羽生善治棋王、森下卓七段、先崎学五段の「大山将棋を大いに語ろう」(3)

将棋世界1992年10月号(大山康晴十五世名人追悼号)、羽生善治棋王、森下卓七段、先崎学五段(タイトル、段位は当時)による座談会「大山将棋を大いに語ろう」より。

一人だけ知っていた。

先崎 大山-二上戦。この将棋も、負けた方がA級からほとんど落ちるという将棋だった。

羽生 勝ってもその時点では、残留が確定してなかったんじゃなかったかな。

森下 当時は、最終局の一つ前の将棋は今と違って一斉にやっていなかったんですね。大体同時期に行われてはいたけど対局の日にちに多少のずれがあった。

先崎 それで、この時の面白いエピソードがあってね。対二上先が3月8日でこの後11日に、うちの師匠との棋王戦があった。ところが、その前日の10日に森安-大内戦と中原-森戦があってその結果如何で大山先生の残留が決まるんだ。

森下 気にしていたのかなあ。いや、どうかなあ。

先崎 競争相手の大内、森が負けて残留が決まったという報が入った瞬間、大山先生の顔色がパッと変わったそうなんだ。さすがの大山先生もこういう一面があったんだと……。

森下 少し安心しますね(笑)。

羽生 それだけ、A級というステータスが高いということなんでしょう。本人の意識の中でもね。

森下 でも、それだけにプレッシャーもまたある訳で、そういう勝負を切り抜けてきたのはまた余計に凄いとも言えますね。

先崎 きっと、大山先生は、これを負けたらあかんという将棋を指している時は世の中で一番楽しいことだったんじゃないの。だからあれだけ強いんだ。

羽生 この将棋も序盤で居飛車がダメになってしまったんですよね。

森下 そうなんです。大山先生はほんとに序盤が上手いんです。

羽生 知ってたんですね。周りの人より。こういう形になったら良くなるとか、指せるとか。また、多少悪くなっても、粘りで逆転して勝つこともありますし。

先崎 僕が棋譜を見た限りでは対急戦にはほとんど負けてないんだ。きっと、感覚が飛び抜けていたんだろうね。

謎の局面

先崎 この対二上戦は、投了の三手前の局面が、謎だ。

大山二上激辛訂正

羽生 ここで(5図)▲5三桂成△9二飛▲6三成桂で投了となったけど、▲5三桂成で飛車を成れば王手飛車取りなんですね。

先崎 飛車成りゃ一手で投了するでしょう。なんで飛車成らなかったのか、分かる?見落としていたのか、それとも知っていてわざと成らなかったのか。

森下 見落とししたなんてことはあり得ませんよ。知ってて成らなかったのでしょう。

先崎 じゃあ、なんで飛車成らないで▲5三桂成としたの?

森下 取られる形になっている桂馬を使った方が駒効率がいいと見た、というのでは屁理屈かな。うーん。

羽生 そうとう見落とさないと思うね。飛車成は。でも、じゃあ何でとなると分からないけど。

先崎 今となっては、墓場に持って行っちゃったから知る由もないけどね。もしかすると、この辺のところに、ずっと名人を続けた強さの秘密があるのかもしれないね。そうそう、米長先生に言わせると「こういうのは桂を成る一手」なんだって。「飛車成で勝つようじゃ、まだまだ甘い」(笑)。こうなると、もう僕達、子供じゃ分かんないね。まあ、この件については永遠の謎ということで……。

(つづく)

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故・真部一男九段は、将棋世界2007年8月号の「将棋論考」でこの局面を取り上げている。

真部九段は、「ここは▲5一飛成で二上投了となる筈。ところが大山は何と▲5三桂成といたぶったのだ。これでは大山を好きになれという方が無理だ」と書いている。

大山流超激辛の一手

このブログ記事(大山流超激辛の一手)で、当時の私は1960年代の対局と思われると書いているが、実際には1986年の対局だったことになる。

このような激辛な手なのだから、二上達也八段(当時)が大山名人を追いかける若手の有望格代表であった1960年代のことだろうと思ったのだった。

1960年代、二上八段、加藤一二三八段(当時)などの若手代表が盤上で大山名人に徹底的に痛めつけられた時代だ。

今回、5図が1986年のことだと知り、ちょっとビックリした。

大山流の勝負術と厳しさは、60歳を過ぎても何ら変わることなく貫かれ続けていたということだ。