「観戦記通りの人だと思いました」

将棋世界1989年7月号、池崎和記さんの「棋士の女房・お袋さん 田中艶子さん(田中魁秀八段夫人)」より。

 去年は大変な一年でした。

 主人は3年前に気管支炎になり、日赤病院にずっと通院していたんですが、一昨年、枚方から奈良に引っ越してから急にセキ込むようになりまして。ゼンソクを併発したんですね。環境が変わったせいかもしれません。

 私は2週間くらい病院に泊まり込んでいました。

 いつまた発作がおきるかと思い、心配で心配で……。おかげで白髪がいっぱい増えましたよ。

田中八段「入院する2週間くらい前に将棋の同好会があり、そのときに最初の発作をおこしたんですヮ。息をするのが苦しくなり、死ぬかと思いました。救急車を呼んでもらおうかと思ったけど、みんなに迷惑がかかると思って辛抱したんですヮ。それが間違いの元でした」

 私はもっと早く入院させたかったんですが、この人は病院が嫌いで、ギリギリになるまで行こうとしなかったんです。

 退院したあと、4月30日にまた発作がおきましてね。退院してちょっと無理したんですかね。それでまた3週間くらい入院して……。

田中八段「昨年は休場も覚悟していたんです。順位戦が始まる前、病院の先生に相談したら”普通にしてたら大丈夫です”と言われました。それで指すことにしたんです」

 普通にしてたら言うたって、病院の先生は、棋士の仕事の内容をよく知らないんですよ。

田中八段「対局中、タンがよく出ましてね。体調が悪いときはとくに多いんです。家と違い、連盟では逆立ちしてタン出しなんか、しにくいでしょ。だから落ち着いて将棋が指せなかったですね。この病気は対局がおそくなると危ないんです。早く終わらなければいかんという意識がありますから、前期は時間もあまり使わなかった。通算11勝22敗。ひどい成績でしたが、無理して死ぬよりはマシと思いました」

 最近はちょっと落ち着いてきて、もう以前のような発作は出なくなりました。

(中略)

 見合い結婚です。昭和50年の4月にお見合いして、5月に結婚したんですよ。ずいぶん早いでしょ(笑)。真面目でおとなしそう、というのが第一印象でしたね。当時、この人は七段でB級1組にいました。

 お見合いしてから1週間後ぐらいでしたか。たまたま家で取っている新聞の観戦記を見たら、この人が載ってたんですよ。原田泰夫先生の観戦記で「田中七段は健康で、真面目で、人柄が良く」とものすごくホメてあったんです。

 原田先生は何でもホメるというのを、私は知らなかった(笑)。でもまあ、実際に会って話をしているうちに、観戦記通りの人だとは思いましたけどね。”健康”というのだけが、結果的にははずれましたが。

 私、棋士のことは何も知らなかったんです。中平さんの「棋士その世界」を読んで将棋界のことを知り、へーっ、こんな職業もあるのかと思いました。

(以下略)

将棋世界同じ号より。

* * * * *

病院の先生に「普通にしてたら大丈夫です」と言われても、棋士の場合は普通(対局)が一般の場合の普通よりもはるかに苛酷なので、医師の指示通りにしたとしても、大丈夫とは限らないのが悩ましいところ。

* * * * *

「原田先生は何でもホメるというのを、私は知らなかった(笑)」

たしかに、原田泰夫九段は人を誉める名人。

この奥様の言葉は、とても愉快だ。

* * * * *

田中魁秀九段のエピソード。

最強にして最大の関西弁ギャグの使い手

佐藤康光九段の入門時代

「うちの佐藤がお世話になりましてぇ」

佐藤康光少年「ハイ、茄子が嫌いです」

佐藤康光初段、森内俊之初段、郷田真隆初段の夏休み