羽生善治棋王(当時)「長年の付き合いだから、分かるんです」

将棋マガジン1991年12月号、鈴木宏彦さんの第22回新人王戦決勝三番勝負第1局〔森下卓六段-森内俊之五段〕観戦記「力と力、ぶち当たる」より。

将棋マガジン同じ号より。

 すごい将棋だった。山ほど見所のある将棋だった。最初にだらしなく弱音を吐いてしまうと、僕にはこの将棋と見所をうまく伝える自信がない。

 この二人の強さは、谷川や羽生の強さのように、誰でもホホウと感心できるような強さではない。序盤で相手の手を殺し、中盤で相手の手を殺し、終盤でも相手の手を殺して、最後は自分が勝つというのが、この二人の将棋であり強さなのだ。懸命なる読者は、解説などすっ飛ばして最初に棋譜を並べて見ていただきたいと思う。指し手の意味など分からなくても、これが勝負だという二人の気迫は必ず伝わって来るはずだ。

(中略)

 1図が午前11時の局面。2図が午後5時の局面。6時間の間に動いた駒はわずかに13個だけ。観戦者は気楽なものだが、対局者は棋力と体力をすり減らして手を読んでいる。

 6時間の間に見た珍光景2つ。

 昼食時。森下が味噌汁を膝の上にこぼした。周囲は驚いたが、前もって対局用の和服を着替えていたために大事には至らず。彼の用心深さは将棋も実生活も同じ。

 午後4時。「もうだめです。相手が悪すぎます。来期また頑張ることにします」。手合係のところに顔を出した森内のセリフ。そんなことを言いながら、今日の将棋が千日手指し直しになった場合、第2局の先手番がどちらになるのかを、しつこく聞いている。

(中略)

 後手陣はこれ以上ないという悪形になった。だが、手段に困ってきたのは、どうも先手の方なのだ。えんえんと続いた力比べだが、ついに森下の足が一歩後退した感じ。そして△1五角。

4図以下の指し手
▲5五角△5四歩▲4六角△3二金▲1六歩△2四角▲同角△同歩▲7七角△3三銀(5図)

「森下さん、これは読んでなかったな」

 森内の△1五角を見た瞬間、羽生が断言した。そして「長年の付き合いだから、分かるんです」。

 凡人には分からない電波が走るのだろう。羽生の言うとおり、森下はここで迷い、間違えた。

 △1五角には、▲4八金△3九銀▲2五飛△4八銀不成▲1五飛△1四歩▲1六飛というコースが正解だったようだ。続いて△3七銀成には▲5五角打がある。

 本譜は森内が巧みに2筋と3筋のきずを消してしまう展開になった。△3三銀と手厚く埋められ、歩切れの先手はどうにも手がないのだ。

(中略)

 △8四角。これも好手。▲同角△同飛と進んで、先手の7四銀が助からない。

 この辺り、控え室の検討は打ち切られそうになっていた。銀桂交換プラス2歩損。わずかといえばわずかな差だが、「森内なら、もう間違えない」という空気がある。終局後の森内を待っている郷田四段と中田功五段が碁を打ち始め、羽生も「そろそろ帰ろうかな」と言い出した。

 ところが……。先の秒読みに追い込まれた森下だが、このあとに再び見せ場をつくるのだ。

 執念、根性、気力……。さっきまでは森内、今は森下。二人のこの頑張りはそういう表現を超えている。

(中略)

「△8四歩か。森内らしい手や。駒の上に『森内』と書いてある」

 いつの間にか控え室に現れた阿部五段が大きな声を出した。△8四歩に▲8一飛なら、△8五歩▲6二角成△8九角▲7七玉△6五桂▲6六玉△3七飛成で後手勝ちという寸法。一見地味で何の変哲もない△8四歩だが、実は本当の急所を押さえている。これが森内の将棋なのだ。

(中略)

 あの将棋。勝負がついたのは、結局どこだったのだろう。あれから3日考えたが、いまだに分からない。はっきりしているのは、この二人の対決がもう一度待っているということだ。必ずまたすごい将棋になるだろう。とにかくすごかった。

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「序盤で相手の手を殺し、中盤で相手の手を殺し、終盤でも相手の手を殺して、最後は自分が勝つというのが、この二人の将棋であり強さなのだ」

この対局は、相手の狙いに対して1~3手前に備えるような手の殺し合いが続いた。

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森内俊之九段は、この当時は芸術的とも言える自虐的なボヤキが何度かあった。

森内俊之四段(当時)「ひどかったす。死にました。もう投げます」

森内俊之五段(当時)「僕はバカです。死んだ方がいい。もうダメだ」

しかし、この時の「もうだめです。相手が悪すぎます。来期また頑張ることにします」は、現在進行形。

2図の近辺を見るとそのようには見えないので三味線のように聞こえるが、後手にとってはかなりまずい局面だったようだ。

将棋世界1992年1月号、森内俊之五段(当時)の第22回新人王戦第2局〔森内俊之五段-森下卓六段〕自戦記「異次元の将棋」より。

 2図は第1局の一場面、私が今期の新人王戦のおいて負けを覚悟した2度目の局面である。

 最初に負けたと思ったのは、準々決勝の藤井四段戦だった。その時は相手の一つの大悪手により復活したが、今度はもうだめだろうと思っていた。

 森下六段を相手に、三番勝負の第1局を落とす事はシリーズの負けを意味している。正直に言って観念していた。

 2図の局面は先手にとって手が決まっている局面だ。▲5六歩というのは、プロにとってはあり得ない手なので、期待できるのは▲5四歩、▲2四歩ぐらいだが、どちらも指してくれる望みは薄い。

 次の一手▲4五歩を指されたら、夕食休憩まで大長考して玉砕するつもりだった。ここまできたら負けるのは仕方ないが、最後まで苦しめてやろうと思っていた。

 覚悟を決めて、△5五同銀左としてからわずか4分後、森下六段は駒台の歩を5四の地点に置いた。

 瞬間、肩の力が抜けたようだった。

 助かったという気持ちも、もちろんあったが、それ以上に気合をそがれた感じがした。

 午後5時になり鐘の音が聞こえてきた。いつも聞いているその音が、これからまた始まる長い戦いを励ましてくれているように私には感じられた。

(以下略)

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この期の新人王戦決勝三番勝負では、森内五段が2勝0敗で優勝している。

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羽生善治棋王(当時)の、

「森下さん、これは読んでなかったな」

「長年の付き合いだから、分かるんです」

付き合いが長いとはいえ、このようなことまで分かってしまうのかと、驚いてしまう。

逆に、このように分かられていては、勝つのも大変そうだ。

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「終局後の森内を待っている郷田四段と中田功五段が碁を打ち始め」

終局後は麻雀ということなのだろう。将棋界の麻雀は3人麻雀なので、2人待っていれば卓が成立する。

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「△8四歩か。森内らしい手や。駒の上に『森内』と書いてある」

7図の△8四歩。腰の座った落ち着いた一手。この頃の森内流をじっくりと味わうことができる。