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加藤一二三十段(当時)「こんな強敵が目の前に現れるとは思わなかったな」

将棋世界1982年5月号、加藤十段の駒落道場・角落の巻〔加藤一二三十段-小池重明アマ名人〕「鬼をねじ伏せた神様」より。観戦記はS太さん。

 小池重明氏―この人が今日本で一番強いアマチュア棋士であることは衆目の一致するところであろう。その小池さんが加藤十段に角落ちで挑戦すると聞いて”こいつはすごい!”と思わずうなった。

 加藤十段の角落ちは日本一といわれている。同じプロ棋士仲間でも十段の角落ちは一味違うらしい。攻守どちらに回っても苦にしない棋風に加えて深く正確な読み。そして”秒読みの神様”といわれるほどの秒読みに対する強さ、これが持ち時間の短いアマとの将棋では絶対的な強さを発揮する。これまでのその豪腕に泣かされたアマチュア強豪は数知れず。”プロ相手でも角なら自信がある”というアマ強豪も”加藤十段が相手ではどうも……”という人が多いという。

 一方、小池さんの棋歴というのも並ではない。小池さんが昨年史上二人目という2年連続のアマ名人に輝いたのは記憶に新しいが、それよりもその名を世間にとどろかせたのは各種雑誌誌上で行われたアマプロ平手戦で次々に若手のプロ棋士を破ったことによる。論より証拠、これまでに行われた小池さんとプロ棋士の対戦成績をご覧いただこう。

(中略)

対プロ平手通算7勝4敗

対プロ角落ち通算3勝3敗

 プロの四、五段の棋士と9番指して6勝3敗という成績はすごい。この数字は将棋界にとっていろんな意味でショッキングだった。

 小池さんが初めてプロ棋士を負かした時のことは忘れられない。54年1月号の本誌のアマプロオープン戦で小池さんは飯野四段に勝った。こういった公式の対局でプロがアマに負けるのは初めてのことだった。プロ敗勢の終盤から投了目前となった時、対局室全体が愴然とした空気につつまれたのを覚えている。投了後の重苦しい雰囲気の中で観戦していた石田八段の”飯野君なぜあそこで……”という声が悲鳴のように聞こえた。

 その後小池さんはいろんな対局でプロ棋士を破り、2年連続でアマ名人にもなりアマ最強の名をほしいままにしている。

(中略)

 約束の15分ほど前に応接の美馬和夫さんといっしょに対局室に現れた小池さん、観戦子に向かって「いやー実はほんの3日前に升田先生に角落ちで教えてもらったんですが、将棋で負かされてその後の酒の席でもやりこめられてまったくひどい目にあいました」と苦笑い。引退された升田九段が朝日ソノラマから創刊される「リトル・レビュー」という雑誌で小池さんと対局したのだそうだ。

 やや遅れて加藤十段も登場―。これから対局開始までのやりとりが面白かった。

加藤「いや今日の対戦相手が小池さんだったとは今初めて聞いたんですよ。こんな強敵が目の前に現れるとは思わなかったな。小池さんが相手と聞いていたら作戦を練ってくるんだったよ。編集部もだまってるとはいけないじゃないですか。今度から強敵の時は前もって教えてくださいよ(笑)」

 小池さんが3日前に升田九段と対局したことを聞いた加藤十段「エーッ!あっそう。ヘー。升田先生が勝ったの、フーン。升田先生も相手が強いから相当力をいれたんだろうね。でも升田先生の将棋が久し振りに見られるというのは楽しみですねェ。そりゃ升田先生ごきげんだったでしょ」

小池「ええ大変なごきげんでした(笑)升田先生にひどい目にあわされたから今日は加藤先生に八つ当たりしようと思ってきたんですよ(笑)」

加藤「いやーこれは大変だ」

 話がはずんで対局開始が予定の1時より少々遅れた。加藤十段は「さてどうしようかな」とつぶやきながらピシリと飛車先の歩を突く。にぎやかだった対局室が急に静かになってみるみる真剣な空気が流れ込んできた。

 小池さんは角落ちの下手の時はいつもこれという中飛車。

(中略)

 両者とも速い攻めがなく、中盤戦の長い将棋となった。小池さんが▲8五桂から▲9三桂成で端の強行突破をはかったのに対して加藤十段は馬をクルクルと使って巧みに香を取り上げた。

 小池さんは▲9三歩成から▲9一飛で待望の飛打ち。▲9一飛には△9七香成とでも逃げるのかしらと見ていたら△6五馬。これで竜を召し上げてしまう構想だが、小池さんはわかっていてもその網に入っていく他はなかった。十段は「△8二銀と竜を殺してはっきりよくなったと思いました」と局後の感想。

(中略)

 重量級同士の迫力ある熱戦もようやく終局に近づいてきた。最後まで粘って”さすがにタフだなー”という思いを盤側にいだかせた小池さんも十段に何発もパンチをくらい、矢折れ刀尽きた形で投了となった。

(中略)

 盤側には最初から最後まで両者の気迫がピリピリと伝わってきたし、加藤十段にこれだけの迫力を出させること自体さすがに小池さんという印象を受けた。

 小池さんの力を封じ込めてしまったことで改めて加藤十段の強さを認識させられた思いだが、これは決して失礼な表現ではないと思う。まさに神様の加藤十段が鬼の小池さんをねじ伏せた一局だった。

 最後に加藤十段の後日の感想―

「あの将棋の序盤の急戦はやっぱり角落ちの下手としては損なわかれだったと思います。今度もし小池さんと対局する機会があればもっとじっくりこられるんじゃないかな。小池さんがよくプロの四、五段に勝っていることは知ってますが、今回私が小池さんに勝ったということでじゃあ私がプロの四、五段の人に角で勝負できるかというと、それはとてもそうはいきませんよ。若手棋士に”加藤先生相手じゃあ角でも勝てませんね”なんていわれたこともありますけどそれは冗談ですからね。四、五段の棋士に角じゃあ100パーセント勝てないと思ってます。もし将棋世界で加藤十段と○○四段の角落ち戦なんて企画を立てても私は逃げますよ(笑)。でもアマチュアの強豪の人なら角は勝負だと思っています。もちろん簡単に勝てるとは思ってはいませんが。ところが小池さんは小池さんでプロの四段なら自信がある。この辺が面白いところでねえ結局アマの人は平手なら経験も情報も豊富で十分力を出すことができるけれども、駒落ちに関しては未だしってことなんじゃないかな。そういうことだと思いますね」

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加藤一二三十段(当時)の会話が楽しそうで面白い。

グラビアでは、

「オヤッ、あなたは……」対局室で相手の顔を見た加藤十段はびっくり。小池重明アマ名人ではないか。

加藤「小池さんと指すと事前に教えてくれなかった編集部はひどいなァ」小池「そう嫌わないで下さいよ」

と書かれている。

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加藤一二三十段にアマチュアが挑戦する「加藤十段の駒落ち道場」がこの頃の将棋世界で連載されていた。

それにしても、「加藤一二三九段」は見慣れているけれども、「加藤一二三十段」はビジュアル的な迫力がある。

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この対局の3日前の升田幸三九段-小池重明戦(角落ち)は、升田九段の棒玉が出た一局。

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鬼のようなアマ強豪も、平手と駒落ち上手の経験は豊富だが、たしかに駒落ち下手の経験は少ない。

平手よりも駒落ち下手の方が有利なのに、なかなかそうはいかないところが将棋の奥深いところ。

 

 

木村一基五段(当時)「楽しかったよ……でもさ、複雑な気分だけどね」

将棋世界2001年11月号、野月浩貴五段(当時)の第14期竜王戦挑戦者決定戦〔羽生善治四冠-木村一基五段〕観戦記「戦いの内側にあるもの」より。

 羽生善治四冠―この先生については、今更わざわざ語るまでもなく、皆さんに充分過ぎるほど認知されているだろう。

 従って今回は木村サイドから見ていきたいと思う。羽生ファンはお許しを……。

〔きむらかずき〕

 木村という男、今回の竜王戦が大舞台初登場となる。

 棋士になってからの通算成績は7割強で、前々年度の勝率1位、そして今年度はこの挑決3番勝負が始まるまで、30局指して9割の成績。勝敗に直すと27勝3敗という恐るべき数字。

 研究熱心な割に、序盤で優勢になることは極めて少ない。これではまるでおバカさんみたいだがそうではなく、常に工夫を見せて少しでも良くしようとしているのが今のところ裏目に出ているだけで、定跡手順は最新のものから定番まで全て知り尽くしている。

 ただ、序盤で悪くなっても中盤の力が強いので泥仕合に持ち込んで、最後は本人曰く「ご愁傷様」ということになってしまう。9割の大部分が逆転勝ちだから恐れ入る。

 この3番勝負にあたって彼はいつも「最後は人間同士1対1だから」と言っていた。羽生といえば今、将棋の神に一番近い男。その男相手に強がりではなく、本心からこう言えるのは勢いからなる自信が爆発寸前まで膨れ上がっているからだろう。

〔挑決ハイライト〕

 1、2局を振り返るとやはり第1局(9月1日)が大きな意味を持っていた。

木村にとっては何が何でも勝つしかなかった。もし1局目を負けてしまうと、羽生相手に2連勝はとても厳しい。というよりも木村の性格からして不可能に近い。これは10歳のときからずっと一緒にやってきているのでよく分かる。

ちなみに僕も木村も28歳で、不本意だが11日間だけ向こうが年上となる。

A図は1局目の山場で、ここまでは羽生がリードを拡大、縮小を繰り返しつつも何とか上手にまとめて、木村のやけくそとも思える辛抱が無駄に終わるかと思えたのだが、実戦はここから思わぬ結果となる。

A図以下、▲4六桂!△5五銀打▲6五玉△5六銀▲6四玉!△6五飛までの世紀の大頓死となった。

まず▲4六桂のところでは▲3一銀△2三玉▲2四馬からの詰みがあったし、最後の▲6四玉では▲7六玉△6五銀▲8七玉で箸にも棒にも掛からずに木村は投了するしかなかった。もう勝ちだと思って羽生は深く考えてなかったのだろう。「投了前の儀式」のはずが、木村にとっては大きな拾い物となった。

この勝利で俄然面白くなってきた。そして翌週行われた2局目(9月7日)では、羽生の四間飛車に対し、先手番の木村が作戦勝ちになったが千日手模様の局面となる。木村は迷うことなく自ら千日手にした。控え室では一様にブーイングだったが、木村は「指し直しで勝てばいい」と全く意に介すところがない。指し直し局は1局目同様、再び横歩取りとなる。

B図はその局面だが、ここで羽生の▲5五角を木村はうっかりしていた。

この手をみて木村は「勝てないな」と気持ちが萎えたという。ただこの後も粘りに粘る。「ほら、棋士しか分かんない感覚だろうけど、あぁもう勝てないなって思っちゃうと、その後も引き摺っちゃってダメなんだよね」と言いながら「でも投げないよ。投了より悪手なんてこの世に存在しないんだから」と照れながらも悪びれることなく言い放つ。ここが木村の憎めないところ。カワイイな、なんて思う人も多いだろう。

前局のこともあって、羽生の信用が薄れているため、どんなに羽生が勝勢でも「まだ何かあるよ」とか「二歩を打つかもしれないし」などと控え室では今までの羽生評ではありえない言葉がとびかっている。羽生ブランドをここまで落とした棋士は未だかつて見たことがない。

しかし前局とは違い、羽生が凄みを見せて完勝。追い詰められると流石に迫力が違う。泣いても笑っても次で全てが決まる。いよいよ決戦の時が来た。

(中略)

〔2分の1のいたずら〕

遠山君(雄亮三段)の振り駒で羽生の先手となった。木村としては先手が欲しかったが、確率2分の1には文句が言えない。「前局(指し直し局)でボコボコにされたからもう一度やってみたかった」と木村が言うように全く同じ展開だが、△5五歩に対し、▲3六歩と羽生が修正案を見せる。

(中略)

1図以下の指し手
△5一金▲3七銀△9四歩▲3四歩△4四角▲3六飛△8五飛▲1六歩△3五歩▲2六飛△2三金▲3三歩成(2図)

〔大局観〕

△9四歩は手待ちの意味が強い。というのは後手陣は今が理想形で下手に何か動かすとバランスが崩れてしまう可能性が強い。ただ、先手がゆっくりしていると△9五歩から△9六歩▲同歩△9七歩を見ている。羽生は35分考えて▲3四歩、52分で▲1六歩と指したが、この2手を「甘かった、大局観が悪かった」と後悔していた。

▲3四歩のところでは▲1六歩が正着で、これなら本譜で木村の△3五歩から△2三金がなく、先手もまあまあだった。

(中略)

△3五歩から△2三金はまさに木村の大局観が生み出した手。形にこだわらない柔軟な発想で、後手がペースを握った。

2図以下の指し手
△同桂▲3四歩△4五桂▲4八銀△6五桂▲3三歩成△同角▲6六歩△5七桂右成▲同銀左△同桂成▲同銀△3四金▲7七桂△8三飛▲4六桂△2五歩▲2八飛△2四金(3図)

〔読み抜け〕

2図の▲3三歩成は夕休に入る直前に指された手だ。△同桂に▲2四歩で良しと思っていたが、読み抜けがあって▲3四歩から▲4八銀と軌道修正するはめになった。序盤からこんなに悪手を指すのは珍しい。対局中に木村は、羽生が疲れているのがよく分かると言っていたが、実際に対局過多はどのように影響しているのだろうか?

 手順に桂馬を4五まで跳ばせて銀を引き、しかも一歩損、控え室にいた藤井に言わせると、3手損して一歩損で代償なしは飛車損に等しいと言っていた。

3図以下の指し手
▲9六歩△8六歩▲同歩△6四歩▲4五桂△4四角▲3四歩△2三金▲5三歩△同銀▲3七桂△4二銀▲2五桂△3六銀(4図)

〔温泉気分〕

 ▲9六歩には驚いた。ここで一手パスのような手を平然と指すなんてやはり羽生も大胆さを失っていない。

 △8六歩▲同歩に△6四歩が「敗着に等しい」と木村が悔やんだ手。飛車が通って好手に見えるが、△8七歩▲7九角△8八銀の方がよかったという。

 温泉気分(温泉に入って鼻歌を歌っている時の気分)になって深く読みをいれなかったことを後悔していた。

 △2三金では△1二香!を読んでいたが、あまりに見たこともない手なので、自分が信じられなくなってしまったと嘆いていた。2局目同様、木村は嫌な気持ちを引き摺り始めた。

4図以下の指し手
▲2四歩△同金▲3三桂右不成△3二玉▲2四飛△4五銀▲8五歩△5六歩▲6八銀△2三銀▲2九飛△2四歩▲9七角△6三飛▲8四歩△6六角▲6七金△4四角▲6六金打(5図)

〔しかし依然優勢〕

 ▲2四歩から金をただ取りするが、△4五銀と桂馬を取り返してまだ木村が優勢だ。やはり先手の角が遊んでいるのが大きい。

 手のない羽生は▲9七角から▲8四歩とあやを求めるが△6六角が味良く後手が有望だ。が、最終手の▲6六金打が木村の意表を突く一手だった。

5図以下の指し手
△8六歩▲同角△6五歩▲同桂△6四歩▲5六金寄△同銀▲同金△5七歩▲同銀△8五歩▲5二歩△6一金▲5五銀(投了図)
まで、111手で羽生四冠の勝ち

〔あせりと動揺〕

 残り22分のうち、16分考えて指した△8六歩が敗着となった。ここでは△1四歩は△9五歩として、▲5六金寄△同銀▲同金に△5七歩▲同金△4五桂と攻めていれば分かりやすい勝ちだった。

「色々考えたけど、あせっちゃって」

と言っていたが、動揺を引き摺ったまま、ここまでたどり着いてしまったのが木村の敗因だろう。

 本譜は▲5二歩のタタキが厳しく投了図からはどう頑張っても勝ち目がない。3分考えて悪あがきも諦めた。最後は潔くとでも考えたのだろうか。

 こんなに盛り上がった挑決戦は今まで見たことがない。さすがは竜王戦。

〔対局が終わって〕

 1時間ほど続いていた感想戦が終わったので、先に対局室を出て廊下で木村を迎えた。「ごくろうさん、お疲れ様だったね」と声を掛けると小さな声で「楽しかったよ……でもさ、複雑な気分だけどね」と木村がつぶやいた。酔っ払っている時以外、僕には嘘をついた事がないので、強がりでも何でもなく本心だと思う。

 この言葉を聞いた時、三段時代に二人同時で上がりを逃したり、昇級の一番を負けたことが何度かあって、その度にお互い泣きながら同じようなことを言いながら慰めあったことがふと頭に思い浮かび、木村の顔を見つめていると胸がいっぱいになり言葉に詰まってしまった。

 校了の関係で締め切りが翌日の午前中と時間がなかったが、親友を置いて帰る訳にはいかず、付き合うことにした。

 直後、夜中から十数人で行われた打ち上げでは、平静を装って色々と対局中のエピソードを喋って場を盛り上げていたが、見ていて木村の人のいい性格が現れている感じがした。「悔しい顔をすればいいのに」心で思っていると、みんな酔っ払って訳がわかんなくなり始めた頃、木村がおもむろに鞄から今日の棋譜を取り出して、見ているうちに人知れず涙を拭いていた。誰も気付いていないみたいだったが、いつもの木村を見た気がしてうまく言葉にできないが安心した。

 新人王戦ではやつの笑顔が見られるだろう、たぶんきっと。

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野月浩貴五段(当時)の、少年時代からの親友だからこそ書くことができる珠玉の観戦記。

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この時の竜王戦挑戦者決定戦第1局は、羽生善治四冠(当時)にとっては非常に珍しいトン死があった一局。

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「新人王戦ではやつの笑顔が見られるだろう、たぶんきっと」。

残念ながらこの年の新人王戦での木村一基五段(当時)は、決勝三番勝負で松尾歩四段(当時)に0勝2敗で敗れている。

しかし、翌年の新人王戦決勝三番勝負で木村一基六段(当時)は鈴木大介六段(当時)に2勝1敗で勝って新人王に輝いている。

 

 

 

羽生善治五冠(当時)の非情の責め(羽生激辛流4)

将棋世界2001年10月号、片山良三さんの第42期王位戦〔羽生善治王位-屋敷伸之七段〕第3局観戦記「銀得で不利という、不条理」より。

7図以下の指し手
△2七角▲7七銀△6三角成▲1一竜△2六歩▲4六角△2七歩成▲1三角成△5三香▲6八馬△2六竜▲5七銀△3七と(8図)

〔戦意喪失〕

 残り10分になった屋敷に対して、羽生の△2七角は残酷とも言える非情の責めになった。△6三角成と引きつけられれば、羽生の玉は詰む形が想像できなくなるが、このラインには障害物がないので止めようがない。詰みそうにない敵玉に時間切迫の状況で向かっていかなければならないウンザリ感を想像してみてほしい。屋敷の心理的な負担を一瞬で読み切り、相手が最も嫌がる指し手を選択できるのが、羽生一流の高度な勝負術なのだ。

 当面は銀損という小さくない駒損なのだが、なぜか指しにくさは感じない。その点は羽生も同意して「歩の数が多いからでしょう」と明確な分析をした。事実、馬を作ったあとは△2六歩からのと金の製造。この時点で羽生も「やっと良くなった」と認めた。

 もっと良くできそうな将棋を決めきれなかったことで著しく消耗していた屋敷は、△2七角を見たところで、この将棋にはすでに自分に勝ちが出ないことを悟っていたと思う。

 △5三香と、あくまでも手厚い手で制空権を確保し、△3七とと元手がかかっていないと金を働かせる羽生。屋敷から、銀得という物質的な優位さえ奪ってしまえば、勝ちは向こう側から転がり込んでくるという大局観だ。

8図以下の指し手
▲9五歩△同歩▲9四歩△2八竜▲9三桂△同桂▲同歩成△同香▲8六銀△6五桂▲7五桂△4五馬▲8三桂成△同玉▲9四歩△5七香成▲9三歩成△同玉▲8五香△8四歩▲同香△6八成香▲同金上△8三歩▲7一銀△8四歩▲9五銀△8三玉(投了図)  
 まで、106手で羽生王位の勝ち

〔痛い負かされ方〕

 ▲9五歩以下は、単なる形作り。終局を確認するための作業工程に過ぎなかった。投了図から▲7五香で詰めろを継続したとしても、△7四歩で今度こそなにも手がない。

 屋敷独特の変則的な揺さぶりが全く通用しない七番勝負。今回は序盤の再三のフェイント攻撃に羽生が挑発されて、屋敷が主導権をつかんだようにも見えたが、「銀得なのに、すでに悪いかもしれない」という不思議な展開に頭を抱えた。ポーカーフェイスを崩さない屋敷だったが、こんなショックな負かされ方も、初めてだったのではないか。

 羽生は新たな挑戦者がやってきたときに、(多分意識的に)こんな負かし方をする。ただ負かすのではなく、心の奥底にコンプレックスという傷も負わせようという計算なのではないか。まさに王者の勝負術を見せてもらった気がする。

 力の半分も出させてもらえない屋敷は第4局以降にどんな巻き返しを見せてくれるだろうか。「力が入り過ぎと違うか」とは、立会人の内藤九段の指摘。ウキウキとして競艇場に行くような、普段着の屋敷に戻ることができれば、羽生の精密な思考回路をも乱せるかもしれない。

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△2七角という、穏やかに見える一手が超激辛なのだから驚いてしまう。

大山康晴十五世名人流の、若手の挑戦者の心の奥底にコンプレックスを植えつける、という狙いではなかった可能性もあるが、とにかく挑戦者の心が折れてしまうような負かし方。

しかし、よくよく考えると「激辛」というのは相手を攻撃する手ではなく自陣を固める手である場合が多いので、穏やかに見える一手が激辛であることは不思議なことではないのかもしれない。

 

 

 

「銀得で不利という、不条理」(羽生激辛流3)

将棋世界2001年10月号、片山良三さんの第42期王位戦〔羽生善治王位-屋敷伸之七段〕第3局観戦記「銀得で不利という、不条理」より。

6図以下の指し手
▲同角△同竜▲5三歩成△同金▲2六角△5五竜▲5七歩△6五銀▲1一竜△8二玉▲1三竜△5二金引▲5六香△同銀▲同歩△同竜▲3七角(7図)

〔読み筋にスキなし!〕

 △3五角に対して、▲1一角成などとゆったり構えているわけにはいかない。△5七桂▲6八金上△4九桂成の攻めが、△3五角の存在と絡んで非常に厳しい手になる。攻守が入れ替わるどころではなく、角の位置エネルギーの差が瞬間的に大差になるだけに先手に勝ち目がない。▲5三歩成と踏み込むのも、△同金▲同角成△同角▲5二金△4三角でブロックされる。どちらの変化も、屋敷陣に残っている壁銀が勝敗に直接響いてくるのがわかる。

 というわけで、屋敷の▲3五同角はやむを得ない妥協だが、羽生に△同竜と成ったばかりの竜に引き揚げられ、この竜のディフェンスが見た目以上に強力であることに驚かされる。一撃で決めにきた屋敷の腕をさりげなく返し「勝負はこれから」とでも言うように挑戦者に鋭い視線を投げかけた羽生。ここまでうまく指してきた実感があった屋敷だが「竜を引きつけられたあたりから、手応えがある手が見つけにくくなった」と、気持ちに焦りが出てきたことをあとで告白してくれた。

 先の△3八飛成にかけた51分で、羽生は相当深いところまで読みを入れた。△3五角で△6二角と自玉に内服薬を投入する手もあると見ていたようだが、▲1一角成△5七桂▲6八金上△4九桂成▲6六馬△6五銀▲3九香△同成桂▲6五馬△同歩▲6四桂(参考4図)と進む展開が気に入らなくてやめたのだという。

 ▲3九香と貴重な駒を打ち捨てて一手を稼ぐ手と▲6五馬と切る手のコンビネーションなどは、まさに王位だけの世界だ。屋敷は△6二角と受け一方に打つ手をそもそも軽視しており、このあたりは感想戦でも羽生の独壇場だった。

 ▲2六角に△5五竜と体をかわし、意外にも継続手がない。立会人の内藤國雄九段が「▲5二歩でどうだ!」と切れ味鋭い指摘をしたが「△6二角と打てば、さっき(△3五角で△6五角と投入する変化)よりこっちにとっては条件がいいですよね」と、羽生は涼しい顔だ。

 勝浦修九段は「▲5三歩成とするから忙しくなるんだ。黙って▲7七銀。それが呼吸でしょう」と指摘したが、羽生は「こちらも△8二玉と上がれるので、どっちが得かは微妙なところでしょう」とここでも負けていなかった。「少しずつ苦しいと思った」というのが終局直後の公式コメントだが、実際には羽生がはっきり悪くなる変化はついに見出だせなかった。

 屋敷は「気がきかない手」と思いつつも、▲5七歩から手順を尽くして駒得に走った。「序盤に戻ったような展開(羽生)」なら、駒得はなによりも頼りになる優勢への指標だからだ。7図まで、ついに銀得の戦果があがったが、不思議なことに形勢はすでに羽生に傾いていた。

 そして、羽生の次の一手が、挑戦者の意識をもうろうとさせるハードパンチになった。

(つづく)

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羽生善治王位の非常に深くて精緻な読み。

矢倉銀損定跡があるが、7図のような終盤に近い中盤で銀損している方が有利というのも珍しいこと。

広義の羽生マジックと言えるだろう。

そして7図からの羽生王位の激辛な次の一手。

大山流の激辛、丸山流の激辛ともまた違った味の羽生流の激辛。

当てるのはなかなか難しい一手。

 

 

羽生善治五冠(当時)「これが精一杯のさばき」(羽生激辛流2)

将棋世界2001年10月号、片山良三さんの第42期王位戦〔羽生善治王位-屋敷伸之七段〕第3局観戦記「銀得で不利という、不条理」より。

2図以下の指し手
△4六歩▲同歩△同飛▲2四歩(3図)

〔避けられない決戦〕

封じ手は△4六歩。△2二飛とすればまだ収まる道はあったと思うが「指す気がしない」と羽生。屋敷も「絶対に△4六歩と来ると思っていた」と、ギャンブラーらしく一点予想を的中させていた。

2日目の午前から、控え室に緊張が走った。一気の決戦の順がいくつか想定できたからだ。

3図以下の指し手
△同歩▲3三角成△同桂▲2四飛(4図)

〔ワザはかかっていた?〕

手番を握った振り飛車側がワザをかけに行かなければいけない3図。△3五歩がよくある反撃筋だが、▲2三歩成△7七角成▲同銀△3六歩▲3二と△3七歩成▲同銀△4九飛成▲2一飛成(参考2図)と一本道に進んで、振り飛車がよくない。次に▲1六角の狙いが厳しく残っているからだ。

△3六飛はあったかもしれない。▲2三歩成に、△7七角成▲同銀△4七歩▲同金△2七歩と攻め、▲同飛△3八角が面白い。ただ、羽生はそこで▲2八歩(参考3図)と打たれる手が気になって、うまくいかないと打ち切った。

屋敷は「全く読んでいなかった」と正直だが、ここまで進めば▲2八歩はきっと指すはずだ。

羽生がこの変化に誘われなかったのは、勝負師特有の危機察知能力の働きと言っていい。

本譜は意外なほど普通の進行。屋敷の飛の成り込みは確定。羽生の飛はまだ見通しが立っていない。

4図以下の指し手
△4五桂▲同桂△同銀▲2一飛成△5六銀▲4七歩△3六飛▲4四角(5図)

〔さばきをひねり出す羽生〕

先手の不満は8八の壁銀。後手の不満は不安定な7一玉。そういう意味では微妙にバランスがとれている4図だが、ここでは8八に銀がいるから大丈夫という変化がいくつかあった。例えば△4五桂▲同桂△同飛なら、▲4七歩と打って先手優勢という順。通常の▲6八銀型なら△3三角がひどいのだが。

△4五同銀が、羽生がひねり出した手。▲4七銀で飛が死ぬが、それは△同飛成▲同金△4六歩▲5七金△6五桂で先手陣がもたない。△5六銀と「これが精一杯のさばき」(羽生)だが、模様はやはり屋敷が良く見えた。

5図以下の指し手
△3八飛成▲5四歩△3五角(6図)

〔妖しい角で屋敷優勢?〕

屋敷が中空に打ちつけた▲4四角は、控え室では出てこなかった発想。

敵の心臓をいきなり素手で摑みにいくような手で、これにはさすがの羽生も考え込んだように見えた。不安定な位置の角だけに違和感があったが、眺めているうちに「これは素晴らしい手かもしれない」と、検討陣の評価もにわかに高まっていった。

直接には▲5四歩が狙いだ。これを防ぐだけなら△8二玉と味よく直射を避ければ済む話なのだが、それには▲3七歩と羽生の飛を捕捉する手が用意してある。△3五飛とするしかないが、▲同角△同歩▲3一飛と二枚飛車で攻めたてて、この展開になれば主導権は完全に屋敷のものとなるわけだ。

屋敷優勢の声。もしこの将棋を屋敷が落とすことにでもなればワンサイドゲームになってしまう七番勝負だけに、中立の立場を守らなければならない運営側の空気も知らず知らず屋敷に肩入れしてしまうのも仕方がない。盤上に打ち下ろされた▲4四角が放つ妖しい輝きは、そうしたムードが希望的な観測ではないと思わせたのだが、王位戦8連覇中の羽生のふところはそんな浅いものではなかった。

51分の熟慮で、△3八飛成。手の意味としては▲3七歩で飛が封殺される手を回避したわけで、単体の指し手として見れば羽生でなくても指せる平凡な手とも言える。しかし、これによって屋敷に手番が移り、注文通りの▲5四歩を与えることになる。それで悪ければ「王より飛車を可愛がり」の危険な選択になるわけだが、当然のこととして羽生は屋敷の切っ先を見切っていた。△3五角が、用意していた強防だ。心臓を摑みにきた屋敷の利き腕を、背後に回り込んでねじり上げようとした手だった。

(つづく)

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羽生善治王位の封じ手は△4六歩。

こっちはこっちで好きにするから、勝手に飛車を成り込んできて、という方針。

振り飛車名人の故・大野源一九段の捌きがこのようなものだった。

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羽生善治王位がひねり出した息苦しいような捌き。

「飛車を取れるものなら取ってみろ」だったものが、屋敷伸之七段(当時)の妖しげな▲4四角の出現で、飛車を取られてはマズい状況に一変する。

そして、それに対抗する△3五角。

敵の心臓をいきなり素手で摑みにいくような妖しげな▲4四角も、心臓を摑みにきた腕を背後に回り込んでねじり上げようとした△3五角も、迫力満点だ。

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心臓を摑みにくるわけではないが、鉄の爪 フリッツ・フォン・エリックのアイアンクローに対し、必死に技にかからないようにしているジャイアント馬場さんの写真があるが、6図はまさにそのような局面。

写真→【懐かしの外人レスラー名鑑】鉄の爪 F・フォン・エリック(NEWSポストセブン)