三浦弘行五段(当時)「いや、それは内緒です。言うと、みんなが真似しちゃうでしょ」

NHK将棋講座1996年8月号、畠山直毅さんの「羽生七冠王に挑んだ挑戦者たち」より。

将棋マガジン1996年8月号より。

「羽生さんが強いと感じなかった。僕が弱すぎただけです」

 去年の棋聖戦で羽生に3タテを食った直後、三浦弘行五段は力強くこう言った。このときの棋聖戦も、終盤までは羽生と互角に渡り合った三浦が、最終盤で一気に差されるような将棋が続いた。おそらく今回の森内と同じような心境を味わったに違いない。

 その三浦が、また棋聖戦の舞台に戻ってきた。下馬評は圧倒的な不利。直前の順位戦では先崎学六段に大逆転負けを喫したことも、この評価に拍車をかけた。単賞オッズは、羽生が1.2倍で三浦が8倍見当だろうか。

 だが、棋聖戦五番勝負の第1局は、挑戦者が七冠王を84手で破った。それも、中盤の入り口から無理筋と思われる攻めを敢行し、そのまま攻めて攻めて攻めまくって羽生陣を粉砕してしまったのだ。

「いきなりこられて参りましたね。もっとゆっくりした手順でくると思ってました」

 羽生が脱帽するほど電光石火の仕掛けは、投了まで切れることはなかった。三浦の気迫が羽生を圧倒した一戦だった。

 三浦君、やるなあ。

 控室のあちこちで感嘆のつぶやきが漏れ、僕も同じ言葉をつぶやいた。同時に、前回からの1年間は、三浦にとってどんな1年だったのか、という思いを巡らせた。少なくとも前回の棋聖戦では、これほどの強い踏み込みは見られなかったのだ。

 第1局の深夜1時、僕と三浦は淡路島の温泉の湯に浸かっていた。

 順位戦のひどい負けの直後だったので、きょうの圧勝劇はちょっと意外だった。と、僕は正直に感想を伝えた。三浦の切れ長の目が、少し怒ったように見開かれた。

「いや、あの逆転負けで怒りが爆発したんです。自分は今まで何をやってたんだ、って。とことん駄目なやつだって。心を入替えて将棋に打ち込もうと決心したっす。これからは将棋だけに全精力を注ぎます」

 この答がまたちょっと意外だった。三浦は群馬の自宅に引きこもって、将棋の研究ばかりしているものと思っていた。その成果が第1局に反映されたのだ、と。

「違うっす。こう、単調な生活の中でひとり駒を並べていると、次第に悶々としてばかりで、将棋への情熱がイマイチ失せてくるんです。わかりますか、その感覚。結局、毎日ゲームセンターに行って、あてもなくゲームをやっちゃって……うん」

 三浦は自分に言い聞かせるように、ひとりうなずいてみせた。そして、

「もう、心を入替えたっす。これからは将棋一筋でいきます」

 こう繰り返した。僕はこの三浦の言葉に危険なにおいを感じた。

「でも、人間ってのは何かの逃避活動によって精神のバランスを保つ面もあるから、そんなに自分を追い詰めないほうがいいんじゃない。むしろ他の遊びも入れたほうがいい。あんまり思い詰めると狂っちゃうよ」

 弘行みたいな男を、本当のクレイジーっていうんですよ……以前、行方尚史五段が三浦をこう評していたことを思い出していた。

「いや、もしそうなったら、それまでの男です」

 三浦はキッと僕をにらんで、こう言った。ものすごく思い込みの強いタイプだ。言葉と眼光に圧倒されつつ、僕は話題を変えた。

 そもそも心を入替えたくらいですぐに羽生に勝てる道理はない。羽生陣を粉砕した原動力は、もっと別にあるはずだ。それは、何か。

「いや、それは内緒です。言うと、みんながまねしちゃうでしょ。それに、この先3連敗したらカッコ悪いじゃないっすか」

 む、やはり三浦なりの秘密兵器が隠されていたのか。僕が身を乗り出すと、三浦は「しょうがないな、言いますよ、言います」とつぶやきながら、真剣な表情で打倒・羽生の秘密を語りはじめた。

「相手を羽生さんだと考えないんですよ。相手のことは何も考えない。ただ盤面だけに集中するんです。ああ、みんなまねしちゃいますね」

 僕はいきなり拍子抜けし、苦笑を抑えることができなかった。

 これが簡単にできれば、一連の挑戦者たちはもっと勝ち星を伸ばすことができたはずなのだ。羽生を羽生と思わないようにしよう、という自意識が、逆に挑戦者自身の首を締めてきた。それが本当の意味での「羽生マジック」なのだと僕は考えている。

 では、どうやったら羽生の存在を無にできるのか。僕が突っ込むと、今度は三浦が苦笑した。

「え、そんなことは僕にはわからないっす。ただ考えないだけです。僕は思い込みが強すぎてよく失敗するけど、思い込みが強い分だけすぐに思い込めるんです」

 答えになっているような、なっていないような……湯舟から上がりながら、僕はもうひとつだけ三浦に質問した。

 1年たった今、去年の棋聖戦を振り返って改めて感じることは何か。

 この妙な質問にも、三浦は間髪をおかずに飄々と答えた。

「羽生さんが強いんじゃなくて、自分が弱かった。それだけです」

 去年とまったく同じ答え……もし、この言葉が気休めでもなんでもない本心の発露であるなら、三浦の心・技・体のバランスはおいそれとは崩れないだろう。

 逆に羽生の絶妙精緻なバランスをおびやかすとしたら、三浦のような男なのではないか。自意識を超越するほどの強い思い込みを武器に、三浦弘行は打倒・羽生の候補筆頭に浮上した。

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これから羽生七冠王の一角を崩すことになる三浦弘行五段(当時)の会話が実に活き活きと描かれている。

畠山直毅さんの文章には、良い意味でのケレン味がある。

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「違うっす。こう、単調な生活の中でひとり駒を並べていると、次第に悶々としてばかりで、将棋への情熱がイマイチ失せてくるんです。わかりますか、その感覚。結局、毎日ゲームセンターに行って、あてもなくゲームをやっちゃって……うん」

三浦五段は、毎日10時間、将棋の研究をしているということで有名だったが、10時間という長い時間であるがゆえに、このようなことも起きてきたのかもしれない。

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「もう、心を入替えたっす。これからは将棋一筋でいきます」

純度が高まる毎日10時間以上の研究。恐ろしいほどの迫力だ。

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「弘行みたいな男を、本当のクレイジーっていうんですよ……以前、行方尚史五段が三浦をこう評していたことを思い出していた」

二人は小学生時代からの付き合い。

NHK杯の解説で、三浦弘行八段(当時)が行方尚史八段(八段)の対局の解説をやった時のこと。

三浦「僕は子供の頃、行方君とよく一緒に遊んだんですよ」

千葉(涼子女流)「一緒にどんな遊びをやられていたんですか?」

三浦「…将棋とか」

千葉「……………」

ある掲示板によると、このようなこともあったらしい。

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「いや、もしそうなったら、それまでの男です」

格好いい。

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「いや、それは内緒です。言うと、みんながまねしちゃうでしょ。それに、この先3連敗したらカッコ悪いじゃないっすか」

「しょうがないな、言いますよ、言います」

「相手を羽生さんだと考えないんですよ。相手のことは何も考えない。ただ盤面だけに集中するんです。ああ、みんなまねしちゃいますね」

三浦九段が、昔から愛すべきキャラクターだったことがよくわかる。

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「え、そんなことは僕にはわからないっす。ただ考えないだけです。僕は思い込みが強すぎてよく失敗するけど、思い込みが強い分だけすぐに思い込めるんです」

これはこれで、説得力がある。

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「羽生さんが強いと感じなかった。僕が弱すぎただけです」

この後、棋聖戦第2局と第3局で三浦五段は完敗を喫している。

第4局終了後(2勝2敗)、三浦五段は、

「羽生さんは強いっす。信じられないくらい強いっす」

と語っている。

この気持ちの変化が、三浦五段の棋聖位奪取につながったとも考えられる。