花村元司九段「軌道はずれの将棋人生」(前編)

将棋世界1971年10月号、連載対談「軌道はずれの将棋人生」より。

ゲストは花村元司八段(当時)、聞き手は石垣純二さん(医事評論家)

石垣 「マージャンは連盟きっての打ち手とうけたまわっているのですけれど、花村さんのマージャンは、もう堅くて堅くて―たとえば満貫のテンパイをしていても、人がテンパイをしていると思うと降りる、という説が専らなんですが、これは将棋と逆じゃありませんか。なんでそんな堅いマージャンをおやりになるんですか……」

花村「それはやっぱり自分の勘を狂わせたくないという気持ちからです。私の将棋は直感ですし、マージャンも勘のゲームですから―。連盟ではBクラスの打ち手だと思っているんです」

石垣「ほおーあなたよりもっとうまい方がおられる?」

花村「と思います。事実、やってみればそう負けてはいないんですが、自己を主張すればA級の張り出しくらいじゃないか、とこう自信を持っているわけです」

石垣「しかし、放り込まない主義じゃ第一人者になれないと思うんです。満貫のテンパイを降りるということはなかなか出来ないことで、花村さんのマージャンをうしろから見ているとさっぱりおもしろくない。絶対、冒険をしない、という説があるんですが、これはどうも将棋の方と少々違うんじゃないかと思うんですが」(笑)

花村「マージャンはトップをとる以外ない。マイナスを少なくして―」

石垣「どうも不思議ですね。将棋の方は花村式奇手、村正の妖剣などといわれ、なにをやるかわからん、不気味だとお仲間にも恐れられている。相当冒険精神がおありだと思うんだが、マージャンは無類に堅い。それだけかと思ったら競輪の方も、連盟きっての輪歴をお持ちだそうで、たとえば3万円もって出かけたとすると1回に対し、3,000円づつきちんとかけ、決してこれというとき、どかっとかけるようなことはしない。まるで将棋と、将棋以外の実生活は逆だという説を、お仲間の方がいうんですが―。二重人格ですか、あなたは」

花村「いやそうじゃない、そんなひどい人間じゃない。(笑)―やはり齢と共に調和ということを考えにゃならんので」

石垣「佐藤さん(首相)みたいなこといわんでください」(笑)

花村「勝負では行くところは行く、逃げるときは逃げる。相手がテンパイしていちゃいけない。これは的中だと思う牌を投げて上がられたのでは自信を失う。勘がにぶっちゃう」

石垣「勘を一番大事にされる……しかし、大変失礼なことをいって怒らないでいただきたいんですけれど、花村さんの将棋というのは形勢が悪くなってから考えだす。だから花村さんが考えだすと、相手はしめたと思う。形勢が悪くなって考えだすのは素人のクセなんだそうですね。なるほどそういわれるとボクなんか形勢が悪くなって詰まされそうになってから考えますからね。あなたのお師匠さんの木村十四世名人は、勝ち将棋を勝ち抜くことが一番大事なんで、形勢のいいときこそ読めと。そうするとあなたは不肖の弟子ですかな」

花村「いや、将棋というのは直感力と思考力がある。直感と直感がぶつかる場合があるし、思考力と思考力がぶつかる場合もある。また直感力と思考力が交錯してケンカになる場合もある。私は直感で指したときの方が、強いということが多いんですね」

石垣「なるほど」

花村「まあ、私は直感力の代表的な棋士なら、加藤一二三八段なんていうのは思考力の代表だと思いますね」

石垣「加藤さんは昔は早指しだったそうですね。いまはものすごく考えますが……」

花村「直感で指し、それが優れておって正しければ、体力、能力が疲れないんです。直感力の長所というのはこういうところにあるんですね」

石垣「ハイ、ハイ……」

花村「それに反比例して、相手の思考力がいくら考えたってむずかしい。やっと正しい手を指しても非常に疲れるんですね」

石垣「なるほど疲れ方が違いますね。ところでまたこんなことをいって失礼なんですけれど、花村さんというのは中盤から終盤にかけては、何をやるかわからない。勝負、勝負と出てものすごく強い。ところが序盤はヒョイヒョイヒョイと指し、ちっとも時間を使わんと。どういうわけだろう。まあ、中終盤の強さに比べ序盤に難があるというんですが、考えるのはお嫌いですか?」

花村「定跡が頭の中に入っちゃってるんで考える必要がないというのが自分の考え方なんですね。前にもいったように、私は直感派ですから、まあ直感力が8割5分、思考力が1割5分しかないといった……」

石垣「するとあなたが考え出したら、自分のスタイルが崩れちゃって、思考型になっちゃっているから、いくら考えてももう大したことはないと……」

花村「プロは劣勢下においても、盤上この一手の好手をさがしているわけです。まだ投げるには早すぎると―。そして何とか勝負につながって逆転勝ちすると妙手、奇手、花村流だとかなんとか、観戦記者がうまく書いているんですよ」

石垣「いや、いや。私もねえ、花村さんが終盤で専門家も思いつかないような妙な手をやるのは、ハメ手と違いますかとお仲間にきいたことがあるんですよ。だが、その方はハメ手じゃないんだ、勝負、勝負と危険とスリルのあるような手を指してくるだけで、ハメ手じゃないんですという。しかしプロ同士でも高級なハメ手があるんじゃないですかといったんですが否定されました」

「少年時代につちかわれているんですね。そうした勝負のコツが……。私は17、18歳頃から賭け将棋で地方の棋士、いまでいうセミプロでしたから……」

石垣「東海の鬼といわれたそうですね。ずいぶんかせいで蔵建ちましたか?」(笑)

花村「いや、みんな費っちゃいました」

石垣「その方も直感的ですね。ところで賭博の罪は10年ですか?」

花村「5年でしょう?」

石垣「じゃあ、とっくに時効というわけですな」

花村「昭和17年頃、毎月4、5万円ほどかせいでおりましたね」

石垣「ヘェー。いまでいえば4千万円ですよ。堂々たる邸宅が一軒買える」

花村「昭和20年頃まで続きましたね。そしてかせぎに行くときには、いつも1万円くらい借金になっているんです。一銭もないから静岡に行って前田平太郎という真剣を指すおもしろい人がいましてね。この人が<おまっち、飛香落ちおれに指せるようならいつでも来い>といいましてね」

石垣「飛香を落としていい勝負なんですか」

花村「こっちが苦しいんです。当時、セミプロの第一級の堀内宗善、井上半香といった方々も飛香を落としたんじゃ勝てない。こっちは若いから、まだ青年ですから指していると一局、一局、一手、一手毎月こっちが強くなってくるんですね」

石垣「賭け金はどのくらいですか?」

花村「一局千円で3番くらい勝つと、4番目から2千円になる」

石垣「千円というといまの百万円ですよ。新聞将棋の対局料などバカみたいなようなものですなあ。(笑)ところで、その種金はどうしたんですか?」

花村「一銭もないから名古屋の博打打ちを金主に、静岡へのり込む。勝つと1万円返し利子もあげるは、配当もあげるは、というところでだいたい2万5千円ぐらいフトコロに入る。私の家は浜松で、静岡から20里のところだから寄って兄弟たちに5千円あげ、2万円もって意気揚々と名古屋へ行く」

石垣「そして中村あたりで沈没……」

花村「あけてもくれてもバクチと女。女郎さんですけど、負けても勝っても行くんです」

石垣「負けた場合、金はどうするんです」

花村「全部負けないから……。とにかく1ヵ月で2万円費えばいい」

石垣「いや、まったく信じられないような金を持っているんですね。2千万円も持って勝負に行くなんてことが……」

花村「当時、中村の親分とか,万勝寺の親分とか、上前津の親分とか、代官町の親分とか、あっちこっちおるわけです。時間の許すかぎり賭場に出入りしたもんです」

石垣「その頃、大金を持ち、若くて気風がよかったんだからモテたでしょうね」(笑)

花村「大したことない。バクチばかりやっているんだから―」

石垣「しかし、よく今日まで持ちましたねえ。死なずに……」(笑)

花村「22歳のとき、博多で平畑善介という人と戦ったことがあります。この人は当時、九州一の指し手といわれ、いまの広津八段(当時は少年だった)も亡くなった藤川六段(当時アマ五段)も勝てなかった。名古屋の花村二段だというと、じゃあ香落ちだというので向こうが香を落として指したが問題にならない。半香から平手になり、結局16番も平手で勝っちゃったことがあるんです」

石垣「賭け金はどのくらいでした?」

花村「平畑さんもセミプロですから賭け金は少なく、香落ちの分はおまけし、240円ほどフトコロにし、二人で丸3日、博多遊郭に居つづけ、二人で80円でした。その時、私より、2つ3つ上の相手方の女郎さんが連れて逃げてくれっていうんです」

石垣「やっぱり相当モテたんじゃないですか」(笑)

(つづく)

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月に4千万円も稼ぐとは凄いと思いながら、よく考えてみるとこれは1970年の11月頃に行われた対談。

オイルショック前なので、金額換算すると現在とはかなり異なる。

計算し直してみた。

昭和17年の大卒銀行員初任給が70~75円であったと言われている。

2015年の大卒銀行員初任給は205,000円というところが多いようだ。

これから計算すると、昭和17年の1円は2015年の2,733円~2,929円。

花村元司青年が昭和17年頃に稼いでいた毎月4、5万円を、この比率で計算すると、現在の1億932万円~1億4643万円ということになる。

桁が一つ少なくても驚きの月間収入なわけで、本当にすごい。

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賭け将棋は、対局相手と1対1でお金を賭ける金額よりも、ギャラリーがどちらが勝つかに賭ける金額のほうがはるかに大きい。

金主は博徒系の親分。戦時中で娯楽などが少なくなっている時期、大きな場が立ったことだろう。

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花村九段が22歳だった昭和14年の博多の遊郭が3日間で一人40円。

先程の換算をしてみると、現在の11万円くらい。

「花村の三割返し」という言葉を聞いたことがある。

花村青年が賭け将棋で勝っても、負けた相手に賭け金の何割かを戻すというものだ。

こうなると相手からも恨まれないし、また次も賭け将棋をやってみようという気にもなる。

博多の遊郭は、花村青年の三割返しに当然含まれていたのだろう。