谷川浩司名人(当時)「これには、温厚(?)な谷川名人もカチンときた」

将棋世界1984年5月号、谷川浩司名人(当時)の全日本プロトーナメント決勝第3局〔田中寅彦七段-谷川浩司名人〕自戦記「この一番の意味するもの」より。

「あのくらいで名人になる男もいる」

 本誌2月号、田中寅彦七段の自戦記の一節である。

 これを読んだ中原十段、いつもの微笑みを浮かべながら、「これは私じゃないんだろうね」と言われたとか。そんな言葉を聞くと、ますます中原十段が好きになってしまうのだが、それはそれとして、「あのくらい」が誰を指しているのかは言うまでもない。

 あのくらいの「実績」なら、私も納得するが、そんな生易しいことを言う人ではない。当然「実力」であろう。

 これには、温厚(?)な谷川名人もカチンときた。

 が、頭にきて、意地を張って、飛車を振って、居飛車穴熊に組まれて、負ける、というのが、今までのパターンである。それが1勝3敗の成績。

 それに、気合が入ると、却って自分の実力が出せないのが私の性格である。これは自分自身が一番良く知っていることだ。

 今度の決勝三番勝負は、普通に指して、普通に勝とう、と思った。

(中略)

 第1局。谷川先番。相矢倉で辛勝。

 第2局。田中先番。飛先不突矢倉に惜敗。

 そして第3局。

 振り駒で、先手になれば、相矢倉で良い。問題は後手の時である。

 第2局では、飛先不突矢倉を見せられたので変化したが、反発されて簡単に作戦負け。今度も飛先不突矢倉に違いない。その時に対策がないのである。

 今まで飛を振っていないのは、我ながら冷静だが、新たな問題が生じてきた。

 連盟へ向かう阪急電車の1時間は、アッという間に過ぎてしまった。

谷川田中1

1図以下の指し手
△5三銀▲2六歩△3二飛▲2五歩△3三角▲6八玉△6二玉▲7八玉△7二銀▲5八金右(2図)

 △5三銀。予定である。9分考えているがこれは気持ちの整理をつけた時間だった。

 が、最初から飛を振るのは「挑戦」だが、陽動振り飛車では、居飛車穴熊にも組ませない、飛先不突矢倉も回避する。これでは「逃げ」かなと、指しながら嫌な気分だった。

 もっとも、▲7七銀と△8四歩の2手が、どちらに有利するか、という問題で、有力な作戦ではある。

谷川田中2

2図以下の指し手
△7四歩▲6八銀△4四歩▲4六歩△2二飛▲3六歩△5二金左▲3七銀△7一玉▲3五歩(3図)

 2図。まだ「逃げ」にこだわっている。

 作戦勝ちすればいいんだ、と思った。作戦勝ちさえすれば、「逃げ」ではない―。

 △7一玉▲7五歩△5二金左▲7六銀△4四歩と指すつもりでいながら、位取りをさせない、とばかりに△7四歩。

 ▲4六歩にも、△5二金左▲4五歩△4二飛▲3六歩△7一玉で一局なのに、仕掛けさせない、と△2二飛。

 が、平手将棋で作戦勝ちなどそう簡単にできるものではない。たった2分で▲3五歩と突かれて、夢は吹っ飛んだ。

谷川田中3

3図以下の指し手
△同歩▲2六銀△4五歩▲3三角成△同桂▲3五銀△4六歩▲3四歩△4二飛▲3三歩成△4五飛▲3四銀△3五飛▲4三銀成△6四角▲5二成銀△同金▲4三金△6二金▲5三金△同金▲4三と△同金▲2六角

 なんということだ―。

 あんなに色々と作戦を考えたのに、一番悪い順を選んでしまうとは―。

 それにしても、田中七段はどうして2分で決断したのだろう、と思った時、やっと気がついた。これと全く同じ将棋を、田中七段は丸田九段との昇降級リーグ戦で指しているのである。(編註・58年11月4日に対戦。わずか51手で田中が快勝している)

 家に帰って近代将棋を読んだら、すべての変化が丁寧に書いてあるのには呆れた。本を読んでも、忘れてしまってはいけない。

(中略)

谷川田中4

11図以下の指し手
△7二飛▲3一銀△1二玉▲2四歩△5五桂▲同銀△7七歩成▲5七玉△4五桂  まで、128手で谷川の勝ち

 残りは23分。充分な時間だった。全てを読み切ったつもりで、△7二飛。詰めろ逃れの詰めろである。私の自信満々の手つきに、田中七段もあきらめたようだった。

 ▲3一銀△1二玉▲2四歩は、仕方がない、といった感じの指し方で、△5五桂から即詰みに討ち取った。

 ところが感想戦、田中七段から声が出た。

 △7二飛に、▲3三銀△同玉▲3四銀△同金▲4三と△2二玉▲3二と△1二玉▲3四角成(H図)としたら、と。

谷川田中5

 何と、金銀二桂三も持っているのに、先手玉がどうしても詰まないのである。

 △7二飛は、決めたふりをした大悪手。△7七金▲同銀引△同歩成▲同玉△7八飛▲8六玉△8五銀▲同角成△同歩▲同角成△7四桂▲同馬△同飛成が正解だった。

 実は、私もこの順は読んでいたのだが、この時に自玉が詰むと錯覚していた。

▲3一銀△3三玉▲4二銀不成△3四玉▲2六桂△4五玉▲4六銀△3六玉▲3七金△2五玉▲1六銀△2四玉で打ち歩詰め!

 私が△7二飛と打ってから、田中七段が▲3一銀を打つまでの1分間、逆転していたのである。

 打ち上げの席で、田中七段に、「今回は色々と挑発的なことを言って、すみませんでした。でも、この方が盛り上がると思って」と、全く予想外のことを言われ、驚いた。

 確かに、現在の将棋界はおとなしすぎるようだ。田中七段の発言のおかげでFOCUSも取材にきたのである。私も、少し考えるべきかな。

* * *

 三番勝負、勝負は2勝1敗だったが、将棋は1勝2敗、今回は痛み分けである。

 そして、今日から、また新たな戦いが始まるのである。

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これにて一件落着。

と思えたのだが、この後、そういう雰囲気でもなくなる。

それについては、また明日。