双玉詰将棋の創始者だった大道詰将棋店主

近代将棋1993年10月号、湯川博士さんの「詰椅人伝① 加藤玄夫の巻」より。

デパートの休憩コーナーで検討する加藤玄夫さん。近代将棋同じ号より。

 戦後人々は食い物を探すことから生活をはじめた。どんな金持ちでも正規のルートでは食料が手に入らなかった。ピンとこない若い人は末期のソ連を想像すればそう遠くはない。ヤミ商売が幅を利かした。将棋指しでも商才が働くものはヤミ屋まがいのことをしていた時代だ。

 敗戦後、数年経った千葉駅前。駅からちょっと横へ入った場所でかなりの人だかりだ。なんでも人が集ればなんだろうと、人は必ず覗きたくなる。もしかしたら何かモノを売っているかもしれない…という気持ちもある。

お客との勝負!

 人の頭越しに覗くと、将棋である。まったく分からない人は去っていくが、少しでも駒を動かせる人は足が止まる。人の輪の中から魅力的な声が聞こえる。

「これを詰めればタバコを差し上げちゃうよ。1回いくらかって?ケチなこと言うんじゃないよ、たったの20円だよ。それでタバコ2箱上げちゃう。え、お兄ちゃんやるの。ちょっと待ってね、順番だから。こちらのお父さんが先よ。ね、ルールは簡単。王手、王手とやればすぐに詰む。さあ、持ち駒は銀だ」

 タバコは配給制で満足に手に入らなかった。国民服を着たお父さん、タバコと聞いちゃあ見過ごすわけにはいかない。台にあった持ち駒の銀をつかんで、とりあえず王手!

(A図から▲8二銀と打つ)

「おや、これは筋がいい。とにかくそちらは強力な飛車が2枚だ。こちらは給料前の懐と同じでちょっと淋しい(笑い)。さあ、王手じゃ逃げるしかない。しかもここだけ。もう切羽詰まったよ。オッ。開き王手か。これで上へあがっても下へ逃げても飛車が成って終わり。(ぐるりと見回して)さあ詰みか」

 お父さんは思わず生つばを呑み込み、早くもタバコのほうへ目線が行った。その時、将棋屋さんがさもたった今気がついたように、

「おやぁ、待ってくださいよ、もしかするとこの飛車を銀で取れますねー」

 お父さんの顔はみるみる血が昇って真っ赤になる。将棋屋すかさず〔銀〕の駒を持たせ、

「惜しい。さあもう一回やってください。いくらやっても詰ませれば今までの分は棒引きの上、そこのタバコ持っていってけっこうです」

 お父さんが2、3回やって首を傾げたあと、さっきのお兄さんが、

「おやじさん、それホント詰むのか」

「えー、へんなコト言うね。詰むのかぁとはなんだい。よおしあんた試しに2、3回やりなさい。それでどうやっても詰まないなら、あんたに正解を教えようじゃないか…」

 サクラとの絶妙な駆け引きで、ジンシメ(人集め)をしたのち、本格的な営業に入る。A図は客寄せのマキエで、本ネタはB図だ。シン(真打ち)の加藤玄夫自身が創った銀問題だ。

 観客は数十人ですでに加藤節に酔っている状態だ。

「ほう、誰も手が出ない。だらしがないね。あんたら金玉ついているのかねェ。男でしょッ。しからばヒントを差し上げよう、まず手数だが、3手か4手の王手で詰む。それから王様は元のこの辺で詰むよ。こんなの遊びだよー、負けたって大したことない。……お、そちらのお父さんやるかい。さ、早い者勝ちだよ。先に詰めた人が勝ちだ」

(このお父さんはB図から、▲8二銀△9二玉▲7三銀成とした)

「なかなか鋭いねェ。しかしこう上がってどうでしょう?」

(△8四玉と上がられて呆然としている)

「成りだと逃げられちゃう。もう1回よーく考えてください」

 言いながら大きな〔銀〕の駒を客に握らせる。これを商売用語で、ヅケ(駒付け)という。握った方は反射的にまた銀を打つ。2回目は▲7三銀不成と迫ったが△5二歩合と打たれて「エッ。歩なんかどっから出て来たの」とつぶやく。

 このお父さん立て続けに5回やって、料金を払ってすごすごと退散…。しかしすっかりトロが回っている(催眠状態)観客は次から次へと手を出してくる。加藤の特技はトロ場で何十本も釣り上げる話芸にあった。

 敗戦直後の娯楽に飢えていた時代は、解禁日の朝一番の川と同じ入れ食い状態で、その後10年くらいが大道棋の全盛時代となった。そうなると将棋に素人のテキヤが流れ込んできて、せっかく育てた場が荒れてきた。大道棋のイメージも極端に悪くなり、その上東京オリンピックを控え、路上商売の取締強化が行われた。加藤もやむなく店仕舞いを余儀なくなれたのである。

本を出したいけど……

 あれから45年も経ちましたか……。一度私の作品を整理して本にしようと思ってるンですが、なーにしろ頭がおかしくなっていてネ。ゼーゼン働かない。ワタシャ、完全作で余詰を出さないのが自慢だったんですけどネ、こないだ近将で出しちゃって。おっかしな話ですよ。そう、病気なんか売るほどやっちゃって、ひどいもんですよ。貯えもすっかり吐き出してネ、今も毎日病院行ってます。何のったってあっちこち、もう全部悪くて。昔のノート(創作)見ても詰手順を思い出せないんですから…。

 それにサ、家ン中がいっぱいで、ひどいン。長年の独り住まいなんでネ、なにがどこにあるのかゼーゼン分かんない。ま、死ぬまでに本を出したいと思ってますけど、検討やらなんやら人に手伝ってもらわないといけないかもしれませんネ。

 詰将棋との出会いですか?

 私が奨励会にいたころ(石井門下)詰将棋創れる人があまりいないんで、創ってくれって言われたのが始まり。当時創ったのは清野君(のち八段)、和田六段、それに私。将棋世界が一題3円くれまして。値段よかったァ。私らはちゃんと創りましたけど、出来ない奴は徳川時代の作品から持って来ちゃって。ナニナニ八段という人がひどいのを載せてたこともあったネ。エ、名前はむろん私のじゃない。先生方の名前です。戦争で人がいなかったせいもあるけど、1ページに6題載せるンだけどそれが足りない。なんとかしてくれって言われてずい分創ったよ。

(中略)

 昔は連盟も小ぢんまりしてて皆家族みたいだったよ。もっとも進んで入ってくる人は少ない時代でネ。バクチ打ちの一種みたいに思われていたわけだから…。私ンとこも千葉の成田で大きな家だったから反対されましたよ。兄貴は上野の音楽学校で私も師範学校目指していたんだけど体格検査で引っかかって。それで好きな将棋に進んだんだけど……。

良心的な大道棋屋?

 古い詰棋人は一度くらいは大道棋の体験があるはずだ。この人達の話題によく出るのが、良心的な大道棋屋と悪質な大道棋屋の話だ。悪質なのは客からムシリ取る。へたをすると強奪をすルヤクザまがいのものもある。

 ところが……一部の大道棋愛好家の文で、加藤氏は香具師まがいの悪どい商売をしている。それに比べて大阪の黒田氏は良心的な大道棋屋と書かれたことがある。筆者がこの話を持ち出すと加藤氏はこんな調子で反応してきた。

 バーカ言っちゃいけない。こちらは商売でやってンだから。一題掛けて客が解いたら改作してまた解かせるなんてやり方(大阪の黒田氏のこと)は自分も好きでおやりになってるだけでネ、商売にゃなんない。私らはお客を楽しませていい気持ちにさせてそこでお金をいただく。そーんなケチくさいことやってたんじゃマニアしかこない。なーんにも知らない素人をいかにして引き込んで乗せていくかが面白い所で。そーんな難解作はマニア。

 だいたい大道棋の問題はせいぜい4×4か最大限でも5×5のマスに入ってなけりゃ喰いつかないよ。詰パラなんかのマニアの問題を見ると、駒が盤面に散っていて、あれじゃお客さんが疑って手ェ出さない。あんなもん、実際の役に立ちませんよ。私らの同業者でもずい分私のを使っていたけど、見た目喰いつきがいいからなんですよ。

 大道棋の最大の特徴は、添加の大道で衆人環視の中、いかに客を乗せて金を稼ぐかにある。そのためには詰棋のルールさえ蹴っ飛ばす。余詰め駒余りなんて目じゃあない。詰めばいい。大勢の見ている中でインチキなしでちゃんと正解が存在して、しかも100人が100人ひっかかるような問題じゃないと商売がなりたたない。この厳しい条件をかいくぐって生きてきたのが大道棋という芸だ。なかでも戦後に一分野を自らの手で切り拓いた加藤氏の底力には驚嘆すべきものがある。

 ああ、双玉問題ね。(例題・C図)

あれは営業始めたころ、ふつうの詰将棋のつもりでつくったンだけど、友人のNさん(アマ強豪で一緒に大道棋も手伝った)に見せたら、こりゃあ面白いよといわれひょいと大道に掛けたらもう人がワンワン集まって。いわゆる爆発的人気というやつで。でも世間的には北海道のなんとかさんが詰パラに載せた文章と例題が早くて創始者だということになってるけど…。でもそれじゃあその方はその後双玉をつくっているかというんですよ。私のは詰パラの鶴田さんに送ったんだけどなぜか載らなくて。でも作品を見れば分かると思いますよ。これなんか(D図)よく使いました。

 逆王手喰っているとお客はびっくりして、あわてて合駒なんか打つのがいる。皆笑いをこらえていますよ。私が一手だけ王手してやると、考えた末にお客は自分の玉を逃げるんです。もうそこまで来ると大爆笑です。この双玉ってのは鶴田さんの命名ですが私は初め二枚玉っていってました。これはいいですよ、なにしろ笑いに包まれるからお客も負けてもヘンな雰囲気にならない。負けたってなんだって、楽しんで帰りゃいい。

 当時、ヤミ屋とか土建屋で成金になったような旦那がよく遊びに来て、続けて20本30本取られてから、将棋屋さん今日は楽しかったよ、なんてポーンと100円くらい置いていく人がいたものです。

 え、サクラですか。私は一人でも打てますけど、サクラはあった方がいい。はじめのジンシメにはサクラがいないとちょっとたいへんですネ。サクラはもう人間とは思えないような手を指すんだから客はそれで手が出てくる。はじめはうんと易しいの出して、段々と高級手筋へ誘導する。客を教育しながら連れていく。高級な作品ではサクラも強い手を指すんです。だんだん高級になるに従って客もすっかり入っちゃって何本でもやるようになる。1回30円から始めて終わりごろの時代は1,000円だった。今なら500円から1,000円というあたりかな。

 将棋屋で一人だけビルを建てたのがいた。札幌の人で弟子が何人もいてネ。この人以外は皆消えていった。いい時はサラリーマンの2、30倍は稼いだけど、働けない時もあるし、私も遊んでいた時期に七條兼三さんのことを知って、よしオレも解いてやろうと思って1年間全題正解をやった。それが縁で七條社長のところへも出入りしたことがあった。

 今もまたときどき創るんですが歳のせいか根気なくて、アイディアが浮かぶと出したくなるんですよ(ペンネーム有田辰次、加藤俊介)。七條社長の気持ちがよく分かるようになりました。でも詰将棋ってなんであんなに安いのかなあ。そんなに価値がないのかなあ。せめて一題5,000円くらいなら張り切るけれど。私なんかスタートしてからお金もらって創っていたからタダなんて話にならない。好きだから投稿してるけど…。解説書く人にいったのは自分で解いてみてほしいということ。作意を見てサラサラッと並べて書かれちゃあたまらない。

 加藤さんはスタートから仕事のネタとして詰棋とつきあってきた。洗練さを尊ぶ気風がある詰棋界では異端児的な存在だろう。しかし、自作が雑誌の優秀賞を獲ったと自慢したときの顔はやはり詰棋人独特の邪気のない表情であった。これから先、唯一の目標は自作集を出すことだ。とくに大道棋の問題で、コレとコレは加藤作と特定していく作業をしっかりやっておきたいと語っていた。40年以上もしていた覆面をぬいで、いよいよ自分の名前を残しておきたくなったのは、人生の終盤を自覚したからだろう。

 そういえばほんの一時使っていたペンネームが、たしか鞍馬天狗だった…。


大道詰将棋解答

  • A図 ▲8二銀△9二玉▲9四飛△同銀▲7三銀成△9三玉▲8二飛成まで7手詰
  • B図 ▲5四馬△6三銀合▲9二銀△同香▲6三馬△同角▲8二銀まで7手詰
  • C図 ▲8三歩成△8一玉▲9二金△同飛▲同と△同玉▲9三飛△8一玉▲9一飛成△同玉▲8三玉△8一玉▲9二香成まで13手詰
  • D図 ▲9三桂成△8一玉▲9一角成△7一玉▲8一馬△6二玉▲6三香△同金▲同馬△7一玉▲6二金△同角▲同馬△同玉▲7三角△同銀▲同歩成△同玉▲8三成桂△7四玉▲8五銀△7五玉▲7六香まで23手詰

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大道詰将棋は大正時代の後半に始まったと言われている。

倉島竹次郎さんが、大正11年暮れの銀座の裏通りの大道詰将棋について触れている。

銀座の詰将棋

昭和の初期、この頃の東京の一番の盛り場は浅草だったが、「山の手銀座」と呼ばれた神楽坂にも1軒の大道詰将棋の露天があったと記録されている。

昭和6年の神楽坂の風景と将棋

この頃、お金も持たずに家出した升田幸三少年が、広島の繁華街に出ていた大道詰将棋を解いて獲得した賞品をお金に換えている。

升田幸三実力制第四代名人「木村、生きとれ」

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「言いながら大きな〔銀〕の駒を客に握らせる」

少なくとも1996年頃までは東京都内で大道詰将棋が行われていた。

私も銀を握らされたことがある。

大道詰将棋屋

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「私らはお客を楽しませていい気持ちにさせてそこでお金をいただく」

これが大道詰将棋の真髄なのだろう。

映画を観て楽しむ、コンサートに行って音楽を聴く、のようなことと思えば、より楽しむことができる世界だったに違いない。

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「でも世間的には北海道のなんとかさんが詰パラに載せた文章と例題が早くて創始者だということになってるけど…」

現在では、加藤玄夫さんが双玉詰将棋の創始者とされている。

ほっと一安心だ。

双玉詰将棋(Wikipedia)

 

 

 

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