谷川浩司王将(当時)「将棋を指せるのが嬉しい。この一言に尽きた」

将棋世界1995年3月号、神吉宏充五段(当時)の「今月の眼 関西」より。

 私は深夜から朝にかけて仕事をするのが好きだ。静かで遊ぶところもなく、仕事に集中しやすいからで、対局前でも結構関係なくやっている。

 その日もC2の順位戦を翌日に控えながらも、明け方5時過ぎまでワープロにむかっていた。打ち終えてプリントして、さあやっと寝ようかと思った瞬間である。

 少し体が揺れた…おっ、地震か。関西は地震が来うへんってみんな言うけど、時折揺れるんですなこれが。おお、これひょっとしてムチャクチャごっついんとちゃうか?

 ドーン、ドーン、グラグラドンガラガッシャーン…辺りは驚くほどの静寂。電気は最初のドーンで消え、その後は遊園地のビックリハウスで経験した感覚が蘇った。0.1トン以上あるこの体が家にシェイクされているのだ。

 これまでに味わったことのない大地震である。東京でならともかく、まさかの関西で食らった衝撃大パンチである。

 辺りは真っ暗。非常時の懐中電灯もどこかへ飛んでしまったようだ。私は暫く茫然自失の体で、揺り戻しの恐怖を何故か早く来てくれと願っていた。

 1月17日午前5時46分。関西を襲った大地震は、直下型のマグニチュード7.2、震度は最大で7と、関東大震災の数倍クラスのものとなった。その悲惨さは何度もテレビで取り上げられたので周知のことではあるが、関西在住の棋士達にもかなりの被害があった。

 現役・引退を含めて約50人が関西在住の棋士だが、やはり神戸近辺に住む30人ぐらいに被害が出た。海を埋め立てて一つの島のようにしたポートアイランドと六甲アイランド。液状化現象の被害が甚大で、連絡網も使用不能に陥った。

 この二つの島に住んでいたのが西川六段と谷川王将。西川は実家に帰り、実家も半壊の被害を受けた谷川は大阪のホテル暮らし。その足でタイトル戦に向かうのはどんな心境だろう。

 森(信)六段の家は全壊ではないが、とうてい住める状態ではなく、現在大阪の友人のマンションに。淡路八段も奥さんの実家に避難した。

 坪内七段、野田四段、畠山(鎮)五段もかなりの被害で坪内は奥さんの実家、野田は実家、畠山は関西将棋会館に避難した。酒井六段は家の周りが火の海だったとか…。

 とにかく関西の棋士はなんらかの被害を受けたのである。私はこんな震災の中「生きててよかった」とつくづく思ったし、何か原点に戻って考えたりするようになった。

 谷川王将もしかり。羽生六冠王を意識する事なく、自分の将棋を指そうとそれだけを考えてるようにみえる。王将戦の戦い方が全てを物語っている。

 将棋ファンの皆さん、これから関西の棋士達はコワイですぞ!

(以下略)

—–

将棋世界1995年4月号、谷川浩司王将(当時)の第53期A級順位戦〔谷川浩司王将-島朗八段〕自戦記「望みをつなぐ勝利」より。

 この原稿を書いているのが2月12日。早いもので、あの日から1ヵ月が経とうとしている。

 だが、この1ヵ月は私にとっては1年のように感じられた。お正月に一家7人京都のホテルで過ごした。そんな楽しい思い出は記憶の片隅へ追いやられてしまっていた。

 1月17日5時46分、地震発生。あまりの揺れにベッドの上で金縛りに遭ったように身動きが取れなかった。

 寝室には物をあまり置いていないので怪我はなかった。ただ、TVが台から落ちていた。

 部屋から出て、まず本棚から殆どの本が落ちているのに驚く。そして、リビングの飾り棚が倒れているのを見て愕然とした。

 もちろん実家に電話はつながらない。不安なまま夜の明けるのを待ったが、8時頃母から電話があり、両親の無事を確認してホッとする。但し、母は「あの家にはもう駄目ね」と言った。

 少し落ち着いたので、買い出しに行く。六甲アイランドに大きな被害はなかったようで、私はこの段階ではまだ地震の凄さに気付いていなかった。13階だから飾り棚が倒れたのだと思っていた。

 家に帰ってから、食器やガラスの片付け。夕方に電気は付いたが、TVが映らないので情報はラジオに頼るだけ。

 10時半頃横になる。だが、対岸ではあちこちで火の手が上がっている。気になって殆ど寝られなかった。

 18日6時頃、母から電話があり、叔父の家に避難している事が判る。

 安心したのも束の間、兄からの電話でLPGのガス漏れを知り、目の前が真っ暗になった。

 9時頃、自治会から避難勧告のアナウンスがあり、島の南側、カナディアンアカデミーへ避難。

 救援物資の昼食はおにぎり1個とペットボトル。30分程並んでもらう。

 並んでいる間、けたたましい音でヘリコプターが上空を飛んでゆく。ガスが爆発したら、船で脱出できるのだろうか、と心細くなった。

 情報がなかなか入らずイライラしていたが、5時頃、ガス漏れは峠を越したという事で避難勧告は解除。

 家にもどって、連盟手合課と20日の対局の打ち合わせ。

 米長先生にも電話する。「貴方の一番良いように」と言って頂いたが、明日10時の段階で決める、という事になった。

 19日、六甲大橋が渡れる事を確認し、妻の運転する車で9時半、出発。

 東灘、芦屋、西宮。惨状には目を覆うばかりだった。緊急車両が行きかう中、道路まで崩れ落ちた家の側を車で通り抜ける事に罪悪感を覚えた。

 尼崎に入ると、街は正常に活動しているように見えた。直下型地震の恐ろしさが改めて身にしみた。

 尼崎を過ぎてから車が全く動かなくなった。30分で100mしか進まないという有様である。結局、大阪のホテルにたどり着いたのは8時半だった。

 20日10時。何事もなかったように、関西将棋会館で対局開始。

 将棋を指せるのが嬉しい。この一言に尽きた。

(以下略)

—–

将棋世界、同じ号の大崎善生編集長(当時)の「編集後記」より。

 17日、谷川さんから電話が入った。「自戦記の原稿ができているんですが、送る方法が」。本当に真面目な人で頭が下がる思いだ。18日、谷川さんに電話。「昨日は家の中が滅茶苦茶になったぐらいで、何ともなかったんですが、プロパンが噴き出すとは、読めませんでした」と元気がない。「須磨の実家の方も心配です」

 しかし、対局延期かと思われた20日の順位戦に向けて、19日、谷川さんは敢然と家を出た。夫人の運転する車に乗り11時間をかけて。そして、難敵、米長前名人を破り、そのことは翌日のスポーツ紙に大々的に報じられた。被災している将棋ファンには大きな励みになったのではと思う。

 神吉さんは相当の被害を受けたが元気だ。「こんな時こそ、人を笑わせて少しでも明るくせな」

 若手棋士がチャリティー将棋大会を開くことが決定した。何と超多忙の羽生善治名人・竜王も参加するという。何人かの若手が飲んでいる席で自然発生的に湧いたアイデアだという。そして、あっという間に前ページの棋士達が集った。現在、関西本部でも同様の催しを企画中という。

 神戸在住の棋士達は、全員無事が確認されている。しかし、住宅が全半壊していたり、交通が分断されていたりで、避難中の棋士も多いという。支部関係者は連盟普及部に、ポツポツと無事の報告が入っている状況。皆様の一日も早い復興をお祈りします。

—–

 阪神・淡路大震災から20年。

1995年は、1月に大震災、3月に地下鉄サリン事件と、悲しい出来事が続いた年だった。

—–

谷川浩司王将(当時)が送ろうとしていた自戦記の原稿は、羽生善治六冠(当時)との王将戦第1局のもの。(谷川王将勝ち)

震災は第1局と第2局の間に起こった。

そして、谷川王将は4勝3敗で王将位を防衛することになる。

—–

翌年、谷川九段は無冠となるが、1997年には竜王・名人、なおかつ名人5期で永世名人となっている。

将棋世界1997年8月号で、神戸新聞の中平邦彦さんは谷川十七世名人誕生に、「何もいいことがなかったこの街で」というエッセイを寄せている。何もいいことがなかったこの街で、という言葉が非常に印象的だ。

 あの震災が、神戸を変えてしまった。街のたたずまいもそうだが、人の心に抜き難い何かを打ち込んでしまった。「いのち」のはかなさと、「いのち」には限りがあるという否応ない現実を。

 その思いは嵐のような修羅場をくぐり抜けた日々よりも、やっと落ち着いて、日常生活を始めたころに、より一層強くなったと思う。周りを見渡せば、近所のあの一家がもういない。別の一家は、両親が亡くなり、あちらの一家は最愛の一人娘を失った。

 つぶれた家は取り壊され、家族が丹精込めて育てた美しい草花だけが残り、季節が巡ってくると、けなげに咲いてみせる。その道を通るたびに、心がじわりと痛み、あわてて目をそらしてしまう。それから、じわりと「いのち」のことを考えてしまう。

(中略)

 では、そうさせたのは谷川の開き直りではなかったか。「いのち」のはかなさと重さに正面から向き合った身には、もうこれ以上怖いものなどない。そして、何もかも失って、ふっきれたように手が伸びた。将棋に勢いが出てきた。その勢いが羽生を誤らせた。谷川が勝ったのだが、羽生が勝たせたと言った方がより近い気がする。

 被災地の後押しもあったろう。悲惨を身近に体験し、その悲惨をこらえる人々を見ながら、何もできない自分。申し訳ないという思い。それが谷川の度々の被災地への寄付行為に表れているし、自分が将棋に勝つことで、被災者が希望を持ってくれたらという思いにつながっている。地元のファンはそれをよく知っている。そんな人々の思いが、谷川の背中を押したと思う。いいこともあるのだ。