平野広吉七段「いつかは自分の系統から名人を出したい。この気持ちを引き継いで後進を導いてくれ」

将棋世界1997年11月号、田辺忠幸さんの「師と弟子の物語 平野広吉先生の思い出 六段 所司和晴」より。

平野広吉七段。将棋世界同じ号より。

「知る人ぞ知る」という言葉がある。手元の辞書を引いてみたら<一般の、大部分の人には知られていないけれども、ある一部の人は、その値打ちをよくわかっている>とあった。

平成元年1月15日、昭和から平成に変わった直後に、73歳で亡くなった平野広吉七段(追贈)も、一般的にはほとんど無名の棋士だったのではあるまいか。

 長い間、将棋界にどっぷりつかっている記者にしても、平野七段について知るところは少ない。先生が順位戦に出場したのは昭和22年(1947年)から33年までであり、40年には現役から退いているので、その公式戦の対局姿に接した記憶はないし、どんな将棋を指したのか見当もつかない。

 引退後は将棋連盟の道場師範を務めたり、総務部に在籍して将棋会館の管理に当たり、宿直役をこなしたりしておられたので、しょっちゅう顔を合わせてはいた。お酒とギャンブルが大好きで、いつもニコニコ、いかにも好人物という感じを受けていたが、時候のあいさつをするぐらいで、ほとんど接点はなかった。

 今回、平野門下で先生が存命中にただ一人棋士になった所司和晴六段でさえ、先生の棋譜を見たことがないという。

 どこかに資料がないものかと悩んでいたら、<案ずるより産むが易し>で、すぐに見つかった。実は別の原稿を書くために、昭和20年代の本誌をわが寝台の枕元に積んでおいた。たまたかその中から23年1月号(34ページ、18円)を取り出して見たら、「順位戦特集」とあり、本間一雄五段(故・爽悦八段)-平野広吉四段のC級戦が山川次彦六段(故・八段)の解説で掲載されているではないか。冒頭には平野四段が次のように紹介されていた。

<平野四段は古い錬成会(奨励会)員である。当年34歳(数え)、斎藤銀次郎八段門下として三段まで指した。ところが、あの戦争の影響で将棋も指していられなくなり、新宿に経営していた将棋倶楽部も解散して、田舎へ引き籠もっていた。それが、この度の第2期順位戦に先立ち行われた錬成会選抜戦に五十嵐四段(現・豊一退役九段)と共に優勝し、四段を貰うと同時にC級張出し棋士として順位戦ん参加したのである>

<同君は努力型の棋士である。コツコツと地味な将棋を指す。それでいて、なかなか侮り難いよい所を持っている。C級戦では同君と佐瀬六段(故・勇次名誉九段)だけが大阪組に参加しているためにワザワザ大阪まで指しに行かねばならない。その労苦は察するが成績は余り芳しくない。努力型の棋士はあくまで努力と頑張りで行かねばならぬ。この意味で平野四段に一層の努力精進を望みたい>

 相手の本間については<中井六段(故・捨吉八段)門下、30歳(数え)。山中(故・和正八段)、星田(故・啓三八段)両六段と共に関西の中堅陣を構成する若手棋士>の記述がある。

 将棋は相掛かりから後手の本間五段が飛先を切らずに銀を繰り出し、△7五歩▲同歩△同銀(A図)と襲いかかった。対して平野四段の▲1五歩△同歩▲1三歩の反撃が鮮やか。

 その後も▲8三歩から▲5六角、さらに▲6五桂以下好手を連発して▲7四銀成(B図)と飛を仕留めて優位に立ち、会心の勝利は確実かに思えた。

 ところが終盤、敵玉に詰みがあると錯覚し、△6七桂を▲同角と切ったのが敗着となった。後年の将棋年鑑を見ると、平野将棋は「攻守両用、自在型」とある。

 結局、初陣の22年度順位戦は2勝10敗に終わったが、23年に五段に上がり、32年度までC級2組に11期在位した後、三段格に後退した。惜しかったのは24年度。6勝2敗の東組次点で昇級を逸した。27年度も8勝4敗の好成績だった。

 40年に引退した後、将棋の普及に力を尽くしていた平野六段(昇段)は、47年ごろからプロ棋士の養成に乗り出した。所司・現六段の入門は53年秋だった。所司は東京都江東区に生まれ、小学校2年のころ千葉県船橋市に移って今も両親とそこに住んでいる。船橋将棋道場でアマ6級と認定されたのは中学(船橋市立御滝中)3年のときだという。

「師匠は晩学でしたが、私(所司)もそれ以上の晩学で、こんな遅いスタートの人はいないでしょうね。それでも2年後の昭和53年、高校(千葉県立船橋旭高)2年のときには四、五段になりました。平野先生はその道場の師範ということで、たまには来られていたので、先生の顔を知っていましたが、先生の方は私をご存知なかったでしょう。もちろん、将棋を教わったことはありません。それどころか、アマ三、四段ぐらいの道場の席主の先生にも一度も教わりませんでした。不思議ですね」

 和晴君はプロ棋士を目指すつもりは毛頭なかった。なにしろ、そのころの実績といえば、赤旗名人戦の船橋地区大会準優勝が最高だった。高校選手権の千葉県大会では予選か、本戦1回戦で負けていた。

「多少強くなって、プロ棋界や奨励会の事情が分かるにつれて、かけ離れている世界だと思いました。古作登さん(現・週刊将棋編集長)みたいに、小学生でアマ五段なんて人もいましたからね。だから道場の常連で二段ぐらいの人に『君は才能がある。奨励会の試験を受けてみないか。受験料は出してあげる』といわれても、とんでもない。みんな天才ばかりだし、受験料がもったいない。ドブに捨てるようなものだ、と思いました」

「そうこうしているうちに、席主さんが平野先生のところへ電話をして、『奨励会を受けたい子がいるんですが、どうですかね』とお伺いしたら、二つ返事でオーケーになりました。普通は『じゃあ、うちに来て一局』ということになり、将棋の実力、才能、行儀などを見て、見込みがあれば入門を許す、という運びになるんですが、私の場合は全くの例外でした。そればかりか、師匠とはついに一局も指しませんでした。森下さん(卓八段)とは両極端ですね。奨励会の初段になるまではプロの先生方にも全然教わらなかったんです」

 電話一本で入門とは恐れ入った話ではあるが、平野先生は道場で和晴少年の将棋、人物をひそかに観察していたのではなかったか。

 奨励会の試験は53年10月。前回の森下・現八段や、塚田泰明・現八段、富岡英作・現七段、小林宏・現六段、達正光・現六段、安西勝一・現五段らと一緒だった。

「試験が始まった日はまだ16歳だったので5級で受験できました。運が良かったですね。もう一日ずれていれば17歳で、4級の試験になるところでした。自信はなかったけど全力を尽くし、受験者同士で2勝1敗、奨励会員とも2勝1敗と勝ち越し、計4勝2敗で合格してしまいました。アマ名人戦準優勝の塚田さんは13歳で4級に受かりましたね」

「合格して松戸市馬橋の平野先生のお宅に初めてあいさつに伺いました。息子さんが経営する『鮨処・ひら乃』というお寿司屋さんの2階でした。兄弟子に飯島さん、村松さんの二人がいました。アマチュアを指導する土曜教室を自宅で始めるから手伝ってくれ、というお話があり、毎週土曜日にお宅に通って代稽古とかやることになったんですが、それまでは平手ばかりで、駒落ちは下手も上手もやったことがなく、定跡もよく知らないんで苦労しました。先生は駒落ちがとてもうまかったですね。下手が勝てそうな局面に誘導するのもうまい。見よ見まねで随分勉強しました。先生の稽古先にもよく連れていっていただきました。土曜教室が終わって、お寿司をご馳走になるのが楽しみでした」

 所司5級の昇級は早かった。半年で2級、9ヵ月で1級、1年4ヵ月で初段に進み、いわゆる入品を果たした。55年3月のこと、18歳、高校卒業と同時だった。

「あれば確か2級のときでしたか、先生に茨城県の水海道支部へ指導に行ってこいといわれ、アマ四、五段クラスのAリーグに参加したところ、変わった癖のある将棋に戸惑い、1勝4敗とひどい目に遭いました。帰ってきて『たくさん負けました』と報告したら、『負けてくるな』とクギを刺されました。やさしい先生で、それ以外は叱られたことがありません」

 極めて順調な和晴少年だったが、ここにきて初めて壁にぶつかり、四段になるまで5年の歳月を要した。晴れて棋士の切符を手にしたのは60年6月、23歳のときだ。8人もいた平野門下から初の棋士誕生。69歳になっていた平野六段の喜びはいかばかりだったろうか。

 所司は師匠から将棋の技術そのものはそれほど伝授されなかったが、人間として尊敬してやまないことがある。

「先生はハンセン病の療養所をよく慰問されました。今と違い、まだ恐ろしい病気といわれた時代に、患者の力になりたいと、将棋の楽しさ、奥深さ、面白さを教え、きっと良くなりますよと、激励された。患者の方たちと食事もともにされたんです。頭が下がります。素晴らしい方です。その方面の協会から表彰を受けています。私も代役を務めたことがありますが、お役に立ててうれしいですね」

 棋士の系譜は川井房郷七段-石井秀吉七段-斎藤八段-平野七段-所司六段と続いている。佐瀬名誉九段は斎藤八段の弟弟子だから、名門佐瀬部屋も親戚に当たる。平野先生は「斎藤八段の系統を絶やしてはならない」という使命感を持ち続けていた。

「斎藤八段のお墓参りに一度連れて行って下さいました。そしてしみじみと『いつかは自分の系統から名人を出したい。この気持ちを引き継いで後進を導いてくれ』と言われました。私はこの言葉を肝に銘じています」

 平野七段の死後、そのまいた種が見事に実を結び、平成5年に川上猛、岡崎洋の両四段が相次いで誕生した。岡崎の方が先輩で、26歳の年齢制限ぎりぎりで三段リーグを卒業した。中学生名人から奨励会入りした川上は七段最後の弟子で、三段リーグをわずか1期で抜け出した。20歳だった。

「最後のチャンスをものにして岡崎君が四段になったとき、先生の奥様がとても喜んでおられました。岡崎、川上の両君は奨励会に入る前から土曜教室に来ていましたから、私と違って先生に教わったはずです。両君にはトーナメントプロを目指してもらい、私は弟子の育成です。いきなり名人といっても無理なので、一人でも多く、次の世代の棋士(四段)を出したいですね」

「だから、よそで駄目だった子でも受け入れて面倒を見ています。弟子は最近一人やめたので今は7人です。二段が一人(宮田敦史)、初段が二人(松尾歩、堀尾博洋)、1級が二人(渡邊明、後藤元気)、6級が二人います。渡邊君は少し止まりましたが、まだ中学1年、13歳ですからこれからでしょう」

 所司は「やさしくて、いい先生でしたね。人が良すぎて、将棋にはマイナスでしたが…」と述懐する。

「昔は厳しい降級制度があって、先生も昭和33年にC級2組から落ちて奨励会の三段と指さなくてはならなくなり、さぞつらかったでしょうね。40年までよく頑張ったと思います」

 平野先生はそのころ、少年時代の中原誠三段(現・永世十段)に勝った将棋を最も思い出に残る一番に挙げている。

 その趣味は囲碁、旅行、酒、競輪などなど。碁は初段か二段程度だが、日本棋院の将棋師範として碁打ちに将棋を教えていた。

 晩年は体調を崩され、胃の手術も受けたとのこと。それでも大好きなお酒と競輪はやめられなかったらしい。

「息子さんが厳しく監視されてましたが隠れて飲んでいるようでした。最後は体がボロボロでしたが、73歳でしたから、長寿とはいえないまでも、短命ということはなかったと思います」

 所司が奨励会に入った直後に始まった「土曜教室」という名の”平野教室”は今も立派に弟子や孫弟子たちによって引き継がれている。

「今は松戸市の北にあたる流山市の流山福祉会館で開いています。私も毎週、顔を出すようにしています」

 所司は形見の一組の駒を今も愛用している。

「静山作、錦旗の盛り上げ駒です。少し傷がありますが、手に触れると先生の温顔が目に浮かびます。大切に使っています」

 平野七段の流れを汲む一門の前途は洋々だ。その系統から覇者の生まれる日が待ち遠しい。

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平野広吉七段(1915年-1989年)について詳しく書かれた文章は少なく、非常に貴重な記事と言える。

所司和晴七段の師匠であり、渡辺明名人の大師匠にあたる。

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「いつもニコニコ、いかにも好人物という感じを受けていた」

冒頭の写真を見ても、強くそのように感じる。

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「そればかりか、師匠とはついに一局も指しませんでした。森下さん(卓八段)とは両極端ですね。奨励会の初段になるまではプロの先生方にも全然教わらなかったんです」

奨励会初段まで(あるいは奨励会入会まで)、プロ棋士と一度も対局をしたことがなかったというのは、所司七段が唯一の棋士であるかもしれない。

そういう意味では隠れた記録だと思う。

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「合格して松戸市馬橋の平野先生のお宅に初めてあいさつに伺いました。息子さんが経営する『鮨処・ひら乃』というお寿司屋さんの2階でした」

調べてみると、千葉県松戸市西馬橋に「ひら乃」という寿司店がある。

もし、この店が平野七段の息子さんが経営する店だとすれば嬉しい話だ。

Googleの口コミでは、2件だけだけれども、2件とも5点の最高評価がつけられている。

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「先生はハンセン病の療養所をよく慰問されました。今と違い、まだ恐ろしい病気といわれた時代に、患者の力になりたいと、将棋の楽しさ、奥深さ、面白さを教え、きっと良くなりますよと、激励された。患者の方たちと食事もともにされたんです。頭が下がります。素晴らしい方です。その方面の協会から表彰を受けています。私も代役を務めたことがありますが、お役に立ててうれしいですね」

将棋にはこのような力もあるのだと、あらためて気付かされる。

本当に素晴らしいことだと思う。

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「いつかは自分の系統から名人を出したい。この気持ちを引き継いで後進を導いてくれ」

渡辺明名人が竜王位を獲得した時点で、平野七段の夢は叶ったとも考えられるが、平野七段が生きてきた時代のほとんどは竜王戦のなかった時代。

そういうことでは、狭義の意味で平野七段の夢が叶ったのが去年ということになる。

「東海地区にタイトルを持ち帰る」の夢を抱き続けていた板谷進九段にとっての藤井聡太二冠と同様、渡辺明名人が大師匠の夢を十二分に実現した。

 

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