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「行儀のよい将棋指しやがって、ちっとも解説するところあらへん」

将棋マガジン1986年10月号、「思い出のアルバム 追悼!!高島一岐代九段」より。

 高島八段は、当時「日本一の攻め将棋」という異名を奉られたほどの強烈無比な「攻めの人」。

 一方、大山名人は自他ともに許す「日本一の受け将棋」であり、強靭無類の「受けの人」。

 その第14期名人戦第2局(於・大阪住吉「鉢の木」)での観戦記には、

立会人「大野八段(解説者)、新聞社の表の大盤解説で(平凡な展開で)弱っとるやろな」。

高島「バカメ、行儀のよい将棋指しやがって、ちっとも解説するところあらへん……言うて……」。

 とたんに名人「言うところ作らしてやろか」と▲1七香。の一幕を書いている。

(以下略)

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1955年の名人戦、大山康晴名人-高島一岐代八段戦

「日本一の受け将棋」対「日本一の攻め将棋」、盾と矛の戦い。

結果は4勝2敗で大山名人が防衛している。

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立会人が誰だったのかは書かれていないが、立会人が「大野八段(解説者)、新聞社の表の大盤解説で(平凡な展開で)弱っとるやろな」と言った局面は1図。

まだまだ矢倉の駒組みの段階。

盤外の話を多く盛り込まなければ、解説的には厳しい局面だ。

1日目だからということもあるが、立会人がそのような話題を呟く、古き良き時代の話だ。

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「言うところ作らしてやろか」と大山名人が言って▲1七香。しかし、棋譜を見ると駒がぶつかりあうのはもっと先だったようで、解説者泣かせの局面はまだまだ続く。

この一局は高島八段が勝っている。

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別の年の名人戦での、大野源一八段(当時)の大盤解説会のエピソードもある。

名人戦の対局室に聞こえてきた大盤解説

 

「対局でなければ一生こなかった所だな」

将棋マガジン1986年2月号、読売新聞の山田史生さんの第24期十段戦〔米長邦雄十段-中原誠名人〕第5局観戦記「米長十段、防衛までにあと一勝!またまた夕食休憩前に終局」より。

 仏法僧で有名な鳳来寺山ふもとの「雲竜荘」。対局場設営は中部「読売新聞社があたった。「静かな山あいの山村で、山菜料理や、しし鍋が名物」ということなので、こちらも「趣があっていいでしょう」と了解したのだが、国鉄の下車駅は豊橋から飯田線に乗って約1時間の本長篠。この近辺は戦国時代、織田・徳川連合軍と武田軍が激突した「長篠の合戦」の舞台になった所だった。この合戦は初めて大量に鉄砲を採用した織田軍に武田軍が惨敗、武田滅亡の最大原因となった戦いである。武田といえば甲州が本拠。山梨出身の米長にとって、武田惨敗の地は縁起が悪かろう、ちょっと場所の選定が不用意だったかな、との思いが私の胸をよぎったが、もうやむをえない。

(中略)

 さて、前夜は立会人の大友昇八段、板谷進八段、観戦記の山本武雄八段(陣太鼓)、記録の阿部隆四段ら関係者で山菜料理。山モモ、栗、山ゴボウ、菊イモ、ユベシ、蜂の子、それにどくだみ、よもぎ、柿の葉の天ぷらなど、都会では口にしないものがふんだんに出た。

 米長、中原とも「対局でなければ一生こなかった所だな」と山深い地での清遊に興味深げ。

(中略)

 ここで昼食休憩。中原はうな丼、米長はとろろそばを食べたが、中原にとってはまずいうなぎであったろう。

 再開直後、中原が大きなくしゃみをしたが、米長「ウヘー」と声を出し、大仰に驚いてみせる。もう張り詰めた緊張感はない。勝負の帰趨は両者にははっきりわかっているゆえの一幕である。

(以下略)

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雲竜荘」は、愛知県新城市鳳来寺山麓にある旅館。

約2000坪の敷地内に、本館をはじめ9棟の歴史ある建物が建っている。

大正末期に建てられたこの地方の名家・素封家の別邸を昭和25年に移築し、旅館として開業したのが雲竜荘の始まりだ。

食事メニューは、

  • 口代わり(ぜんまい、わらび、松の実、沢蟹、またたび、あみがさゆず、きんかん甘露煮、いなご甘露煮)
  • お造り〔鯉の洗い、刺身こんにゃく、岩茸〕
  • 焼き物〔鮎の塩焼き、あまごの塩焼き、松茸の炭火焼き〕
  • 箸休め〔山桃のワイン漬け〕
  • そば〔なめこそば、やまかけ〕
  • 冬瓜の印籠蒸し
  • しし鍋
  • 小鉢〔蜂の子、くちなしの花、つくしの佃煮、たにしの味噌和え、ノビルの酢味噌和え〕
  • 天ぷら〔薬草など〕
  • 胡麻豆腐

現在も豊橋から本長篠まで飯田線で約1時間(雲竜荘までは本長篠駅からバスで10分)かかるが、行ってみたくなるような旅館だ。

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「中原が大きなくしゃみをしたが、米長「ウヘー」と声を出し、大仰に驚いてみせる。もう張り詰めた緊張感はない。勝負の帰趨は両者にははっきりわかっているゆえの一幕である」

この対局は2日目の昼食休憩後、2時間くらいで終局している。なるほど、勝負の帰趨がお互いにわかっているからこその「ウヘー」。

もちろん、勝勢な側が「ウヘー」と声を出すから洒落になるのであり、逆の場合はあまり洒落にならなくなる。

 

「青野は人間がしっかりしている。鈴木は頭がいい。菊地は最後の将棋指しという感じ。神谷はおもしろい」

近代将棋1983年8月号、金井厚さんの第6回若獅子戦準決勝〔南芳一六段-神谷広志四段〕観戦記「リトル大山対第二の升田」より。

 南六段と神谷四段の準決勝。

「昨年もやってますね」

 と話しかけたら南六段が、

「2回戦で一緒です」

 と答えた。

 20歳で六段。前期若獅子戦優勝、勝率NO.1、新人賞、連勝賞(15連勝)。すべての面で抜群の成績をおさめた。”リトル大山”の評判通り、腰のじっかりした独特の受け将棋。若手棋士のなかでは頭ひとつぬけた存在である。

 対する神谷、言動の面白さでは若手棋士中ピカ一。

「前回とまったく状況がおなじなんですよ。現在4連敗中。あの時も4連敗していて南君に負けて5連敗。ついでに6連敗しました。この将棋は相手中心に見てください」

 もちろんこれは彼一流のジョーク。胸のうちは激しい闘志が燃え盛っているのに違いないが、それを前記のように表現する。

 師匠の広津久雄八段が4人の弟子をこんなふうに評していた。

「青野は人間がしっかりしている。鈴木は頭がいい。菊地は最後の将棋指しという感じ。神谷はおもしろい」

 どんなふうにおもしろいのか広津八段の話をつづけて紹介しよう。

「このあいだ升田さんから電話がかかってきて、君の弟子に変わっているのがいるなというんだ。それが神谷のことで、升田さんが連盟で神谷に会った時、君は誰だといったら、第二の升田ですと答えたらしいんだ。まったくあいつらしいよ」

 神谷は将棋の方も変わっていて、風変わりな作戦をよく見せる。

「24手目まで誰が指してもおんなじ将棋なんてのはファンに失礼ですよ」

 これが神谷の口ぐせ。24手目までというのは矢倉のこと。”見せる将棋”が神谷のモットー。こんなところも升田九段的である。

(中略)

 感想戦での神谷語録。

「△4一玉で、ふつうこの形は向こうが困っているでしょ」

「何をやってもいいんで実は困った」

「向こうの手番でも困るんじゃない」

「この将棋負けたら勝つ将棋ねえな」

(中略)

 ところが△6四歩が変調。将棋をもつれさす原因になった。

(中略)

 再び神谷語録。

「ひどいねえ」

「△6四歩。ここをいじる必要はまったくなかった」

「あの局面では夢見心地で指していた。純粋に頭が悪いと書いておいてください」

 5図から、南があっと驚く逆転劇を見せる。

(中略)

 感想戦に集まった小林七段、室岡四段らに、「笑ってくださいよ」と自嘲気味にいう神谷。この将棋を負けたのは大ショックだったに違いない。

(以下略)

* * * * *

「青野は人間がしっかりしている。鈴木は頭がいい。菊地は最後の将棋指しという感じ。神谷はおもしろい」

廣津久雄九段門下の、青野照市九段、鈴木輝彦八段、菊地常夫七段、神谷広志八段。

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感想戦で、一度でいいから「何をやってもいいんで実は困った」、「そっちの手番でも困るんじゃない」、「この将棋負けたら勝つ将棋ねえな」と言ってみたいものだが、よくよく考えると、全て負けた時の感想戦で出てくる言葉だ。

* * * * *

「このあいだ升田さんから電話がかかってきて、君の弟子に変わっているのがいるなというんだ。それが神谷のことで、升田さんが連盟で神谷に会った時、君は誰だといったら、第二の升田ですと答えたらしいんだ。まったくあいつらしいよ」

「第二の升田です」と答える神谷四段(当時)も凄いが、そもそも「君は誰だ」と聞く升田幸三実力制第四代名人も凄い。

「君は誰だ」と聞かれることは長い人生の中でもそうそうないことだと思う。

もっとも、全く見ず知らずの人から通りすがりに「君は誰だ」と聞かれて腹を立てるのとは違って、升田実力制第四代名人から聞かれたのだから、神谷四段も嬉しかったことだろう。

 

「塚田君、怖いんですよ。小さいころの話をすると……」

近代将棋1983年2月号、金井厚さんの第6回若獅子戦1回戦〔武市三郎四段-塚田泰明四段〕観戦記「武市がいたんじゃ俺は名人になれない」より。

 3階の事務室は閑散としていた。時刻は12時40分。ちょうどお昼どきである。手合課の小倉主任だけがひとり机に向かっていた。そこへ眼鏡をかけた一人の青年が近づいて来て言った。

「12月7日から14日まで対局つけないでください。期末試験なんです」

 青年の名は塚田泰明。青山学院高等部の2年生。学生でありながら棋士。四段。どちらも本業である。将棋のほうの成績は抜群で、本局の前まで21勝7敗。ことしになって長いこと勝率トップを続けていた。

「日曜日はいいだろ」

「いえ、勉強がありますから」

「一つぐらい不戦敗にしてくれよ」

 小倉主任はわざと不機嫌な顔を装って言った。

「いえ、絶対駄目です。勝率が関係してきますから」

「じゃ、内藤九段負かしてくれよ。そうすれば塚田君のいうことならなんでもきく」

 3日後に塚田は、全日本プロトーナメント戦で内藤王位との対戦が決まっていた。

「そんなにお忙しいんですか」

「でなかったら、東京へ来るわけないだろ」

「じゃ、がんばります」

「うん、がんばってくれよ」

「はい」

「頼むぞー、ガンバレヨー」

 小倉主任は塚田が去ったあとも、いつまでも声援を送っていた。勝ちまくるオイソガ氏にはいつも泣かされるのが手合係。とはいえ、まさかこんな密約があるとは内藤王位もしらない。とんだところにおもわぬ伏兵がいたものだ。手合係は中原前名人が負ければ手をたたいて喜び、大山王将がとりこぼせば祝杯をあげるのかもしれない。ま、これは冗談だが、互いの要望を聞き入れ、調整しながら年間2,000局もの手合をつけるのは大変な作業だろう。

 4階の対局室へ行くと、武市がすでに端座していた。今年度、9勝7敗。だが昇降級戦では、塚田とともに4連勝と絶好調。昇級候補同士の一戦だ。

「閉めてもいいですか」

 ふすまに手をかけたのは神田真由美女流1級。隣室では女流対局が2局。ともに中盤戦。塚田とは同門の中瀬奈津子女流初段の顔もあった。二人はベテランを相手にしていた。

(中略)

「きょうは塚田君の誕生日ですよ」

 と教えてくれたのは中瀬奈津子さん。18歳になった。が、まだ2年生。かれは1年をうらおもて経験。出席日数が足りなかったのが一因だが、「ことしはもっと危ない」という。対局のたびごと休まなければならず、勝てば勝つほど欠席が増えるという悪循環。なにごとも両立はむずかしい。だがこの日は学校の創立記念日でちょうどお休みだったのはさいわい。

「塚田君、怖いんですよ。小さいころの話をすると……」

 女流対局終了後、中瀬さんにインタビューを申し込むと、奈っちゃんは、両手の人差し指をこめかみのあたりでたてて、しかめ面をしてみせた。

「わたしも聞きたいわ」

 と神田さん。ちょうど居合わせた蛸島彰子女流名人とともに、階下のレストランへ。

「3つ違いなんです。妹の尚美が塚田君と同い年なんですが、4ヵ月早生まれなんですね。小さいときは妹とよく背比べしてました。”わたし何歳になったのよ””じゃ、背比べしょうって”」

 中瀬さんの父君、俊三氏はアマ四段。志木市の自宅を開放して、近在の子供たちに将棋を教えていた。”と金の会”は有名である。隣接の朝霞市在住の塚田が、初めて参加したのが小学4年の夏。

「さいしょ来たときはひと目かわいくない。将棋強かったからじゃないですか」

「いまかわいいね、素直でね」

 神田さんが首を突っ込む。

「……」

「あんまりいい男は強くならないんですってよ。みんな言ってますよ。谷川さんみたいなのがいいんですよ」

「塚田君っていい男?谷川さんいい顔してるじゃない」

「うーん、そうだけど」

「内藤さん、強いじゃない」

 どうも話が横道にそれますね。

―どっちが早いんですか。

「それが悔しいことに2ヵ月ちがいで兄弟子なんです」

 奈っちゃんはゲンコツを作ってテーブルをたたいた。コップが3メートルほど宙に浮く。

「あら、奈っちゃん、どちらを望むかっていうとね、妹弟子のほうがいいわよ。わたしもよく訊かれるんだけどね、中原さんとどちらが入門が早いんですかって。名人の姉弟子なんていったら、すごーく年上にみられるでしょ」

 蛸島さんのあんな真剣な目つきははじめてだった。

「そうか。将来のことを考えれば妹弟子のほうがいいか」

 奈っちゃんは額に手を当て、頬杖をついた。目が虚ろである。

 あーあ、インタビュアー失格だな。

 対局場へ戻ろう。

(中略)

 奈っちゃんも知らない、塚田の学生生活は友人に語ってもらうのが一番。中等部の1年のときから現在も同級生という立花君は、「数学は強いけど、英語は弱いって言ってましたね、彼は。ことしも危ないんじゃないですか。勉強は一生懸命やってるみたいですよ。たまに試験が終わってから飲みにいくときがあります。あの人もお酒が好きなもんですから、それにお金持ちですから資金源になるんですよ。ガールフレンドは結構たくさんいるみたいですよ」

 と語る。担任の波多江幸枝教諭は英語の先生だ。(小倉主任じゃないけど、ガンバレヨ)高校生といえども、少々のお酒はいまどき珍しくない。対局で休むのはしかたがないが、それ以外に欠席はない。まじめな青年だ。もっとも小学生時分はもっと優等生だった。

(中略)

「挑戦者決定戦ですか?」

 神谷四段が入室し、一言いい置いて、すぐ退散した。二人は笑顔で見送っている。本局の勝者が次に神谷とぶつかるのだ。

「塚田とやりたい」

 神谷はそう言っていたが、はたしてどうなるか。

(以下略)

* * * * *

このほぼ2年後、中瀬奈津子女流初段(藤森奈津子女流四段)とアマ強豪の藤森保さんが結婚して、さらに2年半後、藤森哲也五段が生まれている。

藤森哲也五段は塚田泰明九段門下。

「中瀬さんの父君、俊三氏はアマ四段。志木市の自宅を開放して、近在の子供たちに将棋を教えていた。”と金の会”は有名である。隣接の朝霞市在住の塚田が、初めて参加したのが小学4年の夏」

のような歴史があっての塚田泰明九段門。

「さいしょ来たときはひと目かわいくない。将棋強かったからじゃないですか」

「あんまりいい男は強くならないんですってよ。みんな言ってますよ。谷川さんみたいなのがいいんですよ」

のような中瀬奈津子女流初段の会話が面白い。

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中瀬奈津子女流初段と藤森保さんの結婚披露宴(近代将棋1984年11月号)
近代将棋1984年11月号グラビア、撮影は弦巻勝さん。

「将棋に美は必要だが、勝負に美は必要ない」

近代将棋1982年4月号、弦巻勝さんの第5回若獅子戦〔田中寅彦五段-中村修四段戦〕観戦記「目のまわる王様」より。

 本誌編集部より観戦記を書いてみないかと依頼を受けた。私は一応写真を撮ることによって生計を立てている、将棋大好きカメラマンである。現像液も使用せずに紙の上に文字を浮き出させることは得意でない。しかし、最初から最後まで誰はばかることなく一局の将棋を真近で見ることができる。こんないい話はない。カメラとペンを持って将棋の本山へ参上した。

 棋界は混み合っていて、プロ棋士になるのは大変なこと、アマチュアの中で少し強いくらいではとてもプロの四段にはなれない。宝くじに当たるようなわけにはゆかないのだ。ましてや八段になれるのはごく一部にすぎない。四段になると将棋の世界は一人前。しかし今日の対局者は二人共一人前と思っていない。八段になって一人前と考えている二人である。読者の皆さんは、観戦記は読まずにぜひ棋譜だけは並べてほしい。

(中略)

プロフィル

 田中寅彦五段 昭和三十二年四月二十九日生れ、四十七年高柳敏夫八段に六級で入門。

 中村修四段 昭和十七年十一月七日生れ、五十一年佐伯昌優七段にやはり六級で入門。今日は対局が多く、この将棋の他に十局もあり、雑誌でよく見る棋士の顔が動いている。本局は将棋連盟五階の香月の間で午後一時ピッタリに駒が振られた。田中さんの先手で7六歩、田中「最後だからうるめてくれ……」、中村「いやあ……」これは本棋戦は年齢制限があり、田中さんはこの棋戦、今期かぎりの対局なのである。田中さん「若獅子戦は優勝しやすいはずなのになぜできないのかなあ。弱いのかなあ……」。中村さんは風邪気味で、二、三日前ようやく熱がさがったという状態。彼は風邪をひいていなくともあまりしゃべらぬ人だから、時々口は動かすのだが音としては出てこない。あめ玉をなめている。中村さんの6四歩でやぐら中飛車が映る。

(中略)

消えた十五分

 田中さんの5七銀の時におかしなことに気がついた。対局は一時ジャストに始まった。私の時計は一時二十分、チェスクロックの両者の消費時間を見ると、中村さんが三十分、田中さんが五分、あわせて三十五分、十五分はどこに行ったのか……。記録係は萩原徹也さん十六歳、高校一年生で長谷部七段門下、昨年十月の入会で今回が四回目の記録係とのこと。聞いてみた。「これはチェスクロックの故障ですね」、いたって簡単、どうということはないらしい。他のチェスクロックに換えればいい。田中さんの了解を得て田中使用時間五分、中村十五分と新しいチェスクロックにセットして再開された。ドイツ製のかなりしっかりしたチェスクロックに見えたが、中村さん側の針が元気が良すぎたわけである。

(中略)

天王山の位

 香月の間はこの一局だけなのでとても静か光もとてもきれいな部屋で新しいチェスクロックの音が今度はゆるやかに聞こえる。

 局面は中村さんの6四歩からやぐら対やぐら中飛車の局面になったが普通は中村さん側の飛車が頑張って銀をくり出し急戦で5五をおさえて、中飛車側有利と入門書に出ている。しかし本局は田中さんの歩が5五にいて、しかも銀が二枚で頑張っている。これは素人目にも田中さん側を持って指したいと思う。局後田中さんに聞いてみると、「この局面はどの棋士が見ても私の方を持つ」と語ってくれた。

(中略)

目線

 一時に開始されて現在二時半、チェスクロッキを睨みながら中村さんブランディーを飲むようにチビリチビリと茶を……。7筋のあたりをしばらく眺めて、あめ玉を口に入れたかと思ったら、5一玉、眺めていた所と動かした所との目線が違う。田中さんは自分の銀が駒台に乗ったことに満足そう。中村さんだって7四に銀を使わされてはいい訳ない。しかしここに銀を打たないと田中さんの角に好きなように暴れられる。

(中略)

問題の局面

 それでも田中さんは「おもしろく行くか」と、8四の歩に噛み付いた。7五歩で角がひっこみがつかなくなった。田中さんは口をとがらせてヒューと溜息で角を吹く。このあたりは局後一番研究されたところ、ハッキリした答えはその場で出なかったが、田中さんは良いと思い、中村さんは悪いと思っていることは一致した。田中さんの4五歩で本格的な決戦になった。しかしこの4五歩は疑問手らしい、中村さんに1三角と覗かれ王様を睨まれた。4図から5図に至る間に問題の手があったらしい。局後いろいろ聞いたり、テープレコーダーでも取ったりしたが、家に帰ってきたら皆忘れてしまった。テープにはいろいろパチパチ音がしているがどこの局面を言っているのか指しているのかさっぱり分からない。4五歩で指し手は沢山あるが、5三歩、6三玉、5五銀打、5三金、5四銀、同金、5五歩、5三金、5四銀、同金、5五歩、5三金、5四銀、同金、同歩、とか5五銀打、6三銀左、5四歩、6一玉、4五歩、1三角、4四歩、7二玉、4五銀、4六歩打、4八飛、3三桂、3四銀、5四銀、5二歩、8一飛、7三角成、同金、5四銀、4七歩成、同飛、5六角打、4九飛、3四角、6六桂、5八銀、いろいろあるらしい。いずれにしてもプロはずいぶん沢山の手を読むものである。驚いた。

見えない部分

 十二年程前、私がある週刊誌の専属で写真を撮っていたころ銀座のソニービルでおもしろい催し物をやっていた。某フィルムメーカーの企画でテレビゲームを利用したものだと思うが、大きな画面に動物が左右から、走ったり飛んだりして出てくる。それを五メートル程手前にセットしてあるカメラですばやくとらえる。(繁華街のゲームセンターにあるような備えつけの銃で動物を撃ちおとすのに似ている)、うまく確実に撮れると点数が出るしかけ、同行の編集者は十点満点の四点。私にもやれと勧める。プロとしての自負のある私は四点以下ならどうしようと気乗りしないままやるだけやってみた。満点が出た。どうやらプロとしての面目を保てた。近くの珈琲店で”たとえ九点取れたとしても一点差が実は大きな差”と言い胸を張ってコーヒーを飲みほした。プロのカメラマンはまず第一にミスをする権利がないということである。最低限度の技術はもちろんのこと、責任のもてる写真を撮らねばならない。プロになってから私の技術が進歩したとは思えぬが何かが変わってきていると思っている。棋士を考えてみた場合、アマチュアと大きな差がある。その差は勝負に対する鍛えといっても過言でない。アマチュアは何らかの仕事に携わっている。ほかの時間に将棋を楽しんでいるのが一般的である。一方、プロは奨励会を経てきている。この奨励会が勝負を教えていると思う。もちろんこの間に将棋の技術的なオブジェを積み重ねて強くなっているのであろうが、多くはここで勝負を学んでいる。例えば月二回しかない対局をじいーっと待ち、このチャンスに飛びつく、そして勝負。

逆転か

 5七歩でいよいよ中村さんの反撃、加藤一二三九段のようにベルトに手をかけセキをするが風邪でやっているのでなんだか迫力がない。両者残り時間三十分。4三金にはビックリした。田中さんの飛車にどうぞ成れるものなら成りなさいという手。私はこういう手を考えつくのが不思議でならない。このあたりから中村さん、なんとなく駒に元気が出てきて、やぐら中飛車の飛車が張り出した。端っこの角も働いている。それでも素人目には中村さんの王様の方が薄いから中村さんが負けるかなと思っていた。少し前まで田中さんが相手の顔を手があくと睨んでいたのをやめたのが気にはなっているのだが……。

 最後は龍を銀でとると、8五桂、9八玉、8八金打、同金、同歩成、同玉、8七金打で1三の角が睨んでいて逃げられない。中村さんの8五銀出が格好よくきまった。

本局を観戦して

 この将棋を顧みると、序盤中村さんの作戦負である。Aクラスとの将棋であれば、ポイントをそのまま持って行かれ、押し切られ負けであろう。ものの二十数手で不利になるのは勉強不足もあるのではないか……。田中さんは序盤巧みに指していたにもかかわらず楽観からくる疑問手であらた勝負をふいにしている。勝負に対する甘さ以外のなにものでもない。将棋に勝ったが勝負に負けたわけだ。将棋に美は必要だが、勝負に美は必要ない、形振りかまわず勝ってこそ美しい。負けたけどいい将棋だ、などとは達観した棋士の言。若手のトーナメントプロが負けたけど美しかったなどはない。以上アマチュアの戯言と聞き流してほしい。最後に局後丁寧に教えてくれた両先生に感謝し、ペンをおきます。

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写真家・弦巻勝さんが若かった頃の観戦記。

辛口だけれども棋士に対する愛情がこもっている。

「将棋に美は必要だが、勝負に美は必要ない」

格好いい言葉だ。