渡辺淳一さんの将棋

作家の渡辺淳一さんが4月30日に前立腺がんのため亡くなったことが昨日報じられた。享年80歳だった。

作家の渡辺淳一さん死去(NHK)

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将棋マガジン1990年4月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳 将棋と女性は似ている?」より。

 「トン死会」という将棋の会が、もう10年以上もつづいている。カメラマンの弦巻勝氏が幹事役で、毎月一回、渡辺淳一宅にお邪魔して、勝手なことをいいながら将棋を指す。会員は十数名。出版関係者のほかに、呉服屋さんもいれば、銀座の料亭の経営者もいる。棋力は初段から三段くらい。渡辺さんはAクラスにはいる。だいたい、時間をかけて指せる人ほど強い。私は対局数ならトップクラスのはずだが、とうぜんというべきか、勝率はいいわけがない。

 最近、会の名称を変えようという話がもちあがった。もともと会員の総意で正式に決まった名称ではなかった。会がはじまったころ、私が「トン死会」ではどうだろう、と冗談半分に案を出した。それがきっかけになり、王さまがトン死するたびに、「やっぱりトン死会だ」という声が出て、いつの間にか定着してしまった。

 しかし、10年以上もたつと、事情が変わってきた。私もふくめて、年配の会員は、そろそろ本当の「トン死」が他人事ではなくなりつつある。早い話が、もっと年をとってから、「新トン死会」なんていうのは、シャレにもならない。老後も安心して名乗れるような名称のほうがいい、ということになった。

 そんな話をしながら、人間の記憶力がいかにいいかげんなものかわかった。いったい、この会は正確には何年からはじまったのか、だれも憶えていない。私も、その場では思い出せなかったが、つい最近、有力な手がかりを見つけた。

 発足してほどないころ、私はテレビドラマと原作の関係について、放送雑誌に雑文を書いた。将棋の合い間に、渡辺さんにも取材した記憶がある。バックナンバーを調べてもらったら、昭和50年の9月号で、渡辺さんの談話も出ているという。となれば、会がはじまったのは、その年の夏ごろだろう、と見当がついた。

 当時、渡辺さんの小説が、たてつづけにテレビドラマ化された。すでに渡辺さんはベストセラー作家になっていたし、とくに女性に人気があった。私が取材した某民放のプロデューサーも、ドラマ化しやすい小説の作者として、真っ先に渡辺さんの名前を挙げた。その理由を訊くと、人気のせいばかりではなかった。構成がしっかりしているからだという。

 それを聞いて、私には思うフシがあった。小説の構想は措くとして、渡辺さんの将棋にも同じことがいえそうな気がした。

 渡辺さんは、あまり定跡通ではない。序盤は平均点でけっこうと思っている。そのぶん、中終盤で力を発揮する。こう書くと”構成”がしっかりしていないように思われるかもしれないが、けっしてそうではない。

 どんな戦型でも、かならず玉をがっちり囲う。攻めっ気はかなり強いほうなのだが、玉が不安定なうちは、絶対に自分からは仕掛けない。相手が超急戦を仕掛けてくるのは、むしろ歓迎する。将棋というゲームは、そうそう簡単にはうまくいくもんじゃない、と割り切っているようなところがある。

 自分が玉を囲うのが好きなくらいだから、相手の玉が堅いのは、いっこうに苦にしない。アナグマを攻めるときなどは、「堅いものほど壊れやすいっていうからな」とかいって、いかにも楽しそうな顔をする。守備の駒を一枚一枚はがして、王さまを追いつめるときは、サディスティックな快感を味わうそうだ。

 こうみてくると、渡辺さんの将棋観は、女性観と似ているといえないこともない。女性が渡辺さんの小説を読むと、どうしてこんなに女性の心理や生理がわかるのか、怖い感じさえするらしい。が、ご当人は、長年、女性研究に精進して、結局、わかったのは、女は男とちがう動物であるということくらいだといっている。つまり、こと女性に関しては、そうそう簡単にはうまくいかない、と悟りの境地に達している。しかもなお、研究心はきわめて旺盛、攻めっ気は相当に強いようなのです。

(この項つづく)

将棋マガジン1990年5月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳 将棋と女性は似ている?」より。

 3年ほど前に、週刊誌の企画で、渡辺淳一対米長邦雄九段の観戦記を書いたことがある。将棋は飛車落ちで渡辺さんが勝った。ひきつづいての対談で、体力の話が出たとき、渡辺さんは、こんなふうにいっていた。

 体力が衰えてくると、小説の結末をいそぐようになる。他人の小説を読んでいても、この人、年をとったなとわかる。画家は一つの色を出すために、何重にも絵具を塗りつける。あんなふうに小説を書けば体力の衰えをカバーできる―

 米長九段も、将棋と似ている、と相槌を打っていた。将棋のことはよくわからないけれど、近年、渡辺さんの小説は、意識して絵具を塗りつけているようなところがある。

 その兆候は、大ベストセラーになった『ひとひらの雪』(1983年刊)から出はじめている。それまでは、男と女を描くとき、ほとんど女の側から描いていた。『ひとひらの雪』では、一転して中年男の視点に立っている。それが、一言でいえば、かなりしつこいんですね。

 主人公のイジイジした心情にまで、作者はとことん付き合っている。そのしつこさが世の中年男に受けて、本はよく売れた。が、あれは、どうみても、しゃきっとした小説ではない。渡辺さんの小説は、構成がしっかりしていることで定評があったはずなのに、好んで構成を無視しているような趣きさえ感じられた。

 「最初から、きっちり決めて書くのはよくないんじゃないか、と思ってね。融通無碍に書いたほうがおもしろいような気がした」

 渡辺さんは、男と女の小説は頭で書けない、という持論を持っている。推理小説、歴史小説などは”頭で書ける小説”の部類にはいるという。といって、もちろん、”頭で書ける小説”を否定しているわけではない。渡辺さん自身、直木賞受賞作の『光と影』、野口英世の伝記小説で吉川英治文学賞を受けた『遠い落日』など”頭で書ける小説”もずいぶん書いている。

 ”頭で書けない”男と女の小説を、しかも、女の視点で書く。これは、相当な力仕事であるらしい。体力が衰えてくると、つい”頭で書く部分”がはいりこんでくるおそれがある。充分に想を練ったつもりでも、結末をいそぐようなことにもなりかねない。

 たぶん、渡辺さんは、そんな危険を予知して、書き方を変えてみたのではないかと思う。『ひとひらの雪』を書いたころは、そろそろ体力の衰えを感じる年齢にも達していた。

 そのころ、渡辺さんの将棋にも、異変が生じていた。だいたい、渡辺さんは、非勢になってから無類のしぶとさを発揮した。大差の将棋も簡単にあきらめない。頭金を打たれるまで投了しないタイプに属した。

 ところが、こちらが気抜けするくらい、あっさり負けることが多くなった。同じころ、渡辺さんはゴルフに熱中しはじめた。衆評は、ゴルフがおもしろすぎて、将棋に身がはいらなくなった、ということで一致した。

 そのうちに、ゴルフ熱は高じるいっぽうなのに、将棋のしぶとさが復活してきた。米長九段と対戦したころには、すっかり復調していた。もしかすると、スランプで一皮むけて、半香くらいは強くなっていたのかもしれない。

 私が推察するに、あの時期、渡辺さんはやはり体力が衰えていたらしい。ふと気がつくと、頭で小説を書きたがっている。将棋も無意識のうちに結末をいそいでいる。女性研究でも、同じような傾向が出ていたことも考えられる。

 男と女の小説を頭で書かないようにするには、つねに材料を補充しなければならない。女性研究の分野でも、年相応の方向転換をする必要があった。どうやら、そのペースをつかんだとき、しぜんに将棋のしぶとさも取り戻していた―私には、そう思えてならない。

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渡辺淳一さんの小説は昭和の末期頃に何冊か読んでいる。

札幌あるいは京都を舞台にした雰囲気のある物語が多かったと思う。

”リラ冷え”という言葉を知ったのも渡辺淳一さんの小説からだった。

北海道ではリラ(ライラック)の花が咲く5月下旬頃、思いがけなく寒くなることがあり、このことをリラ冷えと呼んでいるという。

ちなみに、私が”花冷え”という言葉の存在自体を知ったのも、この渡辺淳一さんの小説からだった。

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古い将棋ペンクラブの会報を見ると、1988年1月30日に将棋ペンクラブ主催で「第1回文壇将棋会」を開催したことが書かれている。

文壇、芸能界などから参加者は81名。棋士、女流棋士、出版関係者、取材などの方も含めると130人ほどが将棋会館の4階に集まったことになる。

記事に載っている当日の主な参加者は(あいうえお順、敬称略)

石堂淑朗、色川武大、内田康夫、江國滋、大橋巨泉、小沢遼子、神田山陽、小松方正、権田萬治、斎藤栄、志茂田景樹、高橋健二、団鬼六、中原ひとみ、原田康子、本岡類、山口瞳、山村正夫、渡辺淳一

囲碁界からは武宮正樹本因坊、高木祥一九段

この日の大盛況は、世話人を山口瞳、渡辺淳一、色川武大の三氏に引き受けていただいたことによる効果が大きかったと分析されている。

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