「奨励会」カテゴリーアーカイブ

村山聖新四段(当時)「僕の師匠の森信雄先生は世界一の師匠だと思っています」

将棋マガジン1987年2月号、村山聖新四段の自戦記「昇段の一局 夢にまで見た四段」より。

昭和61年11月5日
▲二段 野間俊克
△三段 村山聖

▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2六飛△6二銀▲1六歩△1四歩▲3八銀△3四歩▲7六歩△8六歩▲同歩△同飛▲2四歩△同歩▲同飛(1図)

眠い

 眠い。そう思って局面を見たら1図だった。どこかで見たなあと思って考えていると段々目が覚めてきた。

 これは塚田スペシャルじゃないか、とにかく対策を用意せねば、10分20分、悪いという結論に達した。

 △7一銀▲3四飛△3三角と絶対損な順まで考えた。だが何故こんな事になったのだろう。やはり前夜余り眠っていないからだ。

 奨励会の成績が良くなると眠れなくなる。奨励会入会時からそうだった。

 現在11勝4敗、残り2連勝で四段。夢にまで見た四段、そう思っていると眠れないのも当たり前か。

1図以下の指し手
△8五飛▲9六歩△7四歩▲1五歩△同歩▲3四飛△8八角成▲同銀△3三桂▲1二歩△同香▲1三歩△同香▲1四歩(2図)

博奕打ち

 関西奨励会では皆僕をハッタリ将棋、略してハッタリと呼ぶ。

 最初は否定していたのだが最近ではやっぱりそうかなあと思い始めている。

 由来は序盤がヘタで悪くなり勝負手を放って運良く逆転する事が多いかららしい。

 最近ではもう一つ博奕打ちという渾名まで付けられている。

 これも同じ様な意味である。

 確かに必敗形で投了直前から何故か勝った将棋が数局ある。でもたまには作戦勝ちから押し切って勝った将棋もあるというのに。僕が負けるパターンは序盤、作戦負けでそのままゴールに入ってしまう、という内容がほとんどです。

2図以下の指し手
△4五角▲3五飛△2七歩▲7七桂△8三飛▲1三歩成△6七角成▲8五香△7八馬▲8三香成△2八歩成▲4八玉(3図)

勉強法

 ▲1四歩(2図)が敗着、▲4六角で苦しかった。

 現在僕は関西将棋会館から徒歩10分の所に下宿している。

 部屋にはテレビ、電話がない。それも当たり前の事だ。食べてゆくのに精いっぱいなのだから。僕はいつも連盟に行く。部屋が寒いからだ。(夏は猛暑)しかし公式戦の感想戦を見た事はない。初段になったらセンスを買う、四段になったら感想戦を見ると決めてたからだ。

 僕の嫌いな物は稽古、記録係、玉ねぎと3つです。特に記録係は大嫌いです。四段になり記録はしなくてすむのでホッとしています。要するに将棋の勉強はほとんどしていない新四段です。

3図以下の指し手
△8八馬▲2一飛△7七馬▲2八飛成△2五歩▲1二角△9九馬▲2三と△5六桂▲同歩△6六馬▲5七桂△6七金▲3六歩△5七馬▲3七玉△4五桂打▲2七玉△2六香▲1八玉△2八香成▲同玉△3七歩▲3二と△3八歩成▲同金△3九銀▲同金△同馬▲同玉△4八銀(投了図)
まで、80手で村山の勝ち

 昇段の一局は関西新聞に載ってしまうのでその前の将棋を載せました。

 奨励会で負けた夢を何回も見た事があります。

 起きてああ夢だったと安心したのも2,3回ありました。奨励会で連敗した日はいつも部屋に戻った後負けたんだ負けたんだと自分に言い聞かせ泣きます。将棋しか出来ない奨励会員が将棋を負けたら何が残る。もう二度とこんな思いは嫌だ。そう思って泣きます……。

※ ※ ※

 僕の師匠の森信雄先生は世界一の師匠だと思っています。体に気を付けて長生きして下さい。

* * * * *

勉強法と副題をつけながら、「要するに将棋の勉強はほとんどしていない新四段です」と結んでいるところが面白い。

* * * * *

「将棋しか出来ない奨励会員が将棋を負けたら何が残る。もう二度とこんな思いは嫌だ。そう思って泣きます」の言葉が胸を打つ。

3年という最速の期間で奨励会を駆け抜けた村山聖四段(当時)でさえこのように思うのだから、いかに大変な世界であるかがわかる。

あるいは、ここまで思っていたから、短い年月で奨励会を卒業できたとも考えることができる。

* * * * *

「僕の師匠の森信雄先生は世界一の師匠だと思っています。体に気を付けて長生きして下さい」

最高の言葉。これまでのこと、そしてこれからの展開を考えると、さらに涙がどんどん出てくる。

 

奨励会ハイキングの悲喜劇

将棋マガジン1987年6月号、「棋士達の話」より。

  • 奨励会ハイキングは会員に年齢差があり、強弱がはなはだしいのでコースを選ぶのが大変だ。ある時中級コースの山を決め、結構楽しんで頂上に。ところが山の反対側には道路がついていて車でも来られる事が判明し、全員に不評をかった。

  • ハイキングは雨天中止になるが、中途半端な時は困る。ある時も長考の結果登山を断念したが、遅刻してきた桐谷現五段は皆がいないので追いかけるつもりで一人丹沢山頂に。結局誰にも会えず(当たり前)昼食もなし、と散々。お疲れさまでした。

* * * * *

山頂に登るまで楽しめたのだから…とは言っても、登ってみて車で来れる道路があったら、やはりかなり興醒めしてしまうだろう。

例えは非常に不適切かもしれないが、真っ暗なとても怖そうな山道を通って心霊スポットにたどりついたら、見に来ている人がたくさんいたような状態、のような雰囲気かもしれない。

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微妙な天候でのハイキングが開催されるかされないかの確認。

携帯電話のなかった時代なので、このようなことも起きた。

桐谷広人奨励会員(当時)が非常に真面目であったことがわかる。

 

 

「夜店で一手いくらってやっている人ですか?」

将棋マガジン1986年1月号、鈴木桂一郎二段の「奨励会自戦記」より。

 これは今年の8月に滝誠一郎六段達と北岳に登った時のことで、たまたま妙齢の女性と話をする機会があった。そこで職業を聞かれ、滝先生が、「将棋をやっています」と答えると、その女性がちょっと考えてから、「夜店で一手いくらってやっている人ですか?」とたずねられ、ショックを受けたことがある。この時に女性にもっと将棋が普及すればいいなあと強く感じた。

(以下略)

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「夜店で一手いくらってやっている人」というのは、大道詰将棋のこと。

この頃は大道詰将棋屋は減っていたので、この女性が子供時代にお祭りなどで見ていたのかもしれない。

大道詰将棋屋

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現在では棋士という職業は広く知られているが、この頃は棋士の存在自体を知っている人が相対的に少なかった時代。

知られていたとしても、若い女性からは一緒に遊ぶのを敬遠されることもあったようだ。

36年前の悲劇

このような図式が一変するのが、1995年から始まった羽生善治七冠フィーバーの頃から。

まさしく劇的な変化をもたらせた。

 

郷田真隆二段(当時)の自戦記「失敗を恐れずに」

将棋マガジン1986年4月号、郷田真隆二段(当時)の自戦記「失敗を恐れずに」より。

 この将棋は、二段になって2局目の将棋で、初の三段との平手戦です。

 僕の「攻め」の将棋がどこまで通じるか、楽しみにしていた対戦です。

昭和60年12月18日
▲二段 郷田真隆
△三段 石川陽生

▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀△6二銀▲4八銀△4二銀▲7八金△5四歩▲5六歩△3二金▲6九玉△4一玉▲3六歩△7四歩▲5八金△5二金▲3七銀△5三銀右▲2六歩△3三銀▲6六歩△4四歩▲7九角△4三金右▲4六銀△3一角▲6七金右△4二角▲1六歩△1四歩▲2五歩(1図)

序盤の進歩

 僕は、序盤はあまりうまくないけれど、序盤の型を多く知ろうとは思わない。

 何故なら、序盤は自分の意志が表現できるところだと思うからです。

 それなら、自分の意志が表現できるところならば、僕は自分で考えた、自分の序盤をしてゆきたい。

 そして将棋誕生以来、少しずつ変化し、進歩している序盤を、僕はこれからも、もっともっと進歩させなければならないと思う。

1図以下の指し手
△5一角▲6八角△7三角▲3七桂△3一玉▲7九玉△2二玉▲8八玉△9四歩▲1七香△9五歩▲8六銀△6四歩▲1八飛△6二飛▲7七桂△8二角▲5五歩△同歩▲1五歩△同歩▲3五歩△5四銀▲1五香△同香▲同飛△1四歩▲1六飛△6五歩▲同歩(2図)

総攻撃開始

 さて、将棋は僕の飛先不突矢倉で始まりお互いにけん制しあって、1図になるわけですが、手順中▲1六歩に対して△1四歩としたので▲2五歩と突く気になりました。△1四歩を突かなければ、本譜のようにはしないつもりでした。

 ▲7七桂まで、攻撃、防御の準備は完了しました。あとは仕掛ける一手!

2図以下の指し手
△8五歩▲同桂△6五銀▲6六歩△5六銀▲3四歩△同銀▲3三歩△同金寄▲5四歩△6七銀成▲同金△5六金▲7八銀△6七金▲同銀△6五歩▲同歩△6六歩▲同銀△6七金▲5三歩成△6八金▲6二と△5六歩▲5五歩△6九角(3図)

手拍子の悪手

 △6五歩に▲同歩(2図)は負けていれば敗着。

 いちばん大事な所で全く読みが入っていなかった。

 ここは▲6五同桂と取り、△6四歩には▲5三桂成△同金▲3四歩で少し指せていた様だった。

 △8五歩を▲同桂ではつらい(▲同銀は△9三角)。仕方がないので、▲3四歩~▲3三歩~▲5四歩。これは焦らせる作戦。勝負手のつもりだった。

 が、これもまた読み抜け。△5六金で△6五歩▲同歩の交換をしてから、△5六金で決まっていた。

3図以下の指し手
▲7九香△7八香▲1八飛△6七歩▲7七玉△7九香成▲7五歩△4七角成▲1三歩△同桂▲5一飛△3一歩▲8一飛成△4六馬▲8二竜△3七馬▲6三と△1五香▲1六歩△8一歩▲7三竜△2七馬▲1九飛△1六香▲2九飛△6三馬(4図)

終盤の競り合い

 ▲6二とあたりから1分将棋。

 △6九角。これには困った。受ける手がまったく分からない。

 何が何だか分からなくなって▲7九香。△7八香、このとき▲7七玉とするつもりだったのだが△5八角成でダメ。仕方なく、あわてて▲1八飛。ここで石川さんも1分将棋。

 ここでシャレタ決め手があった。△3八歩。これを逃してからはもう泥仕合。しかし、序盤と同様、すごく神経を使うところでもある。

4図以下の指し手
▲7六玉△7二銀▲8四竜△5七歩成▲同銀△5八金▲6六銀△6八歩成▲7四歩△9二桂▲9四竜△8二歩▲7三歩成△同銀▲同桂成△同馬▲7四歩△7二馬▲8五竜△8三歩▲6四歩△8四歩▲6五竜△5三桂▲6三歩成△9四馬▲7五玉△6五桂▲同銀△8五歩▲2六桂△2五銀▲3四歩△同金▲5一角△8六歩▲3四桂△同銀▲2六桂△4三銀▲1四桂(最終図)  
まで、157手で郷田の勝ち

目標・抱負

 △6三馬や△9四馬、ヒヤッとする手があったけれど、なんとか勝つことができた。

 僕の目標は、名人になることと、もう一つ升田先生や米長先生のように、将棋史にのこる新手を多く指すことです。

 そのためには”努力”これしかない!

 そして、僕はこれからも、序盤から主導権を握って、ガンガン攻めていくつもりでいます。

「失敗を恐れずに」

* * * * *

羽生善治新四段が誕生して、佐藤康光初段、先崎学初段、森内俊之初段の頃。

郷田真隆九段は、奨励会に入った当初は負けが多く、羽生世代で唯一7級に落ちたが、その後、猛烈に勝ちだして、羽生四段を除く羽生世代の中では最も早く二段に昇段している。

郷田真隆2級(当時)「原因不明なんです」

しかし、二段になってから四段になるまで、4年3ヵ月と長い期間がかかった。

ごく普通にごく普通の話をするけれど、それでいてどこか秘密めいた部分がありそうな雰囲気の郷田真隆四段(当時)

1990年3月、郷田真隆四段誕生の日

* * * * *

「僕は、序盤はあまりうまくないけれど、序盤の型を多く知ろうとは思わない。何故なら、序盤は自分の意志が表現できるところだと思うからです。それなら、自分の意志が表現できるところならば、僕は自分で考えた、自分の序盤をしてゆきたい」

「僕の目標は、名人になることと、もう一つ升田先生や米長先生のように、将棋史にのこる新手を多く指すことです」

「そして、僕はこれからも、序盤から主導権を握って、ガンガン攻めていくつもりでいます」

三つ子の魂百まで、昔から郷田九段は格好いい。

 

羽生善治新四段(当時)「これからの僕の目標は名人です。やはりこういう将棋の世界に入ったのですから、最高位を目指してみたいと思います」

将棋マガジン1986年3月号、羽生善治新四段(当時)の自戦記「昇段の一局 目標は最高位の名人!」より。

 12月18日、昭和60年最後の奨励会でした。この日までの成績は11勝4敗、後2連勝で四段昇段でした。そしてこの日が僕にとっての記念すべき日になりました。

昭和60年12月18日
▲三段 石川陽生
△三段 羽生善治

▲7六歩△8四歩▲2六歩△8五歩▲2五歩△3二金▲7七角△3四歩▲8八銀△7七角成▲同銀△2二銀▲7八金△3三銀▲3八銀△7二銀▲3六歩△7四歩▲3七銀△7三銀▲4六銀△6四銀▲6八玉△9四歩▲3五歩△同歩▲同銀△8六歩▲同歩△2二銀(1図)

意外な戦型

 昇段の一局の相手は石川三段です。僕は矢倉になると予想しましたが、角換わり早繰り銀というほとんど指したことのない戦型に誘導されました。△2二銀のところでは△8五歩や△5五銀も一局ですが、結局受けにまわされそうなのでやめました。なお、△8六歩と突き捨てないで△2二銀とすると、▲6六歩と突かれてしまいます。

1図以下の指し手
▲2四歩△同歩▲2三歩△同銀▲2四銀△同銀▲同飛△2三歩▲2八飛△3六歩▲4五角△5四角▲2三角成△同金▲同飛成△2二歩▲2四竜△3三銀▲2五竜△7五歩▲同歩△3七歩成▲3四歩△2七角打(2図)

難しい戦い

 1図以下の指し手は、どれが良い手か悪い手か見当がつきませんでした。しかし△3七歩成を手抜くなら、必ずこちらが有利になる手順があるはずと思い、長考に入りました。

 まず第一感は△4七とでしたが、▲3三歩成△同桂▲3四竜△3二歩▲2四竜で自信がありませんでした。次に考えたのが本譜の△2七角打でした。が、ここは△3六角打▲同竜△同角▲3三歩成△4七ととするべきでした。

2図以下の指し手
▲3三歩成△同桂▲3五竜△4九角成▲3三竜△7六歩▲6六銀△4八と▲3一竜△4一金▲1一竜△5八と▲7九玉△5九馬(3図)

見落とし

 本譜の手順は、△7六歩のところを△4八と▲3一竜△4一金▲1一竜△5八と▲7九玉△5九馬で、こちらに詰めろがかからないので勝ちと最初は思っていたのですが、平凡に▲3三桂とされて負けになることに気がつきました。この時負けにしたかと思いましたが、まだ時間がだいぶあったので、色々と読んでみると△7六歩以下の手順で勝ちだと思いました。

 何故かというと、本譜の手順で行くと△5九馬が△6九馬▲8八玉△8六飛以下の詰めろだからです(△7六歩を決めないと打歩詰)。それに△5九馬が受けにくいと思いました。しかし何度も読みを確かめているうちに、一つだけ嫌な受けが浮かびました。

3図以下の指し手
▲8七銀△7七歩成▲同銀△8七角成▲同金△6九馬▲8八玉△7八銀▲3三角△6二玉▲2二竜△5二金左▲7四桂△7三玉▲7六銀△7九馬▲7七玉△8九銀不成▲8五銀△7五銀▲5五角成△6四桂▲8四銀打△同飛▲同銀△同銀▲5六金△7八銀成(最終図) 
 まで96手で羽生の勝ち

寄せ切る

 嫌な受けとは▲8七銀です。この手を指されてまだまだ難しいと思いました。

 普通は△6九馬▲8八玉△6八とですが、平凡に▲同金△同馬▲7八金で寄りません。

 △7七歩成以下は苦心の手順です。普通は△7八銀で必至の形なのですが、▲7六銀で容易ではありません。▲8五銀では▲8五歩のほうがまだ紛れる余地があったと思います。▲8五銀を△同飛と取ればそれまでだったのです。だいぶ震えていたと思います。

 時間に追われて石川三段は▲5六金としました。僕は△7八銀成▲6六玉△7五銀打▲6五玉△7六銀打▲同金△同銀▲6六玉△7五金までの詰みを何度も何度も確かめました。そして△7八銀成と指し、石川三段は投了を告げました。

 こうして僕の奨励会生活に、ピリオドを打つことができました。

奨励会時代を振り返って

 僕が奨励会に入会したのは昭和57年12月、まだ小学生の時でした。それからちょうど3年で奨励会を卒業することができました。自分でも信じられないくらい順調なペースでした。

 その理由を考えてみますと、入会した時にはまわりの人たちよりやや若かったので、受験などの障害もなく将棋に打ち込めたのが良かったのだと思います。

 さて、これからの僕の目標は名人です。やはりこういう将棋の世界に入ったのですから、最高位を目指してみたいと思います。

 四段になりましたが、これに満足せず慢心せず、自分に納得のいくような将棋を指していきたいと思います。

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中学3年の羽生善治新四段。

自分が中学3年のときに、このようなしっかりとした文章は絶対に書けなかったと思う。

1985年年12月18日、この日から将棋界の新たな歴史が動き始める。