三浦弘行五段(当時)「一番好きな将棋は羽生将棋、です」

NHK将棋講座1996年9月号、畠山直毅さんの「若獅子三浦、暗闇に吼える」より。

棋聖戦第3局。将棋世界1996年9月号より、撮影は中野英伴さん。

棋聖戦第3局。将棋マガジン1996年9月号より、撮影は中野英伴さん。

創られた投了図

 神か、鬼か。

1勝1敗で迎えた棋聖戦の天王山第3局。三浦五段がなす術なく投了した瞬間、控室は得体の知れない静けさに包まれた。

「こんなにきれいに詰むなんて…」

「いつから、この投了図をイメージしていたんだろうねぇ…」

 富岡英作七段の、あきれたようにつぶやいた声が妙に大きく響いた。

 この投了図は、持ち駒の一歩さえも無駄にしない、ピッタリの即詰み。後手玉がどこに逃げても、それぞれ全く違う手順で詰め上がる。

 特に、△1二玉とかわした場合の手順の美しさはどうだ。

 以下▲1三桂成△同玉▲1六飛△1四歩▲3四銀!

 ▲1六飛&▲3四銀で、はるか彼方の6八の角が敵玉を直射する。もちろん、この角をと金で払っても、合い駒で防いでも▲2三金(または▲2三銀成)の1手詰だ。

 そして、詰め手順の美しさもさることながら、いつ、どの時点で羽生七冠王がこの投了図を頭に思い描いていたか…。王手の連続が始まった13手前はもちろんのこと、20手ほど前には間違いなく読み切っていた。

 もしかすれば、30手前~40手前には、すでに一歩たりともズレのない投了図を描いていたのではないか。そう推測しなければ、説明しようのない指し手の連続だった。 神か、鬼か。

 感想戦でも、途中の変化手順は羽生の独壇場だった。三浦がある手を指そうとすると、「そうじゃないでしょう!」と叱咤するような口調で「ん?ここは飛車が寄るんじゃないですか?」と注文をつける。慌てて飛車をつまみ、盲従する三浦。間髪おかずにその応手を繰り出す羽生。

 捕まった!

 圧倒されっぱなしの三浦を見ながら、僕は心の中で叫んだ。ボクシングでいうなら、サンドバッグ状態だ。実戦で戦闘不能のグロッキー状態に陥り、さらに感想戦でメッタ打ちにされたのだ。

 22才の三浦は、まだこのリングに上がるべきではなかったか。

 心底、そう思った。第1局を快勝したとき「相手を羽生さんだと思わないようにした」と笑顔で勝因を語った三浦。だが第2局で完敗を喫し、第3局でサンドバッグ状態になった今、三浦は「羽生将棋」という暗闇の中に迷い込んでしまったのだ。

 一方の羽生は、感想戦でいらだたしそうなそぶりを何度も見せた。半年前の王将戦で、谷川浩司王将(当時)に見せた表情も同じだった。

「僕の思い描いたイメージどおりの将棋じゃあ、意味がない。もっと高く、もっと遠くへ行こうよ」

 羽生のそんな表情を見ていると、僕はいつも羽生がこう言っているような気がしてしまう。もっと高く、もっと遠くへ…。だが、その先に待っているのは、棋士にとってもっとも危険な領域なのかもしれない。

「中盤から、投了形を読みきっていたのですか?」

 感想戦の最後、誰かが羽生にこう質問した。核心をつく質問だった。

「いや、そこまでは読めないですけど…」

 羽生は表情を変えずに、こう答えた。「そこまでは」のひとことが、ほとんど読みきっていたであろうことを、逆に示唆していた。

棋聖戦第3局感想戦。将棋世界1996年9月号より、撮影は中野英伴さん。

人知を超えた死闘へ

 棋聖戦第4局。三浦はもはや、蛇(猛毒をはらんだハブ)ににらまれた蛙だった。僕は、勝ち負けどころか、三浦が第4局でついにパンチドランカーになるのではないか、という最悪の心配までしていたのだ。

 だが、三浦は羽生に快勝した。それも自分はもとより羽生を1分将棋に引きずりこんで、167手の死闘を制した。信じられなかった。あの第3局の、どこに羽生を打ち破るだけの余力を残していたというのか。

 注目の感想戦。三浦は第3局とは別人のように、堂々と独自の変化を提案した。羽生の変化手順にも次々と口をはさんでゆく。

「ここで桂を打たれたら困ったと思うんですが」

 羽生が驚いたように、その手を踏襲する。

「ん? そうか、こうやるのか。そうか、わざと桂を打っておいたほうがいいのかぁ…。手筋だなぁ。ちょっと気がつかなかったですねぇ」

 羽生が少し悔しそうに、それでいて目を輝かせて何度も「気づかなかった」を連発する。羽生の勝ち筋を指摘した三浦は、静かに笑った。その表情からは、第3局の後遺症は微塵も感じられなかった。

「まさか勝つとは思ってなかった。この1週間ちょいの間に何かあったとしか思えないんだけど」

 対局が終わった深夜、僕は聞きたいことをストレートにぶつけた。

「ありましたよ。心境の変化ってやつです。でも言いません。こないだ(第1局後)話したら、いきなり2連敗したし(笑)。それに、言えないことって、誰だってありますよね」

 申し訳なさそうに、三浦はこう答えた。もちろん、それ以上突っ込むつもりなどさらさらない。曖昧にうなずくと、三浦は人斬り以蔵のような鋭い眼光を僕に向けた。

「ただ、これだけは言えます。羽生さんは強いっす。信じられないくらい強いっす。技術だけじゃない、うまく言えないけど、精神力っていうのか、目には見えない精神力の強さをひしひし感じるんです。本当に、信じられないくらい強いっす」

 堰を切ったように、三浦は話しはじめた。第1局が終わったあたりまでは「羽生さんが強いんじゃなく、僕が弱すぎるだけ」と断言していた男が、今は「羽生は強い」と何度も繰り返している。僕の頭は混乱した。

 おそらく、この変化が第2局と第3局で完敗を食らった三浦の新境地なのだろう。「羽生は強くない」と言い聞かせることによって構築したもの、そして「羽生は強い」と思い知らされたことによって構築したもの、それが二重のバネになって第4局の勝利に結びついたのか。

 いや、そんな安直な結論を導くのはよそう。「信じられないほど強い」羽生によって暗闇に突き落とされた男が、ほんの1週間で羽生に勝てるわけがない。羽生の将棋が人知を超えつつあるように、三浦の勝因もまた、僕の貧弱な憶測をはるかに超越しているのだ。

 取材後、三浦が色紙に揮毫するのを見学した。”忍”、”克己”……これは、故・大山十五世名人の受け売りなのだそうだ。

「大山将棋が好きなの?」

 と聞くと、三浦は「ええ、けっこう」と言った。

「じゃあ、一番好きな将棋は?」

 しつこく尋ねると、三浦はちょっと照れながら答えた。

「羽生将棋、です」

 話せば話すほど、三浦という男がわからなくなってくる。そして、だからこそ羽生と互角に戦えるだけの器の持ち主ともいえるのだろう。

 次は、いよいよ最終局、暗闇から這い上がった三浦の奮戦ぶりを、とくと拝見するとしよう。

* * * * *

「この投了図は、持ち駒の一歩さえも無駄にしない、ピッタリの即詰み。後手玉がどこに逃げても、それぞれ全く違う手順で詰め上がる」

たしかに、創られたような、あまりにも見事な詰み手順。

取られる直前の状態の6八の角が活きてくるのが印象的だ。

* * * * *

「ありましたよ。心境の変化ってやつです。でも言いません。こないだ(第1局後)話したら、いきなり2連敗したし(笑)。それに、言えないことって、誰だってありますよね」

短期間で復活するとともに、意識まで自然と変わるところが三浦弘行五段(当時)の強み。

「でも言いません」が面白い。

* * * * *

「ただ、これだけは言えます。羽生さんは強いっす。信じられないくらい強いっす。技術だけじゃない、うまく言えないけど、精神力っていうのか、目には見えない精神力の強さをひしひし感じるんです。本当に、信じられないくらい強いっす」

ここで書かれている通り、羽生善治七冠(当時)の強さを骨の髄まで実感できたことが、状況を好転させたのだと思う。

* * * * *

「取材後、三浦が色紙に揮毫するのを見学した。”忍”、”克己”……これは、故・大山十五世名人の受け売りなのだそうだ」

「忍」「克己」は、三浦九段の代表的な揮毫となっている。

* * * * *

「しつこく尋ねると、三浦はちょっと照れながら答えた」

一番好きな将棋を羽生将棋、と言う三浦五段。

三浦九段の三段時代、三段リーグで勝てなかったときに、「自分が羽生さんだったら簡単に抜けれるのではないか」と考え、羽生将棋を研究し真似したら勝てるようになったという話がある。

とても素直な三浦弘行三段(当時)