将棋世界1996年1月号、高林譲司さんの「思い出の戦場 森雞二九段」より『そして彼は髪を剃った』より。
テキサス州ダラスでケネディ大統領が暗殺された時、何をしていたか。若い人はともかく、この設問には、ほとんどの人が答えられるという。アメリカ国民は言うにおよばず、史上初の衛星生中継の第一報として、世界中の人びとがこの衝撃的な事件を即座に知り、それぞれが心に傷を負った。
太平洋を隔てた日本の小学生だった私でさえ、その設問には答えることができる。まだ朝の眠りをむさぼっていた私に、母親がそのニュースを伝えた。政治や世界情勢には無知でも、ケネディ神話の輝きだけは見聞きしていた。私はえもいわれぬ悲しみに襲われて、頭から布団をかぶった。ケネディの負の部分を知るのは、ずっと後のことである。
将棋関係者はもとより、アマチュアのファンの人びとも、次の設問に答えることができる人は多いはずである。
森雞二八段が剃髪で名人に挑戦をした時、あなたは何をしていたか。
私は将棋マガジン誌の編集部員として、品川の三協美術印刷という印刷会社の出張校正室にいた。昭和53年3月15日。この日は同誌の校了日で、最後の追い込みである。
同じ女性編集部員のTさんが、校正室に森の剃髪の第一報をもたらした。
「森さんが青々と頭を丸めたそうよ」
ゲラ刷りに取り組んでいた私は、「ほう」と言いつつも笑った。対処法が分からない時、笑いは日本人特有のごまかし方なのである。しかし次の瞬間、笑いは凍りつき、背筋に戦慄が走った。
作家の瀬戸内晴美氏が剃髪し、寂聴尼となった時の衝撃。三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地での自決という大事件、あるいは水盃をかわした特攻隊員。それらが重なったからである。
瀬戸内氏は剃髪し、僧籍に入ることは、生きながら死すことだと後に述べていた。
(中略)
森もまた、超え難い線を越えようとしているのか。それが直接、死につながらないとしても、正常な状態でないという印象は拭いきれなかった。
さらにTさんは「その青々とした頭で、時々ニヤリと笑うそうよ」と付け足して、ダメを押したのである。
三島が自決した時、私はどこで何をしていたか、はっきりと覚えている。同じく、森の剃髪挑戦の日、印刷所の校正室の数分間を、悲愴感を伴う大きな衝撃とともに忘れることはできない。17年前の早春のことである。
過去、名勝負が行われた対局場を、当の対局者とともに訪ねるという魅惑的な企画が始まった。昭和53年3月15、16日、仙台市「仙台ホテル」で行われた第36期名人戦七番勝負第1局。森の剃髪という強烈な話題を提供したこの対局は、新企画の第1回に最もふさわしい題材かと思う。
◇ ◇ ◇
初冬の土曜日、森九段は東北新幹線で仙台に向かった。
いつもの旅なら、森はことさら陽性に、浮きうきとして、独壇場になるところであろう。森の頭の回転の早さは尋常ひとえではない。時には思考より行動が先行しているかと間違えそうになるほどである。
身をもって知るのは、今回同行している弦巻カメラマンかもしれない。彼は森と同年生まれの友人の一人であり、ともに行動することが多い。森とともにいれば、誰もが森の決断と行動の早さに振り回され、とまどうに違いない。弦巻カメラマンも例外ではないはずである。
「すごいやつだよ」
と弦巻カメラマンは言う。
しかしこの日の森は、少々沈滞しているように見えた。いつもの旅ではなく、17年前の名人戦を思い出す特別な旅だからであることは言うまでもない。頭を剃るという決断は、森にとっても50年になろうという人生で最も深刻な瞬間だったはずである。加えて同行者である我々が、なぜあの時に頭を剃ったか、虎視眈々と探り出そうとしていることに森はとっくに気づいている。
好物のカンチューハイが血管を巡るにつれ、しかし森は心を開いていった。
「17年はあっという間だったよ。あの名人戦はつい昨日のことのようだよ」
と森は言った。
新幹線は一路北上している。
森にとっては昨日のことのように思える昭和53年だが、17年という歳月は長い。まず東北新幹線がなかった。
作家、山口瞳氏の当時の観戦記である。
「3月14日、上野駅12時発、ひばり6号。ホームでの待ち合わせ。森雞二八段。パーマネントウエーブのかかった頭。ストライプのスポーツシャツ。グレイの上衣で茶のズボン。コートなし。眠れましたかと訊く。『みんなの思うほどのことはないんですよ』」
当時の「ひばり」は上野から仙台まで4時間かかった。現在の新幹線は半分の2時間である。
名人戦は普通、4月の桜の季節とともに始まる。第36期の変則的な3月開幕は、名人戦移行問題と無縁ではない。
(中略)
そんな将棋史上でも特筆すべき波乱を経験した名人戦であったが、当の中原誠名人は泰然としていた。
先ほどの山口瞳氏観戦記、上野駅で落ち合うくだりの続きである。
「中原、例によってニコニコ顔で来る。レインコートを着ている。仙台は寒いので、オーバーにするかどうか迷ったそうだ。『駅前のホテルだから、いいと思って……』ちゃんとヨミが入っている」
中原は昭和47年度、第31期名人戦で大山康晴名人と死闘を演じ、最終第7局に勝ってついに名人位を奪取。長い大山時代にピリオドを打ち、替わって棋界の第一人者となった。
その後、森の挑戦を受けるまで、名人位を連続4期防衛し、永世名人の資格を獲得、その地位をますます揺るぎないものにしていた。
「名人は選ばれる者がなるもの」という言葉を、誰がいつごろから言い始めたかは不明である。しかし中原こそ名人にふさわしいと誰もが思い、中原の名人戦での連続勝利を当然のこととして受け止める風潮は、すでにその時確立していた。将棋の強さは言うまでもないことながら、仲間の棋士もファンも、中原の太陽のような笑顔を愛したのである。
一方、森はヤンチャ坊主であった。酒を浴びるほど飲み、賭け事もやった。「森ちゃん」「トリちゃん」と呼ばれ、棋士仲間の人気者ではあったが、皆、心の底では、森に名人位はふさわしくないと思っていた。
頭のいい森は、そのことに気づいていた。なおも生来の闘争心は人一倍旺盛であった。
「中原名人は強くない。過去600局、すべてその棋譜を並べてみたが、相手に勝手に転んでいることが分かった。皆、自己暗示にかかっているんだ」
この有名な発言には、中原名人への挑発に加え、自己を鼓舞する狙いもあったに違いない。しかし森の真意は中原絶対という風潮そのものに、単身で反発し、挑みかかることにあった。
確かに名人位は神聖にして、侵すことのできない存在であった。江戸時代から連綿と続く象徴であり、加えて木村義雄十四世名人が将棋名人の権威を盤上盤外で体現した効果は計り知れない。続く大山康晴十五世名人の驚異的な強さで、名人のイメージは偉大なものとして定着した。
それに対して森が初めて、「名人は弱い」と、大胆不敵にも言ってのけたのである。当時、その発言を聞いた関係者は、「おいおい、森ちゃん。そんな事を言って大丈夫かい」という程度の思いで受け止めたに違いない。ただ一人、森のみが真剣であった。
森は楽天家だと言われる。躁病的と言う人もいる。その部分を持ち合わせていることは否定しない。しかし躁の裏にある鬱を見逃すと、森の人格を見失うことになる。
森がひとつのことに集中した時、彼の眼はメラニン色素が薄まり、狂気に近い孤高が前面に出てくるのである。
森のカンチューハイは2杯目である。
「何度、自殺しようかと思ったか分からないよ」
と森は、かすかな笑顔で言った。
森が集中するひとつのもの。それは将棋に他ならない。
森が大胆な手で勝つことがあれば、信じられないポカで好局を失うことがあった。後者の時、森は誰よりも意気消沈し、自殺を思い描いてしまうのである。
「その時の順位戦がそうだった。5連勝でトップを走っていた。そして有吉さん(道夫八段)と当たった。必勝の将棋だったんだ。それをいつものポカで失った。死のうと思った」
仙台に向かう新幹線は、すでに旅程の半分を過ぎている。
「もしそのあと勝って、名人挑戦者になれたら、剃髪して対局しようとその時に思ったんだ」
森は残る対局に勝ち、7勝1敗で初参加のA級順位戦に優勝、名人挑戦権を獲得した。2位は森と同時昇級を果たした5勝3敗の勝浦修八段であった。
森の剃髪の決意は、決して刹那的なものではなかった。順位戦で喫した唯一の敗戦のあと、名人戦が開幕するかなり前に決断したものであった。
森は2杯目のカンチューハイを飲み干した。私のウイスキーの小瓶も底をついた。森は車窓の風景に目をやった。私たちはしばらく沈黙し、列車が揺れるままに身をかませた。
◇ ◇ ◇
対局者らを乗せた「ひばり6号」は午後12時に上野駅を発射している。午後4時に仙台駅へ到着したはずである。
対局場の仙台ホテルは西口を出た前にある。住居表示は「仙台市青葉区中央1丁目10番25号」とある。
当時、仙台の駅舎は現在のものではなく、駅前に縦横に伸びる歩道橋もなかった。今は歩道橋を渡り、降りたところが仙台ホテルである。創業108年。「化け物みたいなホテルです」とホテルのマネージャーが笑った。
しかし森は対局前夜、この仙台ホテルには宿泊していない。
「あらかじめ毎日新聞には、対局前夜だけ別のところに泊まりたいと言っておいた。僕が泊まったのは和風旅館だったんだが、そこがどこか思い出せない」
街の様相も17年前と現在ではかなり違っているのである。
仙台ホテルでは、夕刻から恒例の前夜祭のレセプションが始まった。午後5時半開始の予定が、30分遅れて6時から始まったと当時の記録にある。
森はすさまじい健啖ぶりを発揮したという。量もそうだが、食べ方が早い。森の食事は常にそうである。しかしこのレセプションではさらに理由があった。
山口瞳氏の観戦記である。
「前夜祭で、森は凄い勢いで食べていると思ったら急にいなくなった。彼は別の旅館に泊まるのである。思えば、それが森の頭髪の見おさめになったのである」
当時の毎日新聞の将棋担当・加古明光氏は、本誌に次のように記している。
「かねてから森は『第1局の前夜だけは違うホテルにしてほしい』と言っていた。第1局とあって、地元のレセプションもある。『そこへは出席する』という。主催者とすれば、それなら何の注文もない。1時間半ほどのレセプションを終え、森は『じゃあ』と会場を出た。『明朝8時にモーニングコールしてくれませんか』が私への依頼。『女性が出るようなことないでしょうね』『わかりませんよ』と、いま思えばのん気なやりとりをして別れた。『散髪に行く』というのを、師匠の大友昇八段でさえ『ウン、なかなか余裕がある』と思っていたそうだ」
森は前夜祭の席を途中で辞し、ホテルを出て左に歩いた。10数メートルのところに理髪店があった。
毎日新聞、井口昭夫氏の「盤側の記(1)」の抜粋である。
「『頭を剃ってくれ』というと、店員は驚いて『本当に剃るんですか』と念を押したそうだ。しかし森八段が『本当に剃ってくれ』と言うと、もう疑わなかったという」
森は瞑目したまま、頭が剃り上がるのを待った。理髪店を出て、すぐにタクシーを拾い、予約していた旅館へ向かった。
その理髪店が、いまはなかった。森が確かにこの辺りだという場所には、左から、立ち食いそば屋、かまぼこ屋、まんじゅう屋の3軒が並んでいた。
念のためにまんじゅう屋さんに入り、「17年前、この辺りに床屋さんはなかったですか」と尋ねてみた。
「そんな話、きいてませんね。私もここへ来て15年ですし」とのことであった。
さらに歩いて理髪店を捜したが、該当する店はなかった。森の目に少し憂愁が浮かんだ。つい昨日のような名人戦だったが、その間に厳然と17年の歳月が流れていたのである。
しかし森は食べ物屋が3軒並んだその前に戻り、「多分、ここだと思う」とはっきり言った。
夕暮れが迫って来た。
「仙台ならカキだ。うまくて安い店を知っているから行こう」
森の陽性の部分が回復し、私たちはその夜しこたま飲んだ。帰り際、立ち食いそばを食べ、それがことのほか旨かったことを覚えているが、ホテルの自室に戻ったことを私は覚えていない。
◇ ◇ ◇
一夜明けた。
森は独りで泊まった旅館で、約束していた毎日の加古氏からのモーニングコールを受けた。
旅館を出てタクシーに乗り、仙台ホテルへ向かった。フロントで自室の鍵をもらい、エレベーターで対局室、控え室のある6階へ昇った。
加古氏の本誌記事。
「エレベータから出てきた森は、下駄に和服、そして上はと見れば青々とした頭!『どうしたんですか』『ウン、これね』とだけ言って森は部屋に姿を消した。ホテルのボーイが、これまたびっくりした表情で森の荷物を持っていたことに、後になって気づいた。それが8時20分」
対局室は601号室。15畳の和室で、窓の外には人工の庭がしつらえてある。壁紙などの貼り替えはあっても、部屋の造作は当時と今とまったく変わっていない。
私たちはエレベータを降り、すぐ左の601号室に入った。森は黙ったまま、しばらく部屋を見わたした。
中央に大きな卓袱台、対の座椅子。私たちはそれらを次の間に片し、将棋盤の位置を想定して、座布団だけ向かい合うように置いてみた。
下座の位置にスーツの森が座った。「思い出すよ」と森がつぶやいた。
この時の立会人は花村元司九段、副立会人は二上達也九段、記録係は田丸昇五段。特別ゲストは夜行列車に乗り、当日朝に到着した大山十五世名人である。観戦記担当の山口瞳氏も記録机の左端に座った。
剃髪の森の登場は、一同の度肝を抜くものであった。
加古氏の本誌記事。
「ライトを浴びながら、中原が入室。次いで、中原に沿うように森が登場。こんどは、私以外の人が驚く番だ。誰もが呆然として声が出ない。そこは、さすがに場を踏んできた大山十五世名人がいう―『どうしたの、剃っちゃったの』。森、それに応えず。大山が『坊主が二人できちゃった』と言ったのは、立会い、花村九段を加えてのことらしい。それすら、笑いを呼ばないほど、対局室には一種異様な空気が流れた」
振り駒で先手をひいた森は、当時最も得意としていたツノ銀中飛車を採用した。この将棋は森の名局となった。逆に中原名人には、どこか力が出ない不本意な将棋になっている。
森の剃髪に最も驚いたのは、やはり中原名人であったろう。
中原は森を一瞥し、不快に思ったことは確かである。「オカルト映画に出て来た主人公にそっくりだった」と、後に笑いながらではあるが、回想している。中原流の柔らかいオブラートに包んでしまっているが、当時、森の剃髪を見た中原は、森の悲愴な決意を読み取ったはずである。1局目、そのとまどいが中原にして盤上を乱れさせた。
「あの将棋は」と森が言う。「踏み込むか自陣に手を戻すか、終盤で迷う局面があった。しかし踏み込めたんだ」
図の△5七桂に対する▲4二馬切りである。
△同金に▲5一銀。2日目、午後4時15分、81手という早い対局であった。
「あの名人戦は第2局の敗戦がすべてだった。あれに勝っていたら、4連勝で名人になっていたはずだ」
森の頭髪は、第2局の時点で五分刈りほどにのびていた。さらに局が進むごとに森の頭髪はのびていった。
私は札幌市での第5局の現場に行っている。千日手になった将棋である。この時、森の頭髪はかなりのびていた。第1局の剃髪のあと、第2局第3局あたりまでは、修行僧の趣があった。第5局ではすでに、それすら消えていた。
「中原さんはあの時、全局剃髪して来られたら、名人を取られていたかもしれないと言っていたそうですよ」
私は意地悪な質問をしてみた。
「そう。しかしね、僕は名人を取らなくてよかったと今思っているんだ。取っていたら、僕のことだ。目標を失い、将棋指しをやめていたかもしれない」
森は棋聖を取り、谷川浩司から王位も取った。今期は羽生善治の持つ王座にも挑戦した。しかし森はまだ目標に達しないまま、棋士人生をさらに上昇させようとしているのである。
「60歳になったら、名人を取るよ。いつ引退してもいいようにね」
いたずらっ子のような笑顔であった。
大山も花村も、今はこの世にいない。観戦記を担当した山口瞳氏も他界した。17年の歳月は、やはり厳然として存在すると繰り返すしかない。
しかし森は仙台の思い出をしまいこみ、達成していない目標に向かって歩み続けようとしている。
私たちは弁当を買い込み、新幹線に乗り込んで仙台をあとにした。
* * * * *
「テキサス州ダラスでケネディ大統領が暗殺された時、何をしていたか。若い人はともかく、この設問には、ほとんどの人が答えられるという」
私は覚えていないので、少なくともこの頃の私は若い人だったということになる。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起きた時は、六本木の接待を伴う飲食店にいたことを覚えている……
* * * * *
「当時の「ひばり」は上野から仙台まで4時間かかった。現在の新幹線は半分の2時間である」
急行は5時間だった。あまり特急のメリットがないよな、と思いながら当時は乗っていた。
* * * * *
「もしそのあと勝って、名人挑戦者になれたら、剃髪して対局しようとその時に思ったんだ」
有吉道夫八段(当時)に敗れた時点でも、森雞二八段(当時)は残り2戦を残して単独トップ。
ラス前で勝って、最終局を待たずに名人挑戦を決めている。
願をかけるのともまた違う。
ただ、その時にそう思って、そうなったから剃髪を実行しただけ、ということになるのだろう。
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「対局場の仙台ホテルは西口を出た前にある」
仙台ホテルは、仙台市内で最も由緒のあるホテルだったが、2009年12月31日に閉館している。
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「あらかじめ毎日新聞には、対局前夜だけ別のところに泊まりたいと言っておいた。僕が泊まったのは和風旅館だったんだが、そこがどこか思い出せない」
当時の仙台には、老舗の旅館があり、仙台ホテルとのバランスをとるとすると、きっとそこだったのだと思う。タクシーですぐのような距離で、歩けば10分くらいの所。
この旅館は1995年当時はあったけれども、現在は閉館している。
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「師匠の大友昇八段でさえ『ウン、なかなか余裕がある』と思っていたそうだ」
大友昇九段は仙台市出身。お墓も仙台市にあり、やはり大友九段の弟子である郷田真隆九段は、仙台に仕事で来るようなことがあった時には、必ず師匠の墓参りをしている。
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中原誠名人は宮城県塩釜市の出身なので、森八段にとっては、地理的にアウェーの対局場だったということになる。
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「ホテルを出て左に歩いた。10数メートルのところに理髪店があった」
ホテルを出て右側は道路を一本はさんで駅になるので、左に曲がる一択。
2枚目の写真は、仙台ホテルのある一画を背にして横断歩道を渡っているところ。
私は高校3年まで仙台にいたが、この辺に理容店があったかどうかは全く覚えていない。
名人戦第1局前夜、すぐに理容店が見つかったのは、森八段にとっては幸運なことだったと思う。
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「剃髪の森の登場は、一同の度肝を抜くものであった」
「大山が『坊主が二人できちゃった』と言った」
ここでの坊主は、1cm以上の髪の毛が一本もない、という狭義の坊主のことなのだろう。
広義の坊主ということであれば、大山十五世名人、山口瞳さんも加わり、4人と計算される。
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「オカルト映画に出て来た主人公にそっくりだった」
実際には、オカルト映画ではなく、『犬神家の一族』の犬神佐清(いぬがみ すけきよ)のこと。
後に、この時のことについて中原十六世名人が書いている。
→仮面の男
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「そう。しかしね、僕は名人を取らなくてよかったと今思っているんだ。取っていたら、僕のことだ。目標を失い、将棋指しをやめていたかもしれない」
棋士が名人になるということは、天文学者が宇宙の果てを見た時のような気持ちになるのだろうか。
芹沢博文九段も、表現は異なるけれども、同様のことを述べている。
昔の棋士に共通した心情なのかもしれない。
→「もし名人になれたら、腕一本と言わず、一年もし名人を許してくれるなら命もいらぬ」
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「しかしこの日の森は、少々沈滞しているように見えた。いつもの旅ではなく、17年前の名人戦を思い出す特別な旅だからであることは言うまでもない」
「17年はあっという間だったよ。あの名人戦はつい昨日のことのようだよ」
「下座の位置にスーツの森が座った。『思い出すよ』と森がつぶやいた」
森九段が一人、対局が行われた部屋に座る4枚目の写真。
心を打つ写真というのか、理由もないのに涙が出てきそうになってしまう。