渋谷の森内俊之四段(当時)

近代将棋1988年2月号、湯川博士さんの「十代、この凄いルーキーたち」の「プロに強いプロ」より。

 編集部から指令があった日は、たまたま運良く森内クンの将棋を観戦する日だった。

 棋戦は週刊将棋のアマプロ戦。相手がアマ王将の橋本喜晴さん。対局室は連盟「香雲」の間。

 森内クンはグレーのフラノ地のブレザーに白いYシャツネクタイ姿。175センチ67キロの立派な体を正座に折りたたみ、口をきっと結び盤面を凝視している。顔色は、色白だが頬と耳が赤く染まっている。

 対局前から漂う気迫が漂っているが、実はこのちょっと前に本誌のアマプロ戦があり、序盤のポカのため、短手数で無念の敗北を喫していたのだ。

 この将棋も前局同様矢倉で戦ったが、橋本アマの思い切った角捨ての強襲があり、それが森内のミスを誘って、またもアマに敗れてしまった。

 四段昇段後たった5ヵ月で新人王を獲得し、勝率も第1位を突っ走っていた17歳森内の、はじめてのショックな敗戦だったろう。

 局後の感想戦もほとんどしゃべらず、体は硬直させたまま、エエ、ハア、と小さな声で合づちを打つだけだった。

 数日後の連盟控え室で、森内を見かけた。

 川崎の学校帰りに寄ったのだろう。制服の背広姿のままだ。

 この日は順位戦に竜王戦があって、控え室は棋士でいっぱい。先輩棋士が盤面を動かし冗談を飛ばすのをとても楽しそうに見ている。同じ10代の仲間、先崎クンが検討盤に手を出し口も出しているのに対し、まったく手も口も出さない。それでいて皆のいうことに耳を傾け、いっしょに雰囲気を楽しんで、その場に溶けこんでいる。

 先崎が米長とすれば、森内は中原のような雰囲気を持っているのである。

 でも好きな棋士はと聞いたら森内は、

「米長先生。将棋も生き方も」

 と答えたのである。

 森内は京須八段の孫に当たるが、すれ違いで会っていない。父もほとんどやらず、突然将棋に熱中しだしたそうだ。そして連盟土曜教室の工藤浩平五段のもとに通い出してからは一層熱中し、デパートの将棋大会では羽生少年らと共に、つねに優勝を争っていた。

 京須門下で今は渋谷で道場を開く北山和佑さんは、この森内クンの熱烈な応援団の一人。

「ウチがオープンした時から来てますけど、あのスケールの大きさは見たことがないね。中原か木村か、という感じ。ボクも京須先生の所に内弟子していました縁で、彼の成長がうれしくてねェ。スケールが大きいというのは、相手の得意戦法に飛び込んでも五分に戦えるという、吸収力の凄さなんです。いろんな少年を見てますけど、中原以来森内クンがはじめてです。後はハタチすぎてからの女性関係をうまくのりこなして、このまま伸びてほしいですね。そうすればA級の上、名人まで行くような素質だと思っているんですよ」

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北山和佑さんが席主だった道場とは、渋谷駅南口の東急プラザの至近距離にあった渋谷将棋センター。

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私が将棋道場に熱心に通っていた時代は1987年から1989年と短い期間だが、この3年間の前半は千駄ヶ谷の将棋連盟道場に通っていた。

そのうちに、もっと家の近くの道場にも行ってみたくなり、渋谷将棋センターに通い始めることになる。

渋谷将棋センターの脚付きの盤、黄楊の駒、畳という組み合わせも魅力的だった。

私は渋谷将棋センターで幸運にも助けられ四段を認定されており、棋力を聞かれた時、「強い三段、弱い四段」と答えられるのも、この道場のおかげと言える。

超スピード昇段

渋谷将棋センターはいつの頃か閉店してしまったが、私にとっては懐かしい思い出のある場所だ。

 

写真: DSC_0101

将棋世界2002年8月号掲載の写真の一部。渋谷将棋センターで行われていたハチ公研が終わった後のシーン。撮影は炬口勝弘さん。