高柳敏夫名誉九段「中原は誰の弟子でも名人になったと思う。ただ芹沢の師匠は、私でなければ務まらない」

将棋マガジン1993年6月号、鈴木輝彦七段(当時)の「枕の将棋学’93」より。ゲストは高柳敏夫名誉九段。

鈴木 先日行われた、先生の名誉九段をお祝いする会は大盛会でした。一門百段突破記念も兼ねられていましたが、それだけお弟子さんも多くて、いろいろご苦労もあったと思います。弟子育成についてお話をうかがいたいのですが、確か芹沢先生(故・博文九段)が、初めてのお弟子さんでしたね。内弟子ということだったんですか?

高柳 そうだね。芹沢が中学2年だったかな。

鈴木 先生は30歳位になりますか。ずいぶん若い師匠ですね。30歳で内弟子を取るというのは大変だと思いますが、その当時は内弟子が普通だったわけですか。

高柳 というよりは、自分自身が内弟子をしたから、そういうものだと思っていた。

鈴木 なるほど、大変だというよりも。僕はマンションに住んでいますけど、一人の中学生が入ってきて、起居を共に暮らすというのはちょっと考えられませんね。子供が一人増えたという感じでしょうか。

高柳 芹沢の時は一人だったから、まだいいんだよ。芹沢と入れ違いに中原が家にきた。中原は小学校4年だったから、親が心配して親類の女の子をお手伝いさんとして一緒に寄越したわけ。

鈴木 ええっ、それは知りませんでした。二人ですか?

高柳 そこに芹沢の妹が東京に勤めるというので家に下宿して、弟も泊まり込みで遊びにきて半分居候でいた。若い者が大勢いるものだから、私の兄の息子も遊びにくるわけだ。それで私たち親子四人の家族よりも多い居候がいた(笑)。

鈴木 凄いですね。それは大変でした(笑)。

高柳 でも、何となく済んじゃったからね。

鈴木 内弟子を経験しているのは、中原名人の後は誰になりますか?

高柳 宮田で四段になるまでいたかな。ダブッて伊藤果が大阪からきたりしてね。野藤君というのもいた。

鈴木 僕は先月号で書いたんですけど、内弟子はいいですねよね。宮田さんは15歳で秋田から出てきていますね。もし内弟子をしてなくて、アパートか何かに住んでいたら、とてもじゃないけど修行できないと思うんですよ。

高柳 当時は、将棋というものは一種の徒弟制度みたいにして修行するものだという考えでね。頭で覚えるんじゃなくて、生活しながら体で覚えるものだと思っていたわけ。

鈴木 今地方から出てきた子がプロ棋士になりにくい状況があると思うんです。ほとんど将棋連盟に通える範囲にいる子がプロ棋士になって、地方から出てきてアパート暮らしをしていると、なかなか難しい。内弟子ならいいんでしょうけど。

高柳 内弟子というのは、結局ヒマがないことなんだね。そういうのがいいんじゃないかな。

鈴木 短い時間に集中して勉強するということもあるのでしょうね。今でも、内弟子みたいな形がいいと思われているんですか。

高柳 それはちょっと難しいね。というのは、私が思っていた将棋と、今の将棋はガラッと違うからね。それは私が思うよりも、中原が切実に感じていることだと思う。

鈴木 ハイ。

高柳 中原は内弟子をしながら将棋を覚えて、一番の目標にしていた大山さんを負かして名人を取った。だけど、それ以後の谷川さんは、また違う将棋なんだ。羽生君になると、輪をかけて違う。中原は恐らくそのたびに苦心したと思う。大山さんに対する将棋の勉強と、谷川さんとの戦略の方向転換。それから羽生君以下若手とのことも。並ならぬ方向の転換だと思う。大山さんも、木村さん、升田さんを負かした後に中原が出てきて、自分の覚えた将棋を路線変更している。だけど中原ほどではないと思うんだ。

鈴木 育ってきた過程が、根本から違いますものね。確かに将棋観も変わりますよね。

高柳 将棋自体も違うし、戸惑いがあったと思うね。

鈴木 結構苦しんだという感じですか。まだこれからも続きますから、容易じゃないですね。

高柳 徒弟制度で、将棋は体で覚えるものだと思っていたのが、どうもそうではないらしい。

鈴木 今は雑巾がけするよりも、少しでも詰将棋を解いた方がいい、という合理的な感じですね。

高柳 それがいいかどうか分からないけどね……。家はあまり大きくなかったし、芹沢とか中原は雑巾がけとかしなかったけどね(笑)。

鈴木 そうですか。芹沢先生はずいぶん雑巾がけをしたようにいってましたが(笑)。

高柳 だって、雑巾がけするような家ではない(笑)。ただ、井戸があったから水汲みはやったね。

鈴木 芹沢先生の話だと、筆舌に尽くせないような苦労があったようにいってましたけど、大ゲサだったんですね。

(中略)

鈴木 ところで先生は弟子を取る時、この子はいいところまで行くとか、分かりますか?

高柳 大体だけど、何とかなりそうだとか……。

鈴木 棋士になりそうという、曰くいいがたい雰囲気があるんでしょうね。

高柳 ああ、そう。先崎ってのがいるでしょう。先崎君で感心したことがある。僕は若い者が好きだから見ていると、彼が友だち同士で話をしている時、指が駒を持って指している手つきになっている、無意識に。前にそれを見た時、これはかなり将棋に打ち込んでいるなという感じがした。

鈴木 ほう、指先に出ますか。それはちょっと見逃しますね。ピアニストが無意識に指を動かすようなものですかね。事実かなり打ち込んでいると思います。これがパチンコ弾いていたり、麻雀をやっているような手つきではダメですね(笑)。自分のお弟子さんでも、逆に将棋に打ち込んでない姿はどこかに出て、分かってしまうものなんですか。

高柳 それは会って話をしてみれば分かる。

鈴木 先生のお弟子さんでも、やめた方がいますね。やっぱり違いが出ているんでしょうか。

高柳 こればっかりは、教えてなるものじゃないからね。 

鈴木 ダメですか。

高柳 当人が気がついて、その気にならなければ、いってもダメだね。

(中略)

高柳 僕はテレ屋のせいか、親孝行という言葉があまり好きじゃないんだ。親孝行的なものはしようと思わない。親が子を育てるというのは自然なことだから、僕は親孝行をひっくり返して、子供に孝行するという考えなんだ。親に受けた恩があったら、親でなく子に返す。そうすれば、そこに打算はないでしょう。

(中略)

鈴木 師匠がどうのというより、その人個人の玉、素質が大事といいますけど、どうですか。師匠の影響とかは?

高柳 影響はないだろうね。

鈴木 やっぱり本人の素質でしょうか。たとえば、中原名人は誰の弟子になっても……。

高柳 そりゃあ、なるでしょう。よくいっていたんだけど、中原は誰の弟子でも名人になったと思う。ただ芹沢の師匠は、私でなければ務まらない。そういうことは思うね。

鈴木 芹沢先生は口が悪いからやめさせられていたとか(笑)。でも、かなりの才能があったから、棋士になったでしょうね。

高柳 いや、芹沢は将棋指しにはなるんだよ。師匠の方に務まる人がいない(笑)。

鈴木 そのニュアンス分かります。芹沢先生は高柳先生と似ているといっていました。だから師匠の考えていることはよく分かるといってましたね。

(以下略)

1993年3月23日に行われた「高柳敏夫名誉九段を祝う会」の時の高柳名誉九段。将棋マガジン同じ号より、撮影は弦巻勝さん。

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高柳敏夫名誉九段は、金易二郎名誉九段門下。金名誉九段の女婿でもあった。

内弟子→独立→結婚で、再び師匠と同居するという流れだった。

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「当時は、将棋というものは一種の徒弟制度みたいにして修行するものだという考えでね。頭で覚えるんじゃなくて、生活しながら体で覚えるものだと思っていたわけ」

昔の内弟子制度は、技術は教えないけれども(専門家を志したからは教えてもらおうなどという気持ちがあってはならない。自分の道は自分で切り開いていくべし、という方針)、生活を通して棋士がどういうものか、棋士の根性やあり方をおのずと体得する場だった。

師匠が内弟子に将棋の指導をしない理由

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「中原は内弟子をしながら将棋を覚えて、一番の目標にしていた大山さんを負かして名人を取った。だけど、それ以後の谷川さんは、また違う将棋なんだ。羽生君になると、輪をかけて違う」

「徒弟制度で、将棋は体で覚えるものだと思っていたのが、どうもそうではないらしい」

高柳名誉九段にこのように思わせた、谷川将棋と羽生将棋。

歴史の中でのそれぞれの壮大な流れを感じさせられる。

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「芹沢先生の話だと、筆舌に尽くせないような苦労があったようにいってましたけど、大ゲサだったんですね」

大袈裟だった表現が可笑しい。

そこまでではないが、少しだけ大袈裟に言った事例もあった。

米長邦雄王将(当時)「芹沢さんから聞いた話だが、口のきき方の悪い芹沢さんに対して、師匠はナイフを投げつけたことがあった」

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中原誠十六世名人にとっての思い出もある。

棋士が文章を書く時(後編)

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「先崎ってのがいるでしょう。先崎君で感心したことがある。僕は若い者が好きだから見ていると、彼が友だち同士で話をしている時、指が駒を持って指している手つきになっている、無意識に。前にそれを見た時、これはかなり将棋に打ち込んでいるなという感じがした」

「親に受けた恩があったら、親でなく子に返す。そうすれば、そこに打算はないでしょう」

まさしく名伯楽の視点だ。