「随筆」カテゴリーアーカイブ

板谷進八段(当時)「プロはな~あ…やり手ババアみたいな手を指すから、勝つの大変だろ」

将棋世界2004年6月号、写真家の弦巻勝さんの「あの日、あの時、あの棋士と」より。

  最近、わが家に送られてきた本を見て考えてしまいました。「米長邦雄の本」将棋連盟編、「将棋、ヨーロッパを行く」田邊忠幸著、いずれも僕が表紙の写真を撮影しています。

 米長さんの此の顔写真もずいぶん前に撮影した記憶、ヨーロッパを行くの方は田邊さん、将棋世界の編集長大崎さん、そして、まだ20歳になったばかりの高橋和ちゃんと僕、将棋の旅の話なんです。

 和ちゃんの写真は田邊さんに電話して聞いたら8年前と言う。でいろいろ話をしているうちに、ふと思ったのが芹沢先生と板谷先生の事。

「田邊さん…芹沢さんとさ、板谷さんは、いくつで亡くなったんだっけ…」

 芹沢さんが51歳で板谷さんにいたっては47歳と言う。あれ、今の僕よりだいぶ若かったんだな~あ、僕はなんだか変な気分になってきて、「忠幸さん…早く和ちゃんの本の出版記念で集まろうよ…大崎、和、ヒジトン、は大丈夫だが俺とあんさん危ないで~え」会える時にさ、会っておこうよ。

 僕はプロ棋士の先生に将棋を教えていただく時は二枚落ちと決めている。板谷先生には100局やそこらでは、きかないほど指してもらった。

「弦巻君…プロはな~あ…やり手ババアみたいな手を指すから、勝つの大変だろ」

「なんだぁ、そんな手しか浮かばんのか…知恵が無いと言うのは気の毒な事だねぇ~…人間、外から見たんじゃあ、頭の中まで解らんからな~あ」

「なんだそれ、紅葉のような可愛い手指すねぇ」

「センセ、もう将棋ヤダ、風呂行こうよ」

 芹沢先生とは口喧嘩もしたけれど、ずいぶん酒席に誘われたです。酒席で、

「君…タコの足は何本だか知っているかい…」

「8本くらいですかねえ…」

「あれは君…足だか手だか解らんだろう…」

「…」

「そういう時はな~あ、タコの頭を、思いっきりひっぱたくんだ」

「で、痛て~えって上げたほうが手なんだ、足上げる奴は居ね~えだろ」

 あのころ大先輩と思っていた先生方より歳が多くなっている自分を感じました。

 本日NHKで小学生名人戦の撮影なんです。そういえば、この小学生名人戦に羽生さんと森内さんが決勝に出てきて撮影したのが、ついこの前だったんじゃあないかな~あ…写真って歳取らないからホント不思議。

板谷進八段(当時)。同じページに掲載されている弦巻さん撮影の写真のうちの一枚の一部。

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アマチュアへの懇切丁寧かつ親切な指導で定評のあった板谷進八段(当時)の、弦巻勝さんへのサディスティックな指導。

このギャップが楽しい。

写真の板谷進八段の優しい笑顔。

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「紅葉のような可愛い手指すねぇ」は、私の記憶が確かなら、升田幸三実力制第四代名人の「紅葉のような手で可愛い手を指しよる」が原典になっていると思う。

どちらにしても、子供のような手、ということを意味している。

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タコの腕は6本、脚が2本であると、2008年に欧州の研究チームが発表しているようだ。

タコの「足」のうち6本は腕、2本が脚=研究(ロイター)

芹沢博文九段の、「タコには手もある」という発想は、計測方法は別としても、当時としては非常に先進的だったことになる。

 

 

 

升田幸三実力制第四代名人「君は大山の手の者か」

将棋世界2004年4月号、写真家の弦巻勝さんの「あの日、あの時、あの棋士と」より。

 昭和50年代東京駅の丸の内側から八重洲側に抜ける通路はトンネルみたいになっていました。

 そこを升田先生が着物を着て扇子をぱちぱち鳴らしながら歩くと、モーゼの映画みたいに人込みが割れて、不思議なもんだな~あ、と思いながら先生の後を付いて行きました。

 先生が乗る新幹線の時間まで2時間ほどあります。先生、酒を呑もうと言う。寿司屋に入りました。

 僕は、カウンターに座ってくれると良いな~あの気分でした。先生テーブル席に座る。

 1対1の差し向かい、しかも2時間…ビールとつまみだったように思う。最初は先生職務質問みたいな事で、「君は大山の手の者か…」「僕は単なるカメラマンです」みたいな事で話は済んでいました。

 そのうち連盟の大物は誰か、このテーマがきつくて僕も、どう答えたものか…まだ若かったし生意気だから大物はいないと答えたように思います。

 するといきなり怒り出して先生の口からご飯粒が沢山飛び出して、「それは君、此の俺を入れての事か…」言葉の数だけご飯粒が僕にかかった。で、先生、話す事忘れたのか、僕の服にかかったご飯粒を手で払ってくれた。

 そこからは実に平和な時間で、自由に写真撮りなさい。何かあったら言いなさい。さかんに今まで出ていたほおずき頭とかいう言葉は出なくなっていました。けっこうフラフラの先生を僕はホームまでお見送りしました。奥様もそのころにはホームでお会いできて、ご夫婦での旅だと初めて知りました。

 僕は電車が走り去るまで大物から目を離しませんでした。その後何度となく升田先生を撮影させていただきました。

 今回の写真はご自宅での撮影。ご家族での記念写真なども撮影してお送りしたせいなどもあるのでしょうが、いつでも、とても協力的な先生でした。先生のイメージははじめおっかない感じでしたが、今現在僕の升田先生観は少し違います。今僕は升田先生の笑顔の写真の方が好きになっています。

同じページに掲載されている弦巻さん撮影の写真のうちの一枚の一部。

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升田幸三実力制第四代名人、どう見ても只者には見えないわけで、モーセが歩き海が割れるがごとく、人込みが割れるのは当然といえば当然だろう。

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「ほおずき頭」とは、大山康晴十五世名人の頭のこと。

うまいことを言うものだ。

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「君は大山の手の者か」は引退後の升田実力制第四代名人が好んで使った言葉のようで、元・近代将棋編集長の中野隆義さんからも次のような体験談をこのブログのコメント欄に寄せられている。

ほんとうに升田流のお言葉は、どきっとさせられるものばかりでありまして、私めが将棋連盟に勤めているときに棋譜解説を受けに参りましたときには、「初めまして。日本将棋連盟から参りました出版部の○○です」と挨拶しましたら「ほう。将棋連盟から来たいうことは、大山の手の者だな」とやられまして思わずひえーっと縮み上がったものでした。当時は大山十五世名人が将棋連盟の会長で、その大山流と升田流とは犬猿の仲とされていましたから。それでなくとも升田流はおっかない先生というイメージがあったもので、その先生からお前は敵将の手の者だなと言われてはほとんど気絶に近い状態になるのも仕方ないところでありました。 フリーズしている私めに、こりゃ薬が効きすぎたと思われたのか、升田流は飼っている犬が私めに近寄ってクンクンやっているのを見て、「動物は相手が敵か味方か分かるものだ。どうやら君は敵ではなさそうだな」と助け舟を出してくれるのでした。 そのとき、あれっ、ほんとは優しい人なんだ。と思ったのです。

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今年の5月に亡くなられた中野隆義さん。

中野さんからはこのブログに数々の有り難いコメントをいただいている。

そして、その中には棋士の様々な貴重なエピソードも含まれている。

独立した記事としたものもあるが、12月になったら、中野さんが書かれた棋士のエピソードを全て抽出して、まとめてみたいと思っている。

 

 

なかなか自分の家に帰らない森雞二九段

将棋世界2004年7月号、写真家の弦巻勝さんの「あの日、あの時、あの棋士と」より。

 森さんは僕に会うと、自分の家に、なかなか帰らない。お酒を呑むと僕達は麻雀をしたくなる。

 で、だれかに電話して適当な雀荘で、これまた呑みながら麻雀をします。初めにお酒を呑むのが、例えば夕方だとすると次の日の朝方に麻雀が終われれば、比較的普通ですがたいていは、そうはならない。

 夕方に呑み始めて次の日の夕方、酒と麻雀が終わります。で、こんどは、改めて打ち上げの酒席、これがまた、なぜか2人なのに夜中になってしまう。

 で「そろそろ帰れば……」と言います。たいてい森さんは「帰らないよっ」と言います。

 仕方がないから僕はわが家に電話して、ま、しないときも有るけれど、2人でピンポンと鳴らします。森さんはわが家の奥様に、しっかりと自分の考えを伝えます。まずエビスビールが必要な事、朝のみそ汁はアサリかシジミで有ることなど、布団が羽布団が良いなどとは言わない。酔っ払っているから、そこまでは考えていないです。

 たまに気が付くのは「あ、そうそう、納豆と海苔が有るとなおさら良いね」なんて言います。

 僕も、その辺は同じ考えですから、何も言いません。

 僕たちはたくさん話をしていますが、ほとんどが内容の無いことで覚えている事は有りません。でも、呑んで居るときは熱が入っていますから、お互い口から泡を飛ばしながら、また朝まで語ります。雀荘では穴蔵みたいな所でやっていますから、朝だか夜だか解らなくなりますが、わが家は朝陽が当たるから、しっかりと納豆ご飯をエビスを呑みながら食べます。

 で、また「そろそろ帰れば……」「もう少し呑んでから、弦巻さん……ボート行こう」森さんは帰らないよ、とは言わない。

 僕はボートに行けば大金持ちになるような気がするので、ふらふら付いて行く事も有ります。最終レースまで僕たちは半分居眠りをしながらやるので当たりません。で阿佐ヶ谷あたりの居酒屋で反省会をやります。「なんか、負けたね」「うん、だめだったね」「呑みすぎたね」「こんなことしてるとさ、ダメになるよね……」「うん」「酒も麻雀も止めて、僕たちしっかりしないとダメだよね」「うん」

「あ、弦巻さん……来月沖縄行こうよ、沖縄でさ、青い海の中お魚さん見て、いいよ~お」「夜はさ、泡盛の古酒呑もうよ」「ま、とりあえずお互い元気出して乾杯しようよ」

 そうだね。森さんとお酒を呑むと死にそうになることもありますが、最後はいつも元気になります。

 

同じページに掲載されている弦巻さん撮影の写真のうちの一枚の一部。

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納豆ご飯を食べながらのビールが美味しいのかどうか、あるいはビールを飲みながらの納豆ご飯が美味しいのかどうか、これは想像がつかない。

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「なんか、負けたね」「うん、だめだったね」「呑みすぎたね」「こんなことしてるとさ、ダメになるよね……」「うん」「酒も麻雀も止めて、僕たちしっかりしないとダメだよね」「うん」

森雞二九段と弦巻勝さんの会話があまりにも絶妙だ。

 

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原田泰夫九段と塚田正夫名誉十段が飲んでいて、そのまま原田邸に行って飲み続け、なかなか帰りたがらなかった塚田名誉十段の事例もある。

他の業界でも立派にやっていけそうに見える棋士とそうではない棋士

弦巻さんの家も原田九段の家も、JRで言えば最寄り駅は阿佐ヶ谷。

阿佐ヶ谷には帰りたくなくなるような魔力が潜んでいるのだろうか。

 

 

米長邦雄八段(当時)「血液型を調べてもらったら、なんとAB型といわれた。昨日までB型だった」

近代将棋1974年7月号、米長邦雄八段(当時)の「さわやか随筆」より。

 いい陽気になったものだ。

 5月というのは、一年中で一番良い月だと思う。

 息詰まる年度末の順位戦を終え、解放されるのも手伝っているのかもしれない。

 最近は調子絶好。伊東へ10日ほど行ってから、2キロほど増えた。

 対局がないというのは楽なものだ。

 平穏無事な数日を送っていると、天下泰平には、それにふさわしい出来事というものがあるようだ。

 ある朝のこと。9時に電話で起こされる。

 重大な用件か、偉い人からの電話だな、と思った。

 これは芹沢先輩から教わったのだが、我が家では、「天皇陛下だぞ」と、言って寝ることがある。

 これは、天皇陛下以外の電話は取り次ぐなという意味である。

 しかるに、電話で起こされた。

 出てみると、「M警察署ですが―」と来た。一瞬ハッとする。

 夢というのは、1、2秒で、ほとんどの筋書きが出来上がるほど、早いものだそうだが、ここ半年の行動を、サァーッと思い浮かべたのには、後で気がついて驚いた。

 話を聞いてみると、北海道から出て来た少年を保護しているという。

 家元も連絡がつかず、東京に身元引受人もいないとのこと。

 ただ、米長先生だけは、良く知っているということですが………という切り出し方である。

 先方は知っていても、私の方は全然知らないという例はたくさんある。

 迷惑な話とは思ったが、将棋ファンの中にはいろんな人がいるものだ。人の好さも手伝って、行くことにした。

 一人で行こうかと思ったが、意外にさばきが難しくなるかもしれないと思った。

 こういう局面には、うってつけの男がいるのを思い出した。

 さっそく芹沢さんに電話をして、一緒に行ってもらった。

 警察署の中で、本人に会ってみると、寝てないせいなのか、ちょっと変わってる感じがした。目がすわっている。

 将棋はどのくらい指すのか聞いてみたが、他の話し同様、釈然としない。

 本誌は毎月読んでいるとのことだ。

 プロ棋士になりたいという訳でもないらしい。どうも真意がつかめないのである。

 身柄を引き受ける訳にもゆかず、本人には家へ帰ってもらうよう説得して、署を出た。

 後日、連盟で人に聞いたら、いろんな棋士の所へ、大勢来ているようだった。

 将棋が盛んになってきた証拠かもしれない。テレビタレントになりたいとか、歌手になりたいと言って家出してくるのと同じだ。

 こっちには迷惑だが、一年に何人かは、そうなくてはならぬ、と妙な説を打ち出したりし始める。

 警察署を出たものの、朝一番の電話がこれでは、一日仕事にならない。

 この日は厄日としてもらったが、芹沢さんは忙しかったようで、ひとつ借りができた。

 夜、中野で、南川さんに会う。アマ強豪数人に囲まれ、われわれ二人、酒を飲んでいるうちに愉快になった。

 南川アマ名人の功績通り、遅ればせながら六段の免状が出ることになったのを聞く。

 凶変じて吉となる。

 6月9日が、その祝いの会だそうだ。

 当日は中野道場へ行くのを約束して帰宅。

 翌日、鷺宮駅まで、ブラブラ散歩していると、赤十字の大型車が駐車している。

 看護婦さんが何人かいて、呼びかけをしていた。

 どうやら献血運動らしい。

 私は一度も協力をしたことがなかったのだが、どういう訳か、足がそっちの方へ行ってしまった。

 血圧やら、肝臓障害やら、簡単に調べて、血を取られることになった。

 一人だけと思うが、いやに威張っている医師がいた。

 一応こちらは協力者である。

 将棋の先生がファンに接するような態度がとれないものかと思った。

 血液型を調べてもらったら、なんとAB型といわれた。私がB型のところへ○印をつけたので、一枚書き直さなくてはならないのが件の先生の機嫌を損ねたものらしい。

「昨日までB型だったのですがネ」

 私はB型と思っていただけに信じられない気がした。

 採血の際、もう一度、今度は優しい看護婦さんに調べてもらったが、やはりAB型だった。

 200CC抜き取られた。

 それでいてフラッとする訳でもなく、タイトル戦の疲れがドッと出た順位戦終了の頃の憔悴しきった体のことを考えると、夢のような気がする。

 バッジを一ついただいた。

 確かにB型と思っていたのだが、別に大差あるまい。妙な気分で家に帰った。

 西村君が結婚した。

 5月17日のことである。

 前日、一年一度の棋士総会があり、それが翌17日の午前3時51分まで続いたのだから驚く。

 結婚式に列席の棋士の大半は、ほとんど寝ていないはずだ。私が司会を務めさせてもらった。

 西村君だけは、先の見える男で、総会には出席していない。

 加藤治郎会長の祝辞に「今夜は西村君が徹夜の番です」とある。今ごろハワイで、どうしているやら。先ずはおめでとう。

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1990年代までだったと思うが、将棋世界、将棋マガジン、近代将棋の新年号には棋士の住所が掲載されていた。

今から考えると信じられないような時代だったわけだが、そのことと家出人が頼ってくることに相関性があるのかどうかは分からない。

どちらにしても、この時のケースは自宅に直接訪ねてくるパターンではなく、警察署が最初から間に入っていたことが、不幸中の幸いだったと言えるだろう。

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警察白書によると、1974年の家出少年少女の発見保護件数は46,822件。

2015年は16,035件。

少年少女に分類される年齢層の人口の減少はあるものの、減ってることは確かだろう。

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血液型について、米長邦雄永世棋聖は、将棋世界1983年11月号で次のように書いている。

 将棋J誌11月号に棋士の血液型の話が載っていた。なかなかおもしろいエピソードも語られていたが、私の血液型に関しては間違っている。

 文中ではB型となっていたが、これは20代の話。22歳の時に盲腸の手術をした折は確かにB型であった。しかるに30になって献血運動に協力した処、あなたはAB型ですと言われ、何度確かめてもその通りである。

 小生愚考するに、Aクラスに昇級したから血液型も変わったのだろうか。いずれかの時にはB型に戻るのかもしれない。

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自分が思っていた血液型と実は違う血液型だった、という例は、棋士では、米長邦雄永世棋聖のほかに林葉直子さんがいる。

林葉さんは自分の血液型がA型だと思っていたのが、検査をしたらB型だったと知る。

親友の中井広恵女流名人・女流王位(当時)は、将棋世界1992年8月号で林葉さんについて次のように書いている。

 それに最近の彼女はメチャ明るくなった。男の人が苦手だった筈が、今では自分から積極的に話しかけている。本人は

 ―A型だと思ってたら、B型だったので、性格も変わったのョ!―

と言っているが、充実した生活を送っているからだろう。

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米長邦雄永世棋聖も、本当の血液型を知って、何らか性格が変わった部分があるのではないかと思う。

外から見ていると「さわやか」に「泥沼」の要素がどんどん加わっていったように感じられる。

かと言って、AB型は泥沼成分が強いかというと、AB型の棋士は、羽生善治棋聖、勝浦修九段、森下卓九段、木村一基九段、稲葉陽八段、芹沢博文九段、村山聖九段、などで、泥沼とは正反対の雰囲気。

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西村一義七段(当時)の結婚式の模様は次の記事に詳しい。

棋士版「結婚披露宴スピーチの急所」(昭和編)

 

 

オールナイトニッポンでパーソナリティを務めた棋士

近代将棋1977年1月号、芹沢博文八段(当時)の「のむ打つ書く」より。

 石田七段と王位戦でぶつかりました。七段と八段ですから普通なら何局か指しているものですが彼とは初対局なんです。

 久し振りに”将棋”を指してみようと思ってはいたんですが”感”が鈍っていてまるで将棋になりません。4時にはもう地下の「歩」で能智記者と一杯やっているようではどうしようもありません。

 新聞に掲載する予定でしたが余りにひどいんで拝み倒してナシにしてもらいました。

 石田君はご機嫌で人の酒をガバガバ飲み、”王将コース”という最高の料理をバクバク喰っています。時々、思い出したように「先生5筋にいった辺りではどうなんでしょうか」判っているくせに聞いているんです。「うるさい!あんまり筋が悪いんで頭が変になったよ」「5筋にいった辺りでは……」じゃれているんです。ご機嫌なんですねえ、今度ぶつかったらひどい目に会わすぞ、なんてことを云いながらも琥珀色はスイスイと喉を通ります。真部五段が現れ、伊藤果四段が現れ席は一段と賑やかになっていきます。

 伊藤君は今日ニッポン放送で午前3時から5時まで”伊藤ハテナのオールナイトニッポン”でディスクジョッキーを受け持っているんです。2時間の生放送で、流石の彼も幾らか気後れしたか一緒に出てくれと哀願されれば否と云う私ではありません。

 しかし問題は3時までどう酔っ払わずに酒を飲むかです。スタジオに行くのは2時半ですから何たって時間があります。私が「一度家に帰って2時まで寝てそれから出掛けようか」てなことを云うと真部君が「先生、それは筋が悪い、飲むべきですよ、ずっと一緒に飲みましょうよ」悪魔の囁きです。能智、石田両君とは別れて3人で新宿のバーに着いたのは8時頃、バカ話をしながらチビチビ本当にチビチビやっていると年配のお客さんに真部君が話しかけられ適当に挨拶しているんですがしつこいんです。私が助け舟を出して「お客さん、我々3人で勝手にやらして下さい」しばらくは水割りなど飲んでいる風でしたが又々「オイ真部!」すっかり不愉快になった真部君が返事をするわけがありません。尚もその人は「オイ真部、テレビに出たりして少し位有名になったからってのぼせるんじゃねえぞ」完全にからみ酒ですね、もうこれは相手にしても話しても仕様がないと判断して私は2人をうながして店を出ました。

 60がらみの年配の方だから逃げる一手です。テレビに出てのぼせる云々は全くひどい云い方で情けのかけらもありません。同年輩なら腕に覚えがあり気性の激しい真部君のことだからひと騒動あったでしょう。

 次の店であんな時にはああするより仕様がないだろう、なんたって年上の人だからねなどと、さばきの具合を検討する辺りは将棋指しが如何に研究熱心かと云うことです。

 少し飲んで前の店に荷物などを置きっ放しだったのでそおっとドアを開けて覗けば”絡み男”は居りません。

 12時頃になると真部君は矢張り何か引っかかるものがあるのでしょうか帰りました。

 すると入れ違いに本誌の森編集長が酔っ払って現れ「原稿原稿」と催促するんです。

 我々を探し廻っていたようで大分酔っているのに原稿原稿と催促する辺りは編集長の鑑と云うべきでしょうか、編執狂と云うべきでしょうか。とに角うるさく最後の原稿だとか、〆切はとうに過ぎているとか、原稿もらわないと社に帰れないなんて下らないことをグドグド云って可笑な男ですね、「わかった、19日に6枚出す」と云うと今度は、「19日6枚、19日6枚」と呪文のように唱えているところは矢張り編執狂かも知れません。

 1時にこの店を出て伊藤君の知っているバーに行き2時まで飲み、雨が少し降っていたので原稿の代わりにカサを編執狂に渡して、連れて行ってくれと云うのを冷たく「ダメ」と2人は一路ニッポン放送へ。

 打ち合わせを少しして用意してあった酒を飲みながら3時を待って本番です。

 やるもんですねえ、声に張りがあって受け応えCMを出す具合など初めてだとは思えません。初めに彼は「あの今日は一つお願いがあるんですが芹沢さんて話かけていいですか」勿論同門だからそう呼ぶのが正しいんで否やはありません。それでも長い間のクセと云うのは抜けないものらしく少し経てば「先生」なんて話しかけたりしています。

 女の話を少しした時、何処かから女の声で「もしもし聞いてますよ」余り物に驚かぬ私もこれにはびっくりしました。「えっ?お前聞いていたのか?」「ハイ」電話で放送に参加です。とりあえず今までどんなことを喋ったかをざっと思い出し、大して女のことは云ってないと気がつけばそれでも少しはあわてていたんでしょうね「愛してるよ」なんて馬鹿なことを下宿のオバサンに口走ってしまいました。これは大いなる失敗です。

 伊藤君はそんな私を見てゲラゲラ笑っている。「おゆき」「王将」などをかけて将棋界のことを少し喋ればもう5時です。

 スタッフと残りの酒を少し飲み、6時のひかりに乗り込めば京都辺りまで一気の眠りです。

 9時半にホテルに着いてビールを1本飲むともう起きていられず早々にベッドインです。

 「日曜天国」のビデオを撮り終えたのが6時頃で伊藤君とシナリオライターの阿部哲郎さんが一杯やっている席に行って、阿部さんと話している内は何でもなかったんですが、テレビのスタッフが現れたので「今日の番組は一体何を云わんとしているんだ、俺は面白くないぞ……」乱暴な編集会議が開かれました。

 酔ってはいても前から考えていたことなので間違ったことを云った憶えはなく、店を変えて4時まで会議は続くのでした。これが2日間でやったことです。

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1970年代半ば、昭和50年代が始まった頃、昭和の良いところが凝縮されたような時代だ。

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「歩」は将棋会館の地下にあった和風レストラン。

夜は酒も飲める棋士にとっての社員食堂といった趣もあり、誰でも入ることができた。

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石田和雄七段(当時)がやはり面白い。

古今、将棋の筋の良い棋士の代表格といえば芹沢博文九段と石田和雄九段だが、その芹沢八段(当時)が石田七段に「あんまり筋が悪いんで頭が変になったよ」と言ってるのだから可笑しい。

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真部一男五段(当時)は超美男子棋士。1976年のフジテレビ系ドラマ『銭形平次』で天野宗歩役で出演している。

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ここに出てくる新宿のバーは、芹沢九段が亡くなるまで愛した酒場「あり」ではない。

「あり」は、はじめは新宿ゴールデン街にあったが芹沢九段が初めて「あり」に行ったのは新宿2丁目に移ってから。

田中小実昌さんが1979年に直木賞受章の報せを受けたのがゴールデン街時代の「あり」なので、1976年のこの当時は「あり」は新宿2丁目にはない。

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伊藤果四段(当時)のオールナイトニッポン2部がこの時だけのゲストパーソナリティだったのか何回か続けられたのかはわからないが、凄い快挙だと思う。

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『日曜天国』は、1976年10月から1977年3月までテレビ朝日系で放送されていた朝日放送制作のワイドショー。放送時間は毎週日曜の10:30 ~11:30。

司会を芹沢博文八段(当時)が務め、伊藤果四段(当時)も出演していた。

プロの眼力

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内藤國雄九段が『おゆき』で歌手デビューしたのが1976年5月なので、棋士が将棋以外のことで4媒体(新聞・雑誌・ラジオ・テレビ)に登場するようになりはじめたのが1976年といえる。