将棋マガジン1993年7月号、東公平さんの「升田幸三物語」より。
升田が1勝3敗とカド番に立たされた第18期名人戦。第5局は昭和34年6月11・12日の両日、東京の「羽沢ガーデン」で行われた。
「あそこは大山の牙城だからな」
そんなことは言ったけれど、升田は別段ここでの対局を嫌うふうでもなく、広い庭園や座敷など、むしろ好みに合った場所らしかった。牙城とは、大山が女将と特別に親しかったことを指している。
「陣雲暗くして将帥病む―升田の病状は本当に重かったのである」
金子金五郎の観戦記は、重々しくはっきりと升田の病体を伝え、健康そのものの大山の姿に対比して「升田は左の手のひらの裏を返したりしてそれを見つめはじめた。病人が所在ない時によくやる動作である」と観察している。
『升田幸三選集』の第4巻に、この第18期名人戦の棋譜は、たったの1局しか収録されておらず、敗れた4局は全部割愛されている。おそらくこうだ。升田は「確かに大山君相手に接戦はしてみせたが、あれは升田の将棋じゃなかった」と編集者に言ったのだろう。
相矢倉から互いに手待ちがあり、参考A図の△7五歩は56手目。
升田自身は「もちろん作戦負け」と言っている。が、その通りなのだろうか。
参考A図以下を少し記そう。▲4四歩△同銀▲2四歩△同歩▲4五歩△3三銀▲5三角成△同銀▲7五歩△4六歩▲同銀△4七角▲2六飛△6四銀▲6一角△7一飛▲5二角成△7五銀(参考B図)
古来、病身の棋士の攻めには異様な迫力がある。一気攻略を狙うからである。大山はいつにもまして慎重で、升田の鋭い狙いをかわしつつ戦った。自戦記で大山は「このあと△9二飛から端を攻められて楽観は吹っ飛んだ」と記しているし、非常にきわどい攻防だったように思われる。実際、終盤近く控え室は「升田に勝ちがありそうだ」とざわめいた。
だが大山は完璧と言えるほど厳しく攻め、うまく守った。
145手目、参考C図の▲2九玉が指されたとき升田は、低い声で投了を告げた。
「負けた」
升田にとっては”愚局”かもしれないが、この第5局、大山の名人位返り咲きの一番は非常な接戦で、ファンを一喜一憂させたし、大盤解説および講評に当たった木村十四世名人も、「この将棋は名人戦中の白眉である。と同時に最近の秀局といえる」と賞讃を惜しまなかった。『升田幸三選集』に割愛されたのは惜しいが、『大山康晴全集』には十分な紙面で詳しく説明されている。
(以下略)
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自分では気に入っていない自分が書いた作品だけれども、自分以外の人からの評価が高い作品というのも多い。
ミュージシャンでも、自身の大ヒット曲が必ずしも一番気に入っている曲とは限らないこともある。
また、その逆のケースもある。
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将棋の場合は、それに勝ち負けが関わってくるので、もっと思いは複雑だろう。
「選集」は「全集」とは違うので、升田幸三実力制第四代名人が病体の時に指した、自分らしさがあまり出ていない棋譜については収録をしなかったということになるのだろう。
逆に言えば、『升田幸三選集』は「升田らしさ」が存分に発揮された対局ばかりが集められている、と考えることができそうだ。