先崎学六段(当時)「佐藤さんの将棋の質が色っぽくなりましたね、はっきりと」

将棋世界1996年2月号、先崎学六段(当時)解説の第8期竜王戦七番勝負第5局〔佐藤康光前竜王-羽生善治竜王〕観戦記「見えない手」より。記は野口健さん。

第5局。将棋マガジン1996年2月号より、撮影は弦巻勝さん。

 佐藤さんとの決勝の時に、僕はとにかく駒を勢いよく前に出すことだけを考えて指してみようと思ったんです。だが驚いたことに、佐藤さんも勝った後で「勢いよく指すことだけを心掛けた」とコメントしたんです。それがすごく印象に残っていますね。

 七番勝負が始まる前は、佐藤さんが4連勝で竜王をとるのではないか、というくらい調子の差があると思っていました。佐藤さんはかつてなくいい将棋を指してたんです。対する羽生さんは将棋が疲れていた。これを不調という言葉だけで片付けていいのかどうか。ですから、将棋の実力はもし羽生さんの方が上だとしても、今やれば佐藤さんが楽勝する流れだと思ったんです。

 そして、第1局は佐藤さんが完勝した。ところが、2局目で陽動振り飛車をやった。ここに彼がずっと勝ってきたわけもあるし、また今回の竜王戦でもし負ければ敗因ということになります。

 佐藤さんは、読みが鋭くて間違えないというイメージがありますが、実際は形で手を切り捨てるタイプですね。こういう手は読まないという手が非常に多い。非常に筋がいい将棋で、とにかく前に出る筋だけ一生懸命読んで、引く手を読まない。だから、佐藤さんの棋風は陽動振り飛車に向いてないんです。それは自分でも分かってる。では、なぜやったかというと、芸域を広げようとしたんでしょうね。彼は完璧主義者ですから。それだけ自分の将棋を真剣に見つめてるわけです。彼のことは、彼が一番よく考えているのだから、それが裏目に出てもしょうがないんですね。本人の生き方ですから。ただ、2局目は非常にまずい将棋でしたね。駒が全部引いた上に、グチャグチャにされた。

 佐藤さんとしては、今回は負けられないんですよ。春からスタイルを変えてきたわけですから。将棋の質が色っぽくなりましたね、はっきりと。

(中略)

 △7四歩と突かずに△6五歩(1図)も羽生さんが工夫した手ですね。△7四歩と飛車のこびんをあけると急戦に来られた時に危ないので、飛車を6二に回って使おうという構想です。

1図以下の指し手
▲7五歩

 1図で▲7五歩は、一見すると悪手です。なぜかというと、先手陣の右翼は攻めの陣形を敷いていて、▲3七桂と跳ねればいつでも▲3五歩と仕掛けられる。一方、▲7五歩は7六に桂打ちのキズができて急戦の時には損な構えなので、左右のバランスが悪そうな感じなんです。

 羽生さんは▲7五歩をありがたいだろうと思っただろうし、控え室でもこんな手はないんじゃないかと。ただ、佐藤さんだけは悪手でないと思っていた。この手がやりたくて相掛かりにしたらしい。下調べがついていたんですね。

(中略)

 控え室では△3三銀で、△3五歩▲同歩△3八歩▲6三歩△同銀▲3八飛△2七角▲3九飛という変化を検討していましたが、これは先手が全然よいと佐藤さんはいってました。僕も意外だったんですが、ここまで研究済みだったんです。

(中略)

 そこで▲6四歩(3図)と垂らして、佐藤さんは優勢だと思ったみたいです。▲8二角があるので△同飛とは取れない。先手は次に▲8八玉として、後は▲3七桂からどんどん攻めればいい。後手は非常に困ったはずだと。

 ところがここで羽生さんが、佐藤さんのまったく読んでなかった手を指したんです。

3図以下の指し手
△9五歩▲同歩△9六歩▲8八玉△6四飛▲7二角△9二角▲7四歩△6二飛▲9四角成△7四角▲7六馬(4図)

 △9五歩▲同歩△9六歩は、やっぱり強いところでしたね。ここまで、佐藤さんが研究してきた手を指して、相手の感覚を欺き、控え室の意見も欺き、少し指しやすい局面を作り上げたわけです。そこで、羽生さんがその場で対応したんです。

 後で二人きりの時に佐藤さんがいってましたが、この手だけは感心したと。ほかの手はどうだったと訊いたら、笑って答えませんでしたが。

 △9六歩は発想が柔らかい手ですね。△9七歩は▲同香と取られてだめです。△9六歩と垂らして、手を渡したんです。次に△9五香と走ると、後で▲8六銀と取りにこられる。△9七歩成ともできない。何にもできない。ところが、これが非常にうまい手だったんです。

 ▲9五同歩に21分、そして△9六歩に対して40分。浮かれた気分が吹っ飛んだ感じですが、▲8八玉はいい手でした。

 後手は△6四飛から徐々に攻めようということですが、▲7二角と打たれて、△9二角は必然でしょう。

(中略)

4図以下の指し手
△9七歩成▲同玉△6五銀▲同銀△同角▲同馬△同飛▲8八玉△9六歩▲7二角(5図)

 佐藤さんは△9七歩成から△6五銀が意外だったといってましたが、そこで▲8六馬と寄れば明らかに優勢でした。

 ただ、▲6五同銀△同角の時に、▲5八馬と引く予定だったんですね。ところが20分考えているうちに、△6七歩という手に気づいた。以下、▲同金直△9五香▲9六歩△同香▲同玉△8八歩▲同金△9八歩と王様の逃げ道を塞いでおいてから上から攻める順があって、非常に危ない。この筋は、羽生さんも気がつかなかった。▲5八馬と引いていれば、羽生さんは違う手を指して攻めが切れたかもしれません。

 この変化には感心しました。なかなかこういう手は見えないんですが、強いですね。だから、この将棋はあらゆる点で佐藤さんが勝っているですよ。序盤の作戦、中盤の読み、局面のつくり方と、負ける要素がない。ただ一つだけまずいところをこの後、突かれたんです。

 ▲8八玉に、再度△9六歩。ここでも△9七歩と打ちたくなるところですが、▲同香と取られてわかりやすくなる。ところが△9六歩だと取りにくいし、どう指していいのかわからない。ここが微妙なところで、△9六歩の方が相手のミスを呼び込みやすいんですね。この二度の△9六歩が、羽生さんの不調の時の指し方で、不調でも勝つのは、こういう相手のミスを待ってしがみつくという部分が強いんです。この二度の△9六歩は、そこで仮に後手の手番でもどう指していいか難しい。だから本局の△9六歩という手は、心理手というか、文学的な手ですね。

 △9六歩で難しいんですが、まだ先手がいいんでしょう。▲7二角と打った5図。ここが運命の局面でした。

5図以下の指し手
△4九角▲8一角成△6七歩▲6九金△6八銀▲同金上△同歩成▲同銀△3八金(6図)

 ここでは残り時間が双方40分くらいで、いわゆる瞬発力の勝負になった。一番ミスの出やすい危ないところです。局面が突然がらっと変わって、残り時間が切迫して、最初の△9六歩という読んでない手を指された時からの動揺が佐藤さんの方にあるでしょうから。

 ▲7二角(5図)は、決して悪い手ではないけど、ほかにも▲6六歩や▲8三角とか、いろいろ手があって難しい。▲9六同香もあるだろうけど、ほかの手があるなら佐藤さんは絶対に指さない。9七に垂らされ▲同香△9六歩▲同香となるのに比べ、一歩かすめとられる。許せないんです、取るということ自体が。たぶん羽生さんもそれがわかってるわけです。

 佐藤さんは▲7二角に△9三桂の一手と読んでいたんです。先手は桂馬を取れば、△9五香には▲9八歩と受けて、次に▲9二馬と引く手が味がいいので勝ちと思ってるわけです。△9三桂は、逃げながら遊び駒を活用して、次になんでも△8五桂と跳べる筋のいい手で、佐藤さんならノータイムで翔ぶはずです。

 そこに△4九角という手が飛んできた。ほかに手が見つからなくて打ったと思うんです。次に△2七銀から飛車を取れば後手玉が安全になるので、そう簡単には負けることはないと。攻めを見せながら、粘りも作った手なんです。

 ところが佐藤さんとすれば、△9三桂の一手と思ってるところに、ほかの手がきたので、▲8一角成がえらくいい手に見えちゃったんですね。これが敗着でした。自分でも▲8一角成はありえないといってました。

 ▲8一角成では▲6七歩として、逆に△6七歩と打たれる筋を消しておけば、4九角が全然働かないので、先手勝ちでした。例えば▲6七歩に△2七銀でも、▲4八飛△3八角成▲同飛△同銀成▲8三角成で、これはおしまいです。

 それと、佐藤さんは王様が薄くなるのを全然いやがらないんです。森下八段なら絶対に△6七歩とは打たせない。▲6七歩としか打たないですよ。だから油断する要素がそろっちゃったんです。

 △6七歩から△6八銀に▲同金上も、▲同銀のほうがよかった。金を渡してはいけなかった。直後の△3八金を、佐藤さんは読んでなかったんです。この手は読まないんですよ。それが自分でもわかってるから、陽動振り飛車をやるわけです。ここに関連性があるんです。

 佐藤さんいわく、△3八金(6図)と打たれても真っ暗にならなかった。一瞬ありがたいと思ったと。自分のきらいな手は悪手に見えるんです。それで考えていくうちに、だめだとわかった。ここで残り33分から27分使ってます。ここはもう先手がだめなんです。▲1八玉と逃げても△2九金で、次に△7六桂。△2九金に▲7七歩は△6六桂、▲7六歩は△8四桂で受からない。実際この後の感想戦はまったくなかったから、お互いに△3八金でこの将棋は終わりということになりました。

(中略)

 本局は非常におもしろい将棋ですね。お互いの特徴がよく出ていると思います。

 佐藤さんは、▲8六馬か▲6七歩としていれば完勝譜になったんでしょうが、△3八金が見えないからしょうがない。残り時間が少なくなって、スプリントのダッシュ勝負になると、いいところと悪いところがストレートに出るわけです。今回は、悪いところが一番ひどい形で出ましたが。

 佐藤さんは今の将棋に対する感覚では△3八金という手が絶対に好手に見えないんです。その欠点を直そうとして悩んでるわけです。だから今回は、また反省が深まったでしょうね、きっと。でも、そういう風にもがいている姿が、将棋が色っぽいんです。

第5局。将棋マガジン1996年2月号より、撮影は弦巻勝さん。

* * * * *

1995年の竜王戦七番勝負第5局。昨日の記事では米長邦雄九段による論評・考察だったが、今日は先崎学六段(当時)による観戦記。

「佐藤さんとの決勝の時に、僕はとにかく駒を勢いよく前に出すことだけを考えて指してみようと思ったんです」

先崎学六段(当時)は、竜王戦挑戦者決定三番勝負を佐藤康光前竜王(当時)と戦って、1勝2敗で敗れている。

無頼派棋士たちの秋

* * * * *

「だから、佐藤さんの棋風は陽動振り飛車に向いてないんです。それは自分でも分かってる。では、なぜやったかというと、芸域を広げようとしたんでしょうね。彼は完璧主義者ですから。それだけ自分の将棋を真剣に見つめてるわけです」

タイトル戦の番勝負で新しい試みをしてこそ「真の試み」という考え方。

得意とする戦型での新手ならタイトル戦で初登場という例も多いが、このような例は少ないと思う。

* * * * *

「佐藤さんとしては、今回は負けられないんですよ。春からスタイルを変えてきたわけですから。将棋の質が色っぽくなりましたね、はっきりと」

純粋な正統派から、もっと芸域を広げようという萌芽が出始めた時期、ということになるのだろう。

吸血鬼ドラキュラに血を吸われた女性は、少し経つと吸血鬼に変わってしまうわけだけれども、人間から吸血鬼に変わる一歩手前の時が最も妖艶な美しさになる、とブラム・ストーカー著『ドラキュラ』で読んだような記憶がある。

佐藤康光前竜王(当時)の将棋のそのような時期だったのだと考えられる。

* * * * *

「(▲7五歩を)佐藤さんだけは悪手でないと思っていた。この手がやりたくて相掛かりにしたらしい。下調べがついていたんですね」

「佐藤さんいわく、△3八金と打たれても真っ暗にならなかった。一瞬ありがたいと思ったと。自分のきらいな手は悪手に見えるんです」

▲7五歩も△3八金も、普通なら指しづらい手。

▲7五歩は好きな手で△3八金は嫌いな手という、この違いがなかなか理解できないところだが、とにかくそういうことだ。

* * * * *

「不調でも勝つのは、こういう相手のミスを待ってしがみつくという部分が強いんです。この二度の△9六歩は、そこで仮に後手の手番でもどう指していいか難しい。だから本局の△9六歩という手は、心理手というか、文学的な手ですね」

「▲9六同香もあるだろうけど、ほかの手があるなら佐藤さんは絶対に指さない。9七に垂らされ▲同香△9六歩▲同香となるのに比べ、一歩かすめとられる。許せないんです、取るということ自体が。たぶん羽生さんもそれがわかってるわけです」

二度の△9六歩は、それこそ純文学のような手。

あるいは、神社の御札のような手とでも言うべきか。

何もしなければ何もなさそうだけれども、はがすと何か悪いことが起きそうな。

どちらにしても、恐ろしい手があったものだ。