将棋マガジン1992年12月号、読売新聞の小田尚英さんの第5期竜王戦挑戦者決定三番勝負第3局〔羽生善治棋王-佐藤康光六段〕観戦記「羽生、再び大舞台に」より。
三番勝負を含めた決勝トーナメントの谷川の予想は、本命・羽生、対抗・高橋九段、続くのは脇七段、村山六段だった。ただし対抗については、初戦で当たる高橋か佐藤かで大いに悩んでいた。谷川の予言はその高橋-佐藤戦以外はすべて当たった。炯眼には恐れ入るが、本命・羽生は大方の予想でもあった。そしてベスト4のうち3人が、かつてのチャイルドブランドである。改めて将棋界の流れを感じさせられた。
三番勝負に登場した羽生と佐藤は東西は違うが奨励会の同期であり、チャイルドブランドと言われたのも同じ。この時点で勝率1位と2位を烈しく争っている好調同士。ランキング戦2組決勝戦の再戦(2組は羽生優勝)でもある。羽生もむろんそうだが、佐藤の三番勝負進出も順当といって差し支えはなかろう。実力、勢いとも素晴らしい二人なので、予断を許さない戦いになるだろうと思った。
(中略)
いよいよ決戦の第3局。竜王戦の三番勝負で第3局にもつれ込んだのは第1期(米長◯●◯-高橋、中原◯●●-島)以来のこと。七番勝負までの日数が減るので準備が多少慌ただしくなること以外は、設営者にとっては大歓迎である。当日はどちらが挑戦者になってもすぐ対応できるように記事の準備を整えてから千駄ヶ谷に向かった。事実、どちらの原稿を使うのか最後までわからない熱戦になった。
振り駒の結果、先手は羽生。角換わりに導いた。1図は昼休後、組み上がった局面。昨年の谷川-森下の七番勝負でも現れた先手7九玉、3七桂、後手3一玉、7三桂の先後同形からの仕掛けを新型とするなら、1図は旧型である。
そしてここから羽生は▲4五歩と仕掛けた。これには控え室の棋士たちが驚いた。「見かけない仕掛けだなあ」「確か千日手になる局面じゃなかったっけ」。これまでの研究、実戦ではこの仕掛けは無理とされていたはずだ。だから研究、実戦の主流は、試行錯誤や工夫を重ねながら新型に移った、というのだ。
定跡への挑戦、羽生が、かねてから用意していた新工夫の仕掛け方かと思ったのだが、これははずれ。ちゃんと伏線があった。
羽生「3年前、勝ち抜き戦で佐藤さんとほとんど似た将棋を指したんです。その時は逆側を持ってまして、攻められて困りました。それで正しい受け方を教わろうと」
1図から▲4五歩△同歩▲同桂△4四銀▲3七角△6二飛。角を据えてから▲1五歩と端に手をつける。△同歩▲同香△1四歩▲同香△同香▲1五歩までは変化はあるが当然のやり取り、と控え室の研究陣。ここで羽生が「やはり正しい受け方を教わりました」と言った手が2図の△4六歩。
「この手が見えてませんでした」△4六歩は「大駒は近づけて受けよ」であり、「焦点の歩」である。なるほど、飛車でも角でも取りにくい。
(中略)
6図から飛車取りを放置した▲5五銀が、控え室の予想を上回った勝負手第二弾。なんとも羽生!といった感じの一着だ。この時点で佐藤の残り時間は6分。うち4分の時間を割いて△6五角。羽生は当然▲4四銀。これで7図。本局のハイライトシーンである。
ここで「先に香を走られていたら負けでした」(羽生)。本譜は、飛車を取って当然に見える△4六歩と▲4三歩の交換を経て△8六香。この違いは?
単に△8六香だと、これは詰めろで手が抜けない。▲同金か▲同銀と取るしかないが、そこで△4六歩と飛車を取ればこれがまた詰めろ。つまり、先手は▲4三歩(詰めろではない)と打つ余裕がない。▲4三歩に代わる手もなさそうなので後手が勝ちという理屈だ。
佐藤、痛恨の手順前後。
ほとんどない残り時間も考えるとこれは、いわゆる「指運」の領域。勝負の流れからして、ここで挑戦者の座は佐藤から羽生に移った。
(中略)
さて、いよいよ七番勝負となる。2年前に続いてこのカードを間近で見られる私は幸せ者である(もちろん毎年幸せなんですが)。
短期的に見ても仕方がないとは思うのだが、今回の七番勝負は、今後の将棋界の流れを占う意味でとても興味深い。なにせ三冠対二冠の対決だ。
(中略)
今年も、将棋の内容では当然、好局、名局が期待できる。本当にわくわくする。三番勝負が終わった翌日に両者に抱負を聞いた。
谷川の談話は「今一番戦いたい相手であり、一番戦いたくない相手です」に尽きる。
「問題は現在の私の調子。2年前くらいから年度の前半は悪く8月から調子が上がっていたのですが、今年は9月に入ってもよくない。雑用が多いという理由がはっきりしているし(10月3日挙式)、仕方がないと思って10月から心機一転します。戦型はやはり矢倉でしょう。こちらが先手なら角換わり、羽生君が先手なら最近ひねり飛車を多くやっているのも頭に入っています。2年前に比べれば羽生君は強くなったし、立場も違う。このところ、タイトル戦に慣れて出足が悪いのですが、追い込める相手でもないので、スタートが大きな比重を占めると思います」
一方の羽生は「ぜひ前回の雪辱を果たしたい」に集約される。第3局直後に、竜王の確率は「五分五分です」と答え、自信をのぞかせた。
(もっとも谷川の結婚式の二次会で司会の神吉五段にそのことを聞かれ「誘導尋問にかかりました」と打ち消していたが)
「2年ぶりに大舞台に戻れてうれしい。2日制の対局はそれ以来なのでそれも楽しみです。久しぶりに今年は調子がいいです。谷川さんは、王位は取られましたが、竜王戦に照準を合わせてこられるでしょう。例年この時期から調整されてますから。戦型は谷川さんが先手なら角換わりが多いでしょうが、僕の方は分かりません。シリーズに入ってその場その場で決めることもありますから」
勝敗の予想は、この原稿を書いている時点では、羽生有利の声の方が多く聞かれた。近年の谷川が出るタイトル戦で相手が有利、という下馬評は珍しいが、それだけ羽生の調子がいいということなのだろう。ただし、直前対決の日本シリーズでは谷川が勝った。勝敗予想は極めて困難。シリーズに入ってのお楽しみである。
* * * * *
「3年前、勝ち抜き戦で佐藤さんとほとんど似た将棋を指したんです。その時は逆側を持ってまして、攻められて困りました。それで正しい受け方を教わろうと」
竜王戦挑戦者決定三番勝負の第3局であっても、将棋に対する探究心がどんどん湧き出る羽生善治棋王(当時)。
相手の研究に躊躇することなく踏み込むという常に変わらぬ姿勢だ。
* * * * *
ちなみに、この勝負に勝つと負けるとでは、賞金と対局料で1,245万円以上の差が出る。
* * * * *
「6図から飛車取りを放置した▲5五銀が、控え室の予想を上回った勝負手第二弾。なんとも羽生!といった感じの一着だ。」
6図からの▲5五銀は、個人的には10年考え続けても思い浮かんでこないような一手。
「なんとも羽生!」という表現が絶妙だ。
* * * * *
本局では指運のなかった佐藤康光六段(当時)だが、この翌年、竜王戦で挑戦者になって羽生竜王を破り、竜王位を獲得している。
* * * * *
谷川浩司三冠(当時)の「今一番戦いたい相手であり、一番戦いたくない相手です」。
この短い言葉の中に様々な思いが込められている。
「名人位を1年間預からせていただきます」をはじめとする谷川九段の名言の数々は、そのまま広告のコピーになっても不思議ではないものばかり。
* * * * *
「もっとも谷川の結婚式の二次会で司会の神吉五段にそのことを聞かれ『誘導尋問にかかりました』と打ち消していたが」
竜王戦第3局が終わったのが11月19日。
谷川三冠の結婚式は10月3日。
そういうわけなので、結婚式の二次会で神吉宏充五段(当時)から聞かれたのは、「五分五分です」ではなく「ぜひ前回の雪辱を果たしたい」という言葉について。
よくよく考えてみれば、タイトル戦の相手の結婚式二次会でこのようなことを突っ込まれるのも、面白いというかすごい。