勝浦修九段「子どもを弟子にしてくれませんか、と頼まれたんですよ。その子どもが小学生の森内くんでした」

将棋世界2002年8月号、勝浦修九段の「師匠から新名人へのメッセージ」より。

 私が奨励会に入会したのが昭和37年。そのとき北海道から上京して東京の高校に通学することになったのですが、師匠の渡辺先生(東一名誉九段)が京須先生(行男八段)と生前とても親しかったという縁で、世田谷の京須先生のご自宅に下宿させてもらいました。

 それから数年間、私が四段になるまでお世話になりました。京須家を出てからは、先生のご家族の方々とはまったくお付き合いがありませんでした。それが昭和57年の夏、日本橋東急の将棋まつりに出演していたとき、私とほぼ同年の先生の娘さんが訪ねてこられました。そして「子どもを弟子にしてくれませんか」と頼まれたんですよ。その子どもが小学生の森内くんでした。

 入門当時、森内くんと飛香落ちで指したことがありましたが、上手の完敗でした。子どもの割には集中力があったし、とにかく強かったですよ。

 奨励会時代は森内くんとはほとんど指していません。アドバイスもしませんでした。師匠というものはそういうものかと、自分自身の体験からも思っていました。まあ、島さん(朗八段)のような先輩棋士に可愛がられていたし、技術面で心配することは何もありませんでした。

 10年以上前に私の自宅で、若手棋士や奨励会員を集めて月に1回、研究会を開いたことがありました。主なメンバーは弟子の野月くん(浩貴五段)、金沢くん(孝史四段)、それに豊川さん(孝弘六段)らでした。その中では、森内くんが抜きん出ていて、まるでみんなに教えているような感じでしたね。

 森内くんは昨年の全日プロで谷川さん(浩司九段)と決勝五番勝負を戦いましたが、いま振り返ってみると、あのころから彼の顔つきが変わってきたような気がしますね。きっと何か期するものがあったのでしょう。

 今年の名人戦では、森内くんから私のほうに連絡が一切ありませんでした。第4局のときは負けるような気がして私は衛星放送を見なかったんですが、翌朝に新聞を見て「あっ」と思いましたよ。すると森内くんから電話がかかってきて、「おかげさまで」と。師匠として口では言えない喜びがありました。

 森内くんの将棋は技術的には完成していると思います。これからは名人として人間性をさらに磨いてほしいと望んでいます。また「選ばれし者の責務」という言葉がありますが、将棋界の顔になって全体を見渡すような視野を持ってほしいですね。

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京須行男八段は昭和35年に亡くなっているので、勝浦修少年が京須邸に下宿をしたのはその2年後からということになる。

京須八段は奨励会幹事を務め、面倒見がよく義理人情に厚い人だったと言われている。

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2011年、将棋ペンクラブ会報に、東公平さんによる思い出話シリーズが連載され、その第1回目が「森内俊之九段の祖父にあたる故・京須行男八段」だった。

会報には対局中の京須八段の写真も掲載しようということになったが、対局中の京須八段の写真は将棋誌に載ったことがなく、東さんも持ってはいなかった。

編集担当幹事の湯川博士さんが森内九段に電話で聞いてみると、「僕も持っていませんが、母に聞いてみましょう」。

森内九段は、わざわざ実家のお母様を訪ねて京須八段の対局中の写真を見つけ出したという。

その貴重な写真が下の写真。

京須八段の横顔は森内九段によく似ているような感じがする。

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森内九段の子供時代は、お母様などの話によると、腕白でいたずら好きで行儀が良くなかったという。

それが、将棋を覚えるにつれ、行儀がよくなってくる。

森内少年の作文

森内俊之名人への手紙

三浦弘行九段も研修会時代まではとんでもなく腕白な少年だったので、将棋に打ち込むと行儀がよくなる、ということは真実のようだ。

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勝浦修九段は非常に魅力的な人柄だ。

クールですべての物事を瞬時に見通すような鋭いオーラを持っているのに、いかにも昔ながらの将棋指し。

勝浦修九段が酔った時の口癖

愛すべき勝浦修九段(1)

愛すべき勝浦修九段(2)

クールで熱い勝負師

夜の新宿 大人の人情

「ようし、きょうは呑むぞ!こうなったら外へ出よう。中原さんも付き合ってくれるでしょうね」