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奨励会入会試験問題(1981年版)

将棋世界1981年12月号、「昭和56年度奨励会入会試験」より。

 今年度の関東奨励会入会試験は10月14、15日および21日に将棋会館で行われました。受験者数は昨年の記録をあっさり更新し関係者を驚かせる一幕もありました。この問題は14日に出題された筆記試験、第一問は比較的やさしく受験者もスラスラと解いていましたが、第二、第三問と進むうちにピタッと筆が止まり腕組みして考える者も……。ちなみに受験者数75名中100店満点は2人、平均は72点でした。制限時間は60分。さあ、あなたは何点取れる?

第一問 知識問題

1.現在のタイトル名と保持者名を漢字で書きなさい。(10点)例(名人=中原誠)

(   )(   )(   )(   )(   )

2.(  )内をうめて格言を完成させなさい。(10点)

(   )は近づけて受けよ。
(   )八手の得あり。
 歩越し銀には(   )。
 金銀の逆形(   )。
 開戦は(   )。

第二問 詰将棋(①…10点 ②…15点)

第三問 次の一手(共に先手の手番 ①…15点 ②…15点)

 

第四問 読みの問題(25点)

2図を盤面に書きなさい。

1図よりの手順
▲2五歩△同飛▲6三銀成△同銀▲5四歩△5五歩▲同飛△4四銀▲5三歩成△同銀▲3四銀△2一飛▲2三歩△4六歩▲同歩△5一角▲5三飛成△同金▲3三銀成△2八飛▲4五桂△5四金▲2二歩成(2図)

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この年の奨励会入会試験(東京)は、75名が受験し20名が合格。(前年は59名が受験し20名が合格)

先崎学少年(11歳)が3度目の受験で5級で合格している。

この期で四段以上になったのは、先崎学九段、中座真七段、岡崎洋六段、関西では阿部隆八段。

——–

第一問の1。

正解は、

十段=加藤一二三
王将=大山康晴
王位=中原誠
棋聖=二上達也
棋王=米長邦雄

リアルタイムなら易しい問題だが、今なら超難問。

——–

第一問の2。

正解は、

(大駒)は近づけて受けよ。
(玉の早逃げ)八手の得あり。
歩越し銀には(歩で対抗・歩で受けよ。どちらも正解)。
金銀の逆形(無筋なり)。
開戦は(歩の突き捨てから)。

金銀の逆形無筋なり、は意外と知られていない格言。

金銀の逆形筋悪し、と言ってしまいそう。

——–

第二問①。

▲3一銀不成△2一玉▲1二角△1一玉▲2二銀成△同玉▲2三歩△1二玉▲3二飛成△1一玉▲2二竜まで11手詰。

第二問②。

▲1三角成△同玉▲2五桂△1二玉▲2一飛成△同玉▲2二銀△同玉▲3四桂△3二玉▲3三金△3一玉▲2二桂成まで13手詰。

2題とも、言われてみればそうだけど絶対にこんな手は思い浮かばない、と言いたくなるような手数の割には難しい問題。

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第三問①。

▲6三角不成が正解。

△同銀なら▲8三桂△同銀▲8二金以下後手玉は詰む。

▲6三角不成のところ▲6三角成としてしまうと、△2七香不成▲同馬△2八歩▲同馬△同金成▲同玉△4六角▲2九玉△2七歩で必至。

▲6三角不成なら△2七香不成▲同角で、△2八歩と打てず後手は金縛り状態。

第三問②。

▲1七桂。

これしか助かる道はない。

——–

第四問

——–

先崎学少年の入会により、羽生世代の幕開けとなる。

羽生善治三冠、森内俊之九段、佐藤康光九段、郷田真隆王将などが入会するのはこの翌年のこと。

将棋世界のこの号の「棋友ニュース」の八王子将棋クラブの欄には、「11歳の羽生善治君五段昇」と載っている。

 

 

奨励会入会試験問題(1980年版)

将棋世界1980年12月号、「公開!奨励会試験」より。

 今年度の関東奨励会の入会試験は10月の7、8日および16日に将棋会館で行われましたが、この問題は7日に出された筆記試験です。第一問の知識問題は常識のテストで比較的易しいのですが、第二問の詰将棋や第三問の次の一手などはかなりハイレベルな問題になっています。ちなみに受験者59名中100点満点は1名。平均は55.5点でした。制限時間は60分です。あなたもチャレンジしてください。

第一問 知識問題

1,歴代永世名人の名前を書きなさい。(10点)

十一世名人( 伊藤宗印 )
十二世(       )
十三世(       )
十四世(       )
十五世(       )
十六世(       )

2.(  )内をうめて格言を完成させなさい。(10点)

(  )接近すべからず。遠見の(   )。金底の(   )。(   )歩のえじき。(   )歩ともせよ。

第二問 詰将棋(その1…10点  その2…15点)

次の詰将棋を解きなさい。

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第三問 次の一手(共に先手の手番 その1…10点  その2…15点)

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第四問 読みの問題(25点)

2図を盤面に書きなさい。

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1図よりの手順
△5六歩▲同歩△8八角成▲同銀△3三角▲2一飛成△8八角成▲7七角△8九馬▲1一角成△5七桂▲5八金左△5六飛▲6八桂△4九桂成▲同玉△5八飛成▲同玉△6二玉▲5三歩△7二玉▲5五馬(2図)

——–

この年の奨励会入会試験(東京)は、59名が受験し20名が合格。

その中で四段以上になったのは、故・小野敦生六段、北島忠雄七段、日浦市郎八段、佐藤秀司七段、中田功七段。

——–

第一問の1。

これは易しい問題。

正解は、

十二世名人 小野五平
十三世名人 関根金次郎
十四世名人 木村義雄
十五世名人 大山康晴
十六世名人 中原誠

——–

第一問の2。

正解は、

玉飛、角に好手あり、歩岩より固し、桂馬の高とび、二枚換えなら

解答が名詞だけでは済まない問題が多いので、やや緊張しそう。

——–

第二問その1。

▲2三飛△3二玉▲4三銀△同歩▲2一飛成△同玉▲3三桂△3二玉▲2三金まで 9手詰

第二問その2。

▲1五飛△1四歩▲1二桂成△同玉▲2三銀△同玉▲2四歩△1三玉▲2三歩成△同玉▲2五飛△1三玉▲2四竜△1二玉▲2三竜まで 15手詰み

私にとっては勘弁してほしいほど難しい。特にその2は合駒が複雑そうに見えて困る。

——–

第三問その1。

▲9四歩が正解。

以下、△同歩▲9二歩△同香▲8三金で先手優勢。

なかなか気が付かない攻め筋。

辺境の島の隅にある小さな飛行場を重装備で攻撃するようで少し気が引けるが、敵玉に近いので効果的ということなのだろう。

第三問その2。

▲7七角が正解。

以下△3三桂なら、▲3六歩△2六角▲3七銀で先手優勢。

ひたすら▲5三飛成を狙う一本気さに好感が持てる。

——–

第四問

ゴキゲン中飛車の序盤に似た局面だが、戦前に流行した横歩取りの変化で、手順中の▲6八桂は加藤治郎名誉九段の新手。

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——–

私がやったら、普通で20点、バイオリズムの良い日で35点といったところだろう。

平均は55.5点。やはり第二問以降は難問だったのだと思う。

 

 

森下卓九段の奨励会時代のニックネーム

将棋世界1980年5月号、沼春雄四段(当時)の奨励会熱戦譜「端歩の功罪」より。

 今月の奨励会熱戦譜は小林宏4級対森下卓4級の一局をとり上げてみたい。

 この二人は共に昭和53年11月入会という同期生である。対局でだれにも負けたくないのはもちろんだが、同期生となるとまた格別のものらしい。らしい、というのは私には同期生がなく、解らないからである。

 私が入会した42年までは奨励会入会希望者もさほど多くはなく、受験者のいた時が即試験日という方式だった。またその内容も今ほど確立されてはいず、中には試験手合6戦で全敗(勝にあらず)の好成績で見事入会といった◯◯現有望五段のような極端な例すらあったほどである。しかし希望者が多くなるにつれてこれでは不都合が多いということで43年春より期日を決め、また内容もあらためて試験を行うことになった。

 ちなみにその1期生は関東で8名が入会したが、現在居る者は青野七段、宮田五段、桐谷四段の3人になっている。

 以下順番に数えると林葉さん、庄司君など昨年秋の入会者で22期生ということになる。

 第1期より現在までの13年間で関東の合計入会者は143名。内四段以上になったの者15名、退会者53名、そして現在の会員が75名である。

 プロ棋士希望者中四段以上になれる者の確率はこの他に試験での落第組も数えなければならないのだが、この数字で大体の目安にはなるだろう。将来プロ棋士を目指している小中学生の諸君には厳しいとうつるだろうか、それとも楽と感じるだろうか。

(中略)

 小林宏4級は昭和37年12月18日生まれ。

 三重県出身で真部一男新七段の門下生。

 居飛車一刀流で特に矢倉戦法を好む。

 真面目な人柄で長考派。

 持ち時間1時間の奨励会で一手に40分かけたという記録も持っている。しかしその将棋に打ち込む姿勢はよいのだが、半面優勢な将棋を終盤秒読みで落とすという場面もあるようなので少し早指しも必要ではないだろうか。普段は仲間同士の研究会にも参加しているとのことなので、その場で”時間も勝負のうち”という研究もつんでもらいたい。

 その転換ができれば師匠に続いての飛躍がきっとできると思っている。

 森下卓4級は昭和41年7月10日生まれ。

 福岡県出身で花村九段の門下生である。

 同期では塚田二段、達初段という超特急グループがいて、やや引き離された感がするが、まだ13歳でもあり、将来を期待されている一人である。特に得意戦法はなく何でも指す。また相当な早指しで、終盤には妖刀のような手もあるということなので、何か師匠そのままという将棋らしい。

 この将棋の23分の消費時間で突っ走ってしまったのだが、これはいくら何でも早すぎる。

 もう少し考えてもらいたい、と小林君とは正反対の注意を与えたい。

 ニックネームはジンタンというのだそうだが、3局に1局程度は秒を読まれるようになれば、ジンタンらしい味が将棋にも出てくるようになるだろう。

(以下略)

——–

森下卓少年が花村元司九段門下となって1年と少し経った頃の記事。

花村九段が森下少年に1000番以上の稽古を付けたことは有名な話だが、まだこの頃は200番か300番だったと考えられる。

手厚い森下流の棋風が確立されるのは、もっと後のことになる。

——–

仁丹は、森下仁丹株式会社が製造・販売をしている。

森下なのでニックネームが「ジンタン」。

非常にストレートというか、なかなか思いつかない発想というか、意見が分かれそうなニックネームだ。

——–

仁丹は16種類の生薬配合の丸薬で、1905年以来の歴史を持つ。

近年ではレモン仁丹、梅仁丹などが発売されているが、森下仁丹のサイトを見ると、これらの商品は食品に分類されており、昔からある表面が銀箔でコーティングされた仁丹は医薬部外品として分類されている。

沼春雄四段(当時)は「ジンタンらしい味が将棋にも出てくるようになるだろう」と書いているが、ここでのジンタンは、もちろん銀色の仁丹。

銀色の仁丹は苦い味をしている。

ジンタンらしい味が将棋にも出てくるとは、将棋に苦味が出てくるという意味なのだと思う。

——–

「苦い棋風」、「辛い棋風」というと、相手が困る手、嫌がる手をたくさん指しそうな棋風だ。

「甘い棋風」は、相手から見れば、いろいろと有り難いことをしてくれそうなイメージだ。

「しょっぱい棋風」というと、たくさん持ち駒があるのに全然使わない、あるいは、すぐに相手玉を詰ますことができるのに、そのようなことは考えずに全駒にすることを志向する、ようなイメージ。

「酸っぱい棋風」というと、これは意味不明。

棋風を味に例える場合、「苦い」と「辛い」が褒め言葉となるのだろう。

 

 

戦慄のジャングル野田

将棋世界1984年5月号、神吉宏充四段(当時)の「関西奨励会の内奥に迫る 神吉宏充の突撃レポート」より。

 出た、出ました。あのタフネスボーイ、密林の王者といわれているジャングル野田敬三三段が、体力にかけては関西奨励会一、いや将棋界一ではなかろうかと思える怪物である。とにかく”歩く精密機械”と思えるほど歩くのが好きな人である。

 機関誌”将棋”でも紹介したが、彼は時間の感覚に独自の物をもっている。つまり彼の5分は(我々は”5野田分”という)普通の人の1時間に相当する。

 この前の奨励会旅行の時、彼の地元である六甲山へ登ることになった。案内はもちろん野田三段。

 ある程度登った所でケーブルカーの前に着いた。皆、普段体力をつけてないのでヘトヘト、ケーブルカーで登ることにほぼ決まりかけていたその時である。野田三段が「ケーブルカーよりこっちの道の方が近いですよ。5分ぐらいで登れますよ」と奨励会幹事に進言しているのである。

 ああ、これが悪魔のささやきであった。幹事は”地理に詳しい野田三段のいう事だ。5分ぐらいなら歩いて登るか”一行は歩きだしたが、それはまるで冬のマッキンリーに臨むようなものだった。道なき道を歩く一行を助けるものは誰もいなかった。

 10分、20分と過ぎても頂上へはまだ着かない。いや、むしろ頂上が遠ざかっていくようにも思える。一行が頂上へたどり着いたのは出発してから1時間以上経過してからのことだった。皆ヘトヘトで”カミソリ負けの村田”君などはエラ呼吸をしている。ところが、一人だけピンピンしている人がいる。”もう一山いけますよ”といいたげな人物、それが野田三段である。

 まさに”ジャングル野田”この命名にふさわしい彼の行動は、後世に伝えられるであろう。

——–

野田敬三六段は故・森安秀光九段門下。長谷川優貴女流二段、山根ことみ女流初段の師匠でもある。

——–

六甲山のケーブルカーは、20分間隔の運行で、六甲ケーブル下駅(標高244.2m) - 六甲山上駅(標高737.5m)の所要時間は10分。路線距離は1.7km。

たしかにこれ位の距離だと、歩いて5分はもしかしたらオーバーにしても、20分もあれば到着できるのではないかとついつい思ってしまうかもしれない。

——–

以前、仕事が終わって誰かを飲みに誘う時、「軽く飲みに行きましょう」が職場内での合言葉のような時期があった。

軽くとは言っても、毎回普通に飲んで帰宅時間も遅くなるのが定跡だったのだが、それに反省して、「30分だけ飲みに行きましょう」と誘い文句が変わった。

これなら、30分で済むことはなくても1時間位で切り上げられそうな気分になることができる。

しかし、飲み始めてみれば以前と変わらず、3時間~6時間コースになることは当たり前。

私には野田三段(当時)のことを笑う資格がない。

 

 

熱血奨励会幹事

将棋世界1999年12月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 世間では不況のあおりでリストラの嵐が吹いているが、将棋界では奨励会の頃から、それとは違うが試練を受けている。まず入会の時点から集まってくるのは全国で有数の実力をもった少年達であり、第一次試験で受験者同士が戦い淘汰され、そこをくぐり抜けても第二次では鬼教官のごとき先輩奨励会員が、さあいらっしゃい白星を稼がせてもらいましょうと手ぐすね引いて待ち構えている。

 受験日は5級以下の会員にとっての苅り入れ時なのだ。多くの受験生がここで涙をのむ羽目になる。学校と違って将棋界はひとつしかないので滑り止めを受けておくことはできず、落第すれば翌年まで浪人が確実となってしまう。

 実力と運とを兼ね備えた少年だけが首尾よく入会できる。成績が一目瞭然なのだから云うまでもなく裏口入学のような不正はあり得ない。もっとも私が入会した35年前は現在の少年達と較べてレベルがいまひとつであり、奨励会員の数も少なかったので幹事のサジ加減といった趣も少々あったようだ。

(中略)

 ともかくそうした難関をくぐり抜けて合格したとしても、そこで手離しで喜んではいられない。あらたなスタート地点に立ったに過ぎないのだから。奨励会員には年齢制限という退会規定が設けられているからだ。

 これが時代により多少の変動はあるが現在は23歳の誕生日までに初段になれなければ退会、そして最終チェックポイントである三段リーグでは26歳までに四段に昇段できなければ退会という大変きびしいものである。細かい内規はあるものの概要はそうなっている。

 しかもこの世界のユニークなところはすべての格付けが年齢は関係なく、段級位の高低による実力であるから、学校のように同年齢が同じクラスということはなく世代がバラバラになっている。

 例えば前期の三段リーグでは最年少の渡邊明君は15歳、最年長の庄司俊之君は31歳、その差16歳である。或る年齢を超えればこれくらいの差は何ということもないが、少年時代ではまるで大人と子供の開きがある。

 若年で出世の早い少年はどうしても遠巻きにされてしまうから孤独であろう。加藤一二三、中原誠、谷川浩司には思い当たるふしがあるのではないか、羽生善治の世代は俊英が輩出したためそれほどではなかったにせよ共通した境遇ではあったはずだ。

 これらの少年達を取りまとめる役目が奨励会幹事で現在は飯野健二七段と豊川孝弘五段がその任に就いている。

 今、学級崩壊が大きな社会問題として取り上げられているが、こちらも大変でこれほどの年齢差のある者達を監督、指導、教育していかなければならないのだから並大抵のことではない。

 監督、指導はある程度可能でも教育となるとこれは本質的に不可能かもしれない、子供といえどもそれなりの判断力でもって大人を見ているのだから、教育する側の人格に問題があっては子供がそれに従いはしないだろう。反面教師になるだけだ。

 将棋連盟を直接運営していく会長以下理事の方々の役割が重要なのは論をまたないが、将棋界といえども人間社会の一員であることは間違いないのであるから、将棋だけは強いが社会性ゼロという棋士が余り多くなっては大ごとだ。

 未来の棋士を直接育てていく奨励会幹事の役割は見ようによっては役員よりもこれからの将棋界に与える影響は大きいかもしれない。あまり云って、両幹事の負担になってはいけない、ここは内藤先生の言葉を拝借して「のびのび、しみじみ」とやってください。

* * *

 今月はその豊川幹事との一局を御紹介する。豊川は声も大きく言葉もきびきびとしていて熱血教官と評判らしい。

 40代以上の方なら記憶にあるかもしれない昔のテレビドラマ「青春とはなんだ」の夏木陽介や「これが青春だ」の竜雷太を御想像ください。豊川が熱血ならば、もう一人の幹事飯野は冷静で言動もソフトである。それでバランスが取れるのであろう。

 私も若い頃、22歳から2年程幹事を務めた経験があるが、若さゆえの情熱が勢い余ってガミガミと頭ごなしにやっていたから奨励会員は辟易としていたようだが、正幹事の故松田茂役九段が彼らを優しく包んでいたようだ。

——–

「青春とはなんだ」は、1965年から1966年にかけて日本テレビ系日曜20時に放送された同名の石原慎太郎さんの小説を原作とした青春ドラマ。

アメリカ帰りの主人公(夏木陽介)が田舎町の高校の英語教師に就任し、ラグビーを通じて生徒たちと心の交流、人間教育を展開していくという展開。

「これが青春だ」は「青春とはなんだ」の後番組で1966年から1967年にかけて放送された。

ロンドンでの留学経験がある主人公(竜雷太)が田舎町の高校の英語教師に就任し、劣等生ばかりのクラス担任を務める。そしてサッカーを通じて生徒たちに人間教育を説き、心と心のふれあいを図っていくという展開。

いわゆる、海に向かって「バカヤロー」と叫んだり、不良生徒が外見は変わらないけれどもどんどんいい奴に変わっていったり、エンディングで海岸を夕陽に向かって走っていく先生と生徒、のようなフレームワークの元祖となるドラマだ。

——–

実は、私はこれらのドラマはリアルタイムであまり見た記憶がない。

6歳上の姉(年齢でいうと真部一男九段と同学年)は見たかったようで、私はNHKの大河ドラマ(その当時は「太閤記」、「源義経」)を見たくて、姉弟喧嘩になったものだが、母が迷わず大河ドラマを観るべしと裁定を下して、いつも望み通り大河ドラマを見ることができていた。

今思えば、姉には少し申し訳ないことをしていたような感じがする。