「将棋に逆転の悪手はあるが、逆転の妙手はない」

将棋世界2005年8月号、内藤國雄九段の「必至について思うこと」より。

 ここでちょっと余談。妙技という言葉で思い出したことがある。「将棋に妙手はないと内藤九段は言っている。そのレトリックは分かるが、観戦記者は勝者をほめる役目なのでその説に賛成できない」と東公平氏が朝日の観戦記に書かれていた。これには当の私があれっと思った。詰将棋も必至も妙手があってこそ価値がある。実戦は別に妙手がなくても勝てばよいわけだが、私は実戦でもこれを求め過ぎていて、それが自分の(勝負に甘くなってしまう)欠点ではないかと考えるくらいである。いわば日夜妙技、妙手の追求にあけくれている私が自ら否定するとは奇妙ではないか。どこでこういう誤解が生じたのか、考えてみると「将棋に逆転の悪手はあるが、逆転の妙手はない」といつか発言した。「必敗の将棋を一手で逆転させるという図を作ってほしい」という依頼を受けたときに言ったのである。勝つ手があるのなら形勢は有利だったということ。つまり逆転という発想を否定しているのであって、妙手の存在を否定しているのではない。私は常々東公平氏を敬愛しており、観戦記も愛読させてもらっているから、あえてこの誤解は正しておきたい。

(以下略)

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なるほど、目から鱗が落ちるような話。

正しい手(絶妙手)を指して逆転したように見えたのなら、それはもともと形勢が良かったということ。

正しくない手(悪手)を指して、相手がこれに間違った応手をして逆転する場合のみが「逆転」。

そういう意味では、「勝負手」は多くの場合「逆転の悪手」ということになるのだろう。

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あるいは妙手が指される一手前に相手が悪手を指して、その時点で実際には形勢が逆転。その悪手をとがめる妙手を指して、その時に逆転したように見える、という展開。

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コンピュータソフトでどの時点で逆転したのかが分かるわけだが、これはこれで便利なようにも思えるし、味気ないようにも思える。