将棋マガジン1991年3月号、バトルロイヤル風間さんの「将棋リングアウト」より。
プロレスの観戦初めはしたけど、将棋の指し初めはしていないのに気づいた私は、1月5日将棋会館へ行った。雑誌などで見た事のある指し初め式をやる日なので。
将棋マガジンの編集部で、僕からの年賀状が意味不明だと説教されていると、放送が流れてきた。「指し初め式を11時より特別対局室でとりおこないます」とのこと。N島一彰さんに「行かないんですか?」ときいたら、「職員は参加できないんです」と淋しげにおっしゃっていた。「じゃあ、僕なんかまずいんじゃないですか?」とわざとらしく聞いてみたところ、「新聞、雑誌等の関係者ですから、風間さんには参加してもらわなきゃ困りますよ」だって。くくく、苦節7年将棋漫画を描き続けた甲斐があった。国の両親にこの晴れ姿を見せたいものだ。
特別対局室。それは特別な対局の部屋。僕みたいな特別なヘボが指していいのかな。おお、二上会長、加藤治郎名誉九段、原田泰夫九段をはじめ理事の方々、そして、各社の記者と棋士の方々が18畳の部屋にぎっしり詰まっている。緊張するなあ。
が、ムードはいたってなごやか。長谷部理事の開会の辞の後、加藤、原田両御大が駒を並べます。ご両人の会話が楽しい。
「古式にのっとって並べねば」
「ヘボ先ね」
「はげしい奴ね」
「二人ともハゲだから」
と、加藤先生のセリフです。たとえばコメディなんかの台本だとすれば、どうってことのないギャグです。が、お正月のなごやかさと儀式の厳粛さのまじった雰囲気の中で、ご両者のキャリアの重みやキャラクターの温和さがあいまって、上品な笑いが特別対局室を包みます。こーゆーのを目撃するのって、なんかラッキー。
ご両者が2手ずつ指した局面をひきついで、棋士と記者が2手ずつ指し継ぎます。
「長考はなしだよ」
「そりゃ面白い手だ」
とやじが飛びまくり、対局者も二言三言、冗談を言って、次の人と交替。
自分の番がくると、立ち上がり、両側に座っている人に頭を下げ、座って指先でつまんで、また頭を下げて帰ってくる。なんて、お葬式みたいだな、などと正月らしくないことを考えているうちに僕の番となった。
緊張して盤の前に座る。対局者を見る。あれ、この人誰だっけな?と思ったけど、まあ、いいだろうと、頭を下げる。
すると原田先生が、
「このお二人はどちらの社かな?」
だって。ガーン、し、し、知られてなかったのねえ。10年早かったなかあ~。僕の7年間の将棋漫画は何だったんだろう!
「将棋漫画をかいてるバトルロイヤル風間さんです」
「ああ、あの賞をとった」
そう去年、原田先生が名誉会長をしてくださっている将棋ペンクラブの特別賞をいただいた、かざまめでごせーますですよお。
「こちらは佐藤秀司君。新四段の」
「新四段の佐藤君とはこんな方か」
おたがい知られてないと、困ることもあるもんだねえ、佐藤君。
盤面は序盤から中盤へかかろうというところ。わからないのでかわいく端歩を突いたけど突き返してもらえなかった。
皆指し終わり、別室で乾杯です。特に最後までは指さないようです。ビールやお鮨をいただく。一食助かりました。ウィ~。
その夜、プロレスを見て、うちに帰ると原田先生からの年賀状が届いていました。
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指し初めの日は、鳩森神社「将棋堂祈願祭」→指し初め式→4階大広間で乾杯、という流れ。
この当時の指し初め式は1人2手だったが、現在は1人1手。
関西将棋会館での指し初めは、東京とは違って、たくさんの盤・駒で棋士・関係者などが一斉に思うように自由に指していくスタイルで、その後、乾杯。
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4階大広間での乾杯。
10年ほど前までは、毎年、最後まで飲み続けている人たちはほとんど同じ面子だったようで、その人たちと夕暮れ時に落ち合って、中野などで飲むことが多かった。
2008年の例では、次のような展開。
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昭和の頃まで、1月4日が仕事始めで、朝、社長の年頭の話を聞いた後は、各部署で乾杯。その後は適当に帰ってよし、という時代があった。
平成になって、飲むだけなので1月4日は休みにして、1月5日が仕事始めに変更となった。(社長の年頭の話→通常の業務の流れ)
個人的には、ほとんど飲むだけの1月4日がなくなって残念な気持ちになったものだった。
そのような意味でも、指し初め式はとても素晴らしいことだといつも思っている。