将棋世界1993年5月号、羽生善治三冠(当時)の第26回早指し選手権戦決勝〔対 脇謙二七段〕自戦記「拾った一局」より。
今月は早指し選手権戦決勝、脇謙二七段との一局を見て頂きます。
脇七段は居飛車系統の将棋を得意とする実力者で、早指し新鋭戦でも以前2回連続して優勝した実績もあり秒読みの将棋も得意としているようです。
私の方は新鋭戦で2回、早指し戦で1回準優勝があり、そういう意味では短時間の将棋は向いている方かもしれませんが優勝には結びつきません。
という訳でこの一局は何としても勝ちたい一局でした。
この将棋は出だしが変わっていて、▲7六歩△3四歩▲9六歩(1図)という進行です。
▲9六歩というのは早指し戦2回戦、安恵七段との将棋でも指されましたが、この類いの手は何度指されても驚くものです。
意味としては△8四歩なら▲2六歩として横歩取りの将棋に誘導しようという狙いです。
もちろんそれでも一局ですが、本局は振り飛車でいこうと思っていたので考えませんでした。
そこで、△3五歩は石田流を目指した一手で私は公式戦では初めて指す形です。
それにしてもこの最初の4手の出だしはかなり珍しく、訳の解らない将棋になりそうな気がしました。
2図はその駒組みの段階で△9四歩と受けた所です。
△9四歩も今ぐらいがタイミングで、突かないと▲9五歩と攻防の大きな位を取られる恐れがあります。
後手の陣形は”升田式石田流”と呼ばれている形で軽くさばいて指していくのが特徴です。
先手の方は飛車先を突いていないのが注目すべき点で、あまり早く▲2五歩と突いてしまうとかえってそれを目標に戦いの糸口を見つけられる可能性があるのです。細かい所ですが、お互いに角が持ち駒にあり緊張の序盤戦ではささいなミスが致命傷となるのです。
(中略)
私の方はこれからどういう構想で指すかが問題で、特に2二銀をうまく活用できるかどうかが重要です。
3図は2図から15手ほど進んだ局面。お互いに玉を固めあって不満のない所です。
しかし、5五銀が何とも中途半端な銀です。
どうしてこの状態になっているかと言うと、後手は先手に▲5六歩と突かせて△6四銀と引きたく、先手は後手に何もしないで△6四銀と引かせて▲5六銀左と3四飛をいじめにいきたい所なのでお互いに動きにくい所なのです。
そこで、△3三桂と一手待ったのですが、これがまずかった。
すかさず▲6五歩と突かれて5五銀が4四へしか逃げ道がなくなってしまった。
△6四歩▲5六歩△6六銀も目につくが、▲同銀△3九角▲4八飛△6五歩▲7七銀で流石に無理。
戻って3図では△6四飛と一回、牽制球を投げるべきだった。
△6六銀を防ぐには▲7七金しかないがその形はかなりの悪形で、とにかくそう指すしかなかったのです。
本譜は私の方に有効な手待ちがなく、先手はどんどん好形になっていく最悪のパターンで見事な作戦負け。
終盤がなく、一方的なワンサイドで負かされる気がしました。
特にまずいと思ったのが4図の局面で、ここで▲6七角と打たれると収拾がつかないと思っていました。
解っていても▲5五歩が受からず、指すとすれば△2五桂なのですが、▲同飛△2四飛▲同飛△同歩▲5五歩、▲5五歩△2四飛▲5四歩、どちらの変化も先手良しでしょう。
しかし、本譜は▲6七金直、少しホッとした記憶があります。
それでも作戦負けには変わりがないのですが……。
脇七段にとってはあまりにもどれでも良さそうなのでかえって迷ったのではないかと思います。
後手には仕掛ける権利がなく、先手はいつでも好きな時に戦いを起こせる。
そして、ついに開戦したのが5図、▲5五歩に△6四歩と反発した所です。
▲5五歩に△同歩なら▲同銀△5四歩▲6六銀で次の▲5六角が受けにくく勝負所がなくなります。
ですから、△6四歩は争点を求める盤上この一手の手筋です。”三歩ぶつかれば初段以上”という言葉がありますが、歩をぶつけられた時にすぐ取るのではなく、別の手を考えられるようになれば将棋の幅が広がるでしょう。
5図で先手の方は5筋、6筋、どちらの歩も取りにくく、よって▲5六角と狙いの角打ち、これで馬を作ることに成功、先手に不満はありません。
(中略)
5図から中央での折衝が続き、一段落したのが6図。
この局面を形勢判断してみると、駒の損得は先手の一歩得、駒の働きはどちらも同じ位、手番は先手、玉の固さもほぼ同じと条件は似ているのですが、何と言っても5六馬の存在が大きく先手優勢と言えるでしょう。
しかし、問題は次の△6五銀をどう防ぐかです。これを指されると先手も容易ではありません。
それさえ防げれば▲2四歩~▲2三歩成を間に合わせることが可能になります。本譜は▲6六歩△6四銀▲2四歩△5五銀の進行。
馬をいじめることができてだいぶ形勢の差が縮まりました。
正着は▲6六歩ではなく▲6五歩、脇七段はこの手も考えたそうですが、△4四銀▲6六銀△6四歩を気にしてやめたと感想戦で言っていました。
しかし、△6四歩に▲7七桂(参考図)と指せば優勢を維持することができたのでした。
6図と変化図を比較すると解かるように先手陣は厚みを増し、5六馬が絶好の位置にいて威張っています。
変化図のような局面を見ると馬という駒の受けの強さを感じさせます。
脇七段にとってはこういった変化も少しの時間があれば読めるのでしょうが、そこが一手30秒という秒読み将棋の辛い所、結論を出す前に局面を進めなければならないことも多いのです。
逆に秒読みの場合の方が良い時もあって、それは怖い変化でもどんどん踏み込んでいける所で、長考してしまうと迷って怖くなって踏み込んでいけない時がよくあるのですが、秒読みだと怖がっている時間さえないのです。
本局では私が序盤で作戦負けになったのでかえってその後、手が伸びたという意味もあります。
自分の方が不利だと思っていると多少危ない変化も気にしないという意味もあります。
逆に優勢を自覚するとついつい安全に手堅く指してしまいたくなります。
こうして考えてみると将棋は相手との戦いでもあり、自分との戦いであることが解ります。
さて、局面は7図となり、ここで初めて形勢が難しくなった気がしました。
駒の損得はないのですが、後手の方が玉が固く、先手陣はばらばらでまとめるのが大変そう。
2三との活躍いかんによって勝敗を分けそうです。
7図は先手がどう指してくるか全く解りませんでした。
しかし、手の乗って指すというのは秒読みの場合は特に楽という意味もあります。
やはり何かを選択する方が苦しい。
例えばAとBが考えられてAを中心に考え、それがうまくいかないと解った時、秒読みに追われていれば成算がなくてもBを選択せざるを得ない。
時間にゆとりがあればCがDは……と掘り下げることも可能ですが。
手に乗って指すというのはAしかないという状態が続くわけで秒読みの強い人はAしかない状態にするのが上手な人と私は思っています。
まあ、一局の将棋でずっとそんな状態が続くことはないのですが……。
(中略)
それから数手進んで8図。
ここではっきり良くなったと思いました。何と言っても先手は歩切れが痛い。
一歩千金とはこんな場面ですね。
実戦は▲4三とと歩を補充しましたが△6七歩が目茶苦茶厳しい一手、後手には角銀銀という豊富な持ち駒があるのでとても受け切れません。
(中略)
これで早指し戦初優勝、収録の直後に表彰式が行われるのもテレビ棋戦ならではです。
内容的には序盤で失敗してあまり良いものではなかったが、とりあえずはうれしかった。
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「△3五歩は石田流を目指した一手で私は公式戦では初めて指す形です」
羽生善治九段の升田式石田流は非常に珍しい。
そういう意味でも貴重な一局。
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「特に2二銀をうまく活用できるかどうかが重要です」
升田式石田流側が3四飛・3二金・3三銀の形の時に△2四歩から飛車交換を迫る指し方があるが、
「先手の方は飛車先を突いていないのが注目すべき点で、あまり早く▲2五歩と突いてしまうとかえってそれを目標に戦いの糸口を見つけられる可能性があるのです」
とあるように、脇謙二七段(当時)が▲2五歩と突くのを保留していたため、2二の銀を活用しようとすると、本譜のように3三→4四→5五と銀を移動させなければならなかった。
この銀の動きは、1971年の名人戦第6局で升田幸三九段が初めて見せたもの。
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「本譜は私の方に有効な手待ちがなく、先手はどんどん好形になっていく最悪のパターンで見事な作戦負け」
升田式石田流が捌けない時は手詰まりになって、本当に苦しくなる。
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5図ではかなり息苦しい陣形だった後手が、6図になると、よくぞここまで、と思うほど息苦しさは解消されている。
地味な部分ではあるけれども、羽生流の妙技と言えるだろう。
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参考図の先手陣は、後手から見たら絶望的な気持ちになるほど厚い。
後手の疲労度が格段に上昇してしまう。
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「こういった変化も少しの時間があれば読めるのでしょうが、そこが一手30秒という秒読み将棋の辛い所、結論を出す前に局面を進めなければならないことも多いのです」
1分の秒読みも辛いが、30秒は二乗に比例して読みが狭まる。
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「逆に秒読みの場合の方が良い時もあって、それは怖い変化でもどんどん踏み込んでいける所で、長考してしまうと迷って怖くなって踏み込んでいけない時がよくあるのですが、秒読みだと怖がっている時間さえないのです」
人生にも通じる、将棋の奥の深い部分。
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「自分の方が不利だと思っていると多少危ない変化も気にしないという意味もあります。逆に優勢を自覚するとついつい安全に手堅く指してしまいたくなります。こうして考えてみると将棋は相手との戦いでもあり、自分との戦いであることが解ります」
本当に良いことが書かれていると思う。
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「やはり何かを選択する方が苦しい。例えばAとBが考えられてAを中心に考え、それがうまくいかないと解った時、秒読みに追われていれば成算がなくてもBを選択せざるを得ない。時間にゆとりがあればCがDは……と掘り下げることも可能ですが。手に乗って指すというのはAしかないという状態が続くわけで秒読みの強い人はAしかない状態にするのが上手な人と私は思っています」
このことを逆の立場にして、相手が選択に迷うような局面に持ち込むのを得意としているのが、羽生善治九段であり、大山康晴十五世名人。
羽生三冠(当時)の秒読みに関する考察も非常に鋭い。