいな、という感じでした」
―1年後ということは、小学校4年のときですね。センターには同年代の人はいましたか。
「はい、子供はかなり来ていました。大宮将棋センターは田川信之先生(準棋士五段)がやっているのですが、特に指導や教室のようなものはありませんでした。すでに奨励会に入っていた荒井さん(辰仁三段)も、よく顔を出していました」
―お父さんの指導は毎日あったんですか。
「休みのときだけですから週に1回ぐらいですね。センターに行き始めてからは、指導と道場が1週間ごとに、交互にあったという感じです」
―指導と道場へ行く以外の日は、どんな勉強をしていました。
「実はそのころ、将棋の勉強って方法が分からなかったんです。棋譜を並べるとか詰将棋を解くとか、定跡書もあまり読んだ記憶がないし・・・」
―アマチュアの初段になったのは。
「道場へ行き出してから7~8ヵ月後ぐらいだと思います」
―お父さんに平手で勝てるようになったのは。
「僕は5年生で三段、6年生で四段になりましたから、そのころでしょう」
―すると少年強豪といってもいいですね。小学生名人戦などの子供将棋大会には出ましたか。
「小学生名人戦には5年、6年と出場しました。5年のときは窪田さん(義行三段)に2回戦で。6年のときは1回戦で負けてしまい、その相手はベスト16まで進出しました。ほかにもいろいろ出場しましたよ」
―お父さんはプロにしようと思って、将棋を教えていたのでしょうか。
「それはないと思います。プロになろうと思ったのは三段になったころ、5年生の時でした。雑誌でプロの世界は知っていたし、センターに奨励会の人やプロ志望の子供が何人かいたので、自然にプロの道に入ったという感じですね」
(この時の将棋世界掲載の写真。三浦九段の幼稚園の頃)
『将棋の国』での出会い
―西村門下に入ったのは(一義八段・三浦四段の師匠)、どういう関係からなのでしょうか。
「今はなくなりましたが新潟県の苗場に『将棋の国』というのがありまして、5年生の夏休みに家族で旅行に行きました。そこで知り合った方が西村先生と知り合いで、先生を紹介してくれたのです。それから間もなく、西村先生がご家族と将棋の国に旅行へ行くので、一緒にどうかと誘いを受けたのです。先生は千葉県の船橋に住んでおられたので、大宮で待ち合わせをして、そのまま将棋の国へ同行しました」
―そのときに西村先生とは初めて会ったわけですね。
「はい。二枚落ちで教えてもらい1勝7敗ぐらいでした」
―随分指してもらったものですね。
「大宮将棋センターの田川先生と西村先生は仲が良かったので、センター出身のプロ志望者は西村門下が多いのです。ところが僕は、その関係とはまた別のところで西村先生と知り合ったので、なんだか不思議な感じがしますね」
―研修会にはいつ入会しました。
「このときから1年ほど後、先生から『研修会に入ってみてはどうか』と勧められたのです。そこで6年生の2月か3月にC2で入会しました。僕が入ったころに藤井さんが研修会から奨励会に入会したと思います。高群さん(佐和子女流初段)もいましたね」
―奨励会に入ったのは。
「中学2年の6月なんです。中学1年の時に奨励会の試験を受けたんですが、3連敗で落ちてしまいました。研修会のC1クラスだったんですが、このころ子供の将棋人口が多く、奨励会試験や研修会のレベルが相当高かったんですよ。僕に勝った人はみんな合格しました」
(1980年8月、奈良東大寺にて。左はお母様)
(つづく)
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以前も書いたことがあるが、三浦弘行九段と郷田真隆九段は、意外と共通点が多い。
列挙すると、
- 将棋が大好きなお父さんから将棋を教わった。
- 二人のお父様とも将棋が強かった(郷田九段のお父様はアマ三段)
- 母方の祖父が医師。(三浦九段のお祖父様は福田赳夫元首相、郷田九段のお祖父様は丸山千里博士と懇意)
- 独身
など。
女流棋士の場合は将棋の強いお父さんに将棋を教えられたという事例が数多くあるが、男性棋士の場合はむしろ珍しいケースと言えるかもしれない。
例えば、羽生家でも森内家でもお父様はほとんど将棋を指さなかった。
お父様が将棋が強いということで思い浮かぶのは他には渡辺明二冠のお父様(アマ五段)。
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三浦弘行九段が小学生の頃に通った大宮将棋センターの代表の小島一宏さんがブログを書かれている。→将棋よろず屋の徒然日誌
三浦弘行八段(当時)の指導対局の模様も興味深い。
この時の指導対局は三浦八段の17勝2敗。下手側の2勝は二人の女性があげたものだった。
そして、最後の一局も、三浦九段らしい心温まるエピソード。