中川大輔八段の奨励会時代の苦行

近代将棋1988年11月号、故・池崎和記さんの第11回若獅子戦準決勝〔阿部隆四段-中川大輔四段〕観戦記「チャンスは二度ある」より。

 勝ったほうが決勝戦へ進む。でっかい一番である。

 東京の中川四段が大阪へやってきた。関西将棋会館五階・御下段の間。一歳上の阿部四段が上座。

 私は大阪に住んでいるので、中川のことはほとんど知らない。これまで観戦の機会もなかった。

 先崎四段と同じ米長九段門下。

 「横歩取り」がめっぽう好き。

 お姉さんが美人、らしい。

 予備知識として知っているのは、このていど。最近出た「将棋年鑑」の棋士アンケートでは「愛読書=メンズノンノ」 「座右銘=いつも少年のような気持ちで」と書いている。わかっ中川大輔たようで、やっぱりわからない。

(以下略)

—–

将棋世界2002年1月号、中川大輔七段(当時)の自戦記「四段昇段の一局 ガムシャラに」より。

忘れられない一局

 棋士には「忘れられない一局」というものがある。四段昇段の一局は、その中でも別格だが、実は私にはそれと同じくらい、いや、それ以上の一局があった。

 1図の将棋は、昭和58年10月に行われた、奨励会入会試験での一局である。

 受験者同士の対戦を5勝1敗でクリアーし、次の日の2次は奨励会員との対戦。

 1局目、山下5級との平手戦に負け、2局目の高田一正6級との一戦は、まさに背水の陣であった。もしこの受験に失敗すれば、将棋をやめる覚悟でいた。

(中略)

 この1勝で合格ラインに達した。この1勝は、今までの、どの1勝よりも嬉しい1勝だった。なにせ将棋をやめずにすんだのだから……。

 次の日、学校へ行き、友人たちに報告すると、皆喜んでくれ、放課後お祝いをしてくれた。

 ブランデーの小びんとコーラを買ってきて、いわゆるコーク・ハイでの乾杯だった。楽しい思い出である。

 そして昭和58年12月1日。初めての奨励会の対局は、伊藤茂5級との香落ち戦。

 ここからプロとしての第一歩をふみ出した。

 当時、奨励会には、羽生1級、先崎2級、佐藤康2級、森内4級、郷田5級ら、「年下の上級生」たちがいた。

熱海将棋合宿

 奨励会の仲間たち数人と、年に1回将棋合宿を行っていた。2泊3日民宿に泊まり、指しまくるというものだった。

 ある夏の合宿は、熱海で行った。目の前には青い海が広がっていた。

普通ならひと泳ぎする所だが、しかし参加者は誰ひとりとして外へ出なかった。2日間、一歩も出ず、ただひたすら指しまくった。海は完全な観賞用だった。今ではとてもできない。

 とにかく将棋を指しているのが、何より楽しかった。

 3日目、民宿を出た私たちは、とりあえず目の前の海へ出た。このまま帰るのはもったいない、ということになり、鞄から盤を取り出して、再び将棋を、今度は炎天下で指しまくった。

 さすがに海岸で指したのは、この一度きりである。

 1日1日、熱い日々を送っていた。

私のマル秘体力強化作戦

 何でも将棋に結びつけた。

 私は運動不足解消のため、腕立て伏せ連続60回と腹筋運動連続100回を日課としていた。

 それだけでは甘いということで、奨励会の対局で負けると、1局につき20回をプラスした。3連敗の日は腕立てを120回となる。腹筋は全敗の罰として200回。

 負けてガックリしている所へこれはきつかったが、おかげで負けることのつらさを人の倍、体に染み込ませることができた。腕立てで汗をにじませながら、次は必ず勝つ!と心に誓う。熱い日々だった。

(以下略)

—–

中川大輔八段は、空手や野球や登山など、体を動かすことが大好き。

そのような原点が、奨励会時代の腕立てと腹筋運動にあるのだろう。

それにしても、毎日これだけの回数はなかなかできるものではない。

—–

そのような運動系のイメージがある中、中川八段の四段時代の愛読書がメンズ・ノンノ。

中川八段は若い頃から服装のセンスが良いことでも知られている。

中川八段は、今日放送されるNHK杯戦、畠山鎮七段-熊坂学五段戦の解説を務めるが、ネクタイと同系統のポケットチーフを胸に入れているなどのさりげなくお洒落なコーディネートが予想される。

—–

中川八段が四段に昇段したのは1987年のことで、先崎学九段と同じタイミング。

将棋世界1987年12月号には、師匠の米長邦雄九段宅で開かれた祝賀会の写真が掲載されており、写真右から、米長九段、中川四段(当時)、先崎四段(当時)、先崎四段のお父さん、中川四段のお姉さん、という並び。

池崎さんが、「お姉さんが美人、らしい」と書いているが、これは、この写真がもとになっているのかもしれない。

私も、文章を見る前にこの写真を見た時、この美人は誰なんだろう、と思ったほどだ。