佐藤康光新四段誕生の夜

将棋世界1987年6月号、駒野茂さんの「関東奨励会レポート」より。

 3月25日。注目の佐藤康光が2連勝して来期の順位戦に間に合うかどうか、それに視線が集った。

 普通ならば昇段出来る、出来ないに話題を持って行くのだが、彼の場合はちょっと違う。周囲(有段者)の見方が「早く四段になってもらわんとかなわん」と、言わせるぐらい強い。だから見方も違うのだ。

 一局目を勝った佐藤は大一番を中川大輔三段と戦うことになった。

 1図はその序盤。中川の△2五角に佐藤が面白い順を見せてくれる。

佐藤中川奨励会1

 ここからこう進んだ。

▲3六飛△同角▲同歩△2七飛▲3八銀△2五飛成▲7七銀△7二銀▲2七角と。

 1図で、▲3二飛成とする手がよく本に書かれてある指し方。それを佐藤は▲3六飛と引いたのだ。

 これは佐藤が「自分の将棋を指すんだ」と、そんな意思表示をする指し手ではないだろうか。それに最終手▲2七角も独特な感覚だと思う。

佐藤中川奨励会2

 局後にこの角とことを聞くと、「前に2七ではなく▲1八角と打ったことがあるんですけど、後々、△1四歩と端を突かれるのが嫌で……それでなんです」

 この言葉で分かるが、佐藤はこの将棋を相当研究した。そんな風である。それも独自のやり方で。

 本で覚えた物を使うのは、誰しもが出来ること。それを鵜呑みにせず、自分で研究し独自の物として使う。これが佐藤の強さ、伸びる要素だと思う。

 実戦に戻ろう。

 ▲2七角以下、局面は駒組みの段階へと進む。中盤から終盤にかかる所で中川の失着が出、それをうまく咎めた佐藤がこの将棋を収めて昇段、をしたのだが……

 感想戦の最中、入室して来た室岡五段が、「上がったの?それならばそれらしい顔しなよ」と、こう言われるぐらい佐藤の表情に嬉しいという彫りはなかった。

 そんな彼に質問をしてみた。

「昇段の一番、というのでプレッシャーを感じた?」

「いえ、そんな感じではなかったです」

 まだ表情が強張っているので唐突な質問を浴びせた。

「特定の女性は、いる?」これには佐藤も表情を変えざるを得なかった。

「えっ、い、いませんよ」と、今まで強張らせていた表情に、急に赤みがさして来た。ポーッとして来たと言う方が正解かもしれない。気が緩んだのか口元も軽くこう話して来た。

「実はこれから旅行に行くんです」

「え、どこへ」

「四国、それに九州へ。6人で行くんですけど、行程は各駅停車です。今日の東京駅、23時25分発大垣行きに乗って」

「へえー、各駅で。もしもだよ万が一上がれなかった場合、それでも行ったの?」

「ええ、行くつもりでした」

 こう言って出掛けた佐藤。将棋の方も旅をさせ、大きくなってもらいたい。

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現在では23時25分発大垣行きの鈍行列車はなくなってしまったが、東京駅から例えば香川県の高松駅まで各駅停車で行く場合の所要時間を調べてみると、12時間59分(乗車11時間41分、乗り換えは9回)。

思ったよりも時間がかからないという印象だ。

このような行程を選ぶということは、鉄道マニアの森内俊之三段(当時)も一緒だった可能性が高いと思われる。

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2図の▲2七角が、横歩取り佐藤新手と呼ばれる一手。

後手からの有効な攻めがなく、駒組みも後手が立ち遅れている、というのが先手の主張点。

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昔の将棋入門書に出てくる横歩取り戦法は、1図から▲3二飛成と飛車を切る定跡が書かれていた。

私のような飛車が大好きな子供は、横歩取りは絶対に指したい思わない戦法の最右翼となっていったものだった。

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島朗六段(当時)の島研が始まったのが1985年頃。

当初は森内俊之三段(当時)と佐藤康光三段(当時)がメンバーで、この年(1987年)からは羽生善治四段(当時)も島研に参加している。

▲2七角は佐藤康光三段が島研での数々の対局の中で試して生まれたものなのかもしれない。

そう考えると、あらためて、島研はやっぱり凄いと思う。

2002年の「伝説の島研同窓会」(前編)

2002年の「伝説の島研同窓会」(後編)