神谷広志五段(当時)「16連勝した時に、塚田君が本気で心配しているという話を聞いて、それなら塚田の泣く顔を見てやろうと思った」

将棋世界1987年9月号、大崎善生さんの「不敵な追走者 ―連勝新記録を樹立した神谷五段―」より。

”昭和36年4月21日、静岡県浜松市の生まれ。50年、5級で廣津久雄九段門。53年初段、56年3月四段、59年五段。59年第3回早指し新鋭戦、第7回若獅子戦で準優勝”

 昭和62年版将棋年鑑の棋士名鑑に掲載されている神谷広志五段の略歴は、それで終わりである。棋戦優勝もなければ、リーグ入りの記録もない。実にシンプルな経歴である。その、たった5行で総括されてしまう棋歴の持ち主が、ちょっと信じられないような快記録を打ち立てた。

 27連勝、継続中。

 もう二度と破られることはない、と思われていた塚田七段の、22連勝という大記録を、たったの半年足らずで塗り替えてしまった。しかも、大幅の更新である。

 2月10日の対野本戦から7月24日の対青野戦まで、ドロドロと地底で熱せられたマグマが大噴火を起こしたように、白星の山を、神谷は累々と、より高く築き続けた。「16連勝した時に、塚田君が本気で心配しているという話を聞いて、それなら塚田の泣く顔を見てやろうと思った」と神谷は言う。一事が万事、こんな風である。

 10連勝ぐらいまでは、いつの間にかという感じだった。15連勝を過ぎたあたりからだろうか、「昨日、神谷勝った?」「勝った勝った」「ヒェー」。というような会話が、連盟のあちこちで、挨拶がわりに聞かれるようになってきた。

 そして、20連勝を超えたあたりから、驚異の視線が神谷に注がれ始めた。

 7月7日、C級1組順位戦で必敗の将棋を粘り抜き、武者野五段を破り22連勝を達成。塚田の記録に並んだ。その後も神谷の内包するマグマは、とどまるところを知らず、滝、石田、二上、武市、青野と連破。とうとう27連勝。

「偶然といえば偶然ですね」。連勝のことを聞くと、神谷は照れ笑いを浮かべ、こう続けた「やってみろって言われてできるもんじゃないし、狙ってできるもんでもないですしね」

兄貴分タイプ

 こんな場面に出会ったことがある。今から3年程前の話だ。

 4、5人の奨励会員が、将棋連盟の2階の道場で、盤を囲んでタイトル戦の研究をしていた。「この手はこういう意味だ」「この手にはこれがあって、存外大変」「なるほど、ではここではこうする一手か」というような調子でつつき合い、ようやく一つの結論らしきものが生まれようとしていた。

 誰かが「この変化は先手の勝ちでしょう」という。「そうだね、それは流石にいいか」ということになって、次の変化へと盤面は進められた。

 そこへ、いかつい顔をした神谷が、ヌッと現れた。

「どっちがいいだって?」まるで喧嘩を売っているような口調だった。「言ってみろよ」。

「この変化は、このように進んでこれでは流石に先手がいいという結論になったんです」と誰かがおそるおそるという感じで統一見解を述べた。

「だから、その先をやってみろよ」と神谷。「どうよくなるんだ」。いいと結論したからには、負けたら許さんという雰囲気である。

 奨励会員達は黙ってしまった。皆が結論した局面だし、それで確かに悪いとも思えないのなら、誰か局面を進めてやっつけてしまえばいいのに、と思って見ていたのだが、神谷の気迫に気押されたか誰も率先して駒を動かそうとしない。

 反応がないので、神谷はおもしろくねえ、という顔でその場を立ち去った。

 へぇー、凄い奴だなあと思った。何が凄いと思ったかというと、誰にも何も言わせないところがである。

 神谷が立ち去ったあと、奨励会員達は一瞬の緊張から解放され、いいと結論した局面から再検討を始めた。彼らは、不幸にも、突然熊に出会った登山者のようなものだった。

 彼らが自分達の出した結論の早急さを反省したのか、やっつけるチャンスだったと地団太を踏んだかは覚えていない。恐らく後者だったような気もするが…。

「ほんとうに恐かったですよ」と塚田七段はいう。「僕もよくいじめられました」。

 神谷の恐さは、肝っ玉の据わったものの考え方と、ぶっきらぼうな話し方にあるのだろう。ほんとうは心根は優しく、思いやりのある兄貴分タイプである。

 だから、当時も奨励会員達に抜群の人気があったし、塚田とのつき合いは今でも続いている。

「最近、またいじめられた」と塚田は笑う。もちろん、連勝記録のことである。

二つの壁

 神谷は昭和36年、静岡県の浜松市に生まれた。小学校3年の頃、将棋のルールを覚え、5年の頃に夢中になって本を読みだしたというから、棋士としては遅いスタートである。それから、浜松の支部に通い始める。

 特A、A、B1、B2、C1、C2とキッチリと組織化されたシステムの中に組み込まれ、神谷はC2からスタートを切った。1日に5対局、5連勝もしくは4勝1敗連続2回で昇級という規定に初めは苦しむ。C2をなかなか脱せられず、そしてやっと抜けたと思ったらB2でまた壁にぶつかる。B2にいた頃はもう、中学に入学していた。ちなみに、B2というのはアマチュアの4級ぐらいという。

 この頃、神谷はもう一つの壁にぶつかっていた。

 小学生時代の神谷は、相撲が強く無敵を誇っていたという。「得意技も何もありませんよ、土俵に上がればそれだけで勝ち」。という程の圧倒的強さだった。神社の境内で行われる、小学生の相撲大会では、常に優勝候補の筆頭であった。

 中学に進学して、将棋に夢中になる少年を先輩のワルが待ちうけていた。

「生意気でしたからね」。今でこそそう笑うが、中学に進学したばかりの少年にとってはそれは悲惨な試練であったことは、想像に難くない。

 毎日のようにつきまとわれ、なんだかんだと因縁をつけられ、顔がはれる程、殴られた。「自分も体がガッチリしていて、同年代のは負ける気はしなかったけれど、その頃の2年差の体力は手合違いですからね」。

 喧嘩なんてもんじゃない。ただ、ただ耐えるだけの毎日だったようだ。

「今でも、あいつだけは許しません」という神谷の言葉に、中学生の少年が受けた理不尽な暴力への怒りの刻印を感じる。

 しかし、神谷はくじけなかった。

 いや、かえってそれに耐えることによって、強靭な精神力を鍛えあげていく。

 殴られながら育ってきた、そこに、神谷のふてぶてしい反骨精神、ものに動じない何か異質の精神力の原点があるのかも知れない。

 中学1年の終わり頃、苦しみながらB1に上がった神谷は、ここから一気に爆発する。B1から特Aまで、15連勝で駆け上がっていく。前後の2勝を加えて、17連勝。それは当時の浜松支部の連勝記録であり、おそらく今だに君臨する記録だろう。

 中学1年、将来の希望を聞かれ”プロ棋士”と答え、教示に怪訝な顔をされた5級の怪男児は、中学1年の終わり頃にはアマ四段の実力をつけ、より強い相手のいる静岡へ足を伸ばす。

 廣津九段の教室に月一度、電車で通い始め揺籃期に終止符を打つ。

 神谷は、二つの壁を、自力でクリアーしたのだ。

(以下略)

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神谷広志五段(当時)は、このインタビューの時に27連勝中。

次の対局で米長邦雄九段に勝って、現在に至るまで記録を破られていない28連勝を達成する。

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29連勝を阻止したのは室岡克彦五段(当時)。

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神谷広志八段の個性の源泉に迫る、若い頃の大崎善生さんの力作。

「16連勝した時に、塚田君が本気で心配しているという話を聞いて、それなら塚田の泣く顔を見てやろうと思った」や連盟道場での話など、いかにも神谷広志八段らしさ全開だ。

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昨日の記事の塚田泰明六段(当時)インタビューが21連勝中、今日の神谷五段インタビューが27連勝中。

昨日も今日も大崎善生さんによるインタビューだが、塚田六段も神谷五段も、もう1勝記録を伸ばして、その次の対局で連勝が止まっている。

たまたまの偶然なのだろうが、1勝だけ更に記録が更新される、嬉しいような嬉しくないような微妙な偶然だ。

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神谷八段のエピソードもいろいろとある。

神谷広志六段(当時)の歯に衣着せぬスタジオジブリ作品評論

とても優しい羽生善治竜王(当時)と神谷広志六段(当時)の趣味

先崎八段と行方八段

棋譜解説のほとんどない名観戦記(完結編)

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神谷八段の色紙も非常にユニークだ。(2014年の将棋ペンクラブ関東交流会に寄贈いただいた色紙)