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原田泰夫九段の話を生で聞いているような気分になれる随筆

将棋世界1982年10月号、原田泰夫八段(当時)の「観戦記の周辺 独自の将棋談を書く」より。

気分の転換、調整

 対局前には対局気分を整える、勝ちたい、好局を作りたい、新手を指したい、あと味のいい対局でありたいと思う。指導対局の場合は、平手でも駒落ちでもなんでもいらっしゃい、作戦-中盤-寄せ合いで何か参考手順を局後に解説してあげよう、心得を一つ二つ伝授したい、盤上の技術を味わいながら人間の交流を深めたい。

 プロ棋戦は勇退したが、審判指導のお招き、特に講演旅行が前より多い。対局の心構えと同じように、何か仕事をする場合、方針を立てる、準備をする、その気分になりたい。いやな気分で仕事をしてもろくなことはできない。

 文を書く場合も、その気分にならなければ話にならない。封筒の宛名を書き写す作業ではない。へたはへたなり、へぼはへぼなりに工夫をし創作してまとめなければならない。人の長所を学ぶことは結構だが、人真似が過ぎては問題外である。

 棋は人なり、文も人なり、万法は一心に帰す。観戦記執筆も全く右に同じである。

 執筆前に時間があれば各紙の将棋欄を比較しながら眺める。机に向かう気分にならない場合は各誌に眼を通す。映画を観る。入浴する。赤ちょうちん、縄のれんの”研修会”で一時間、二時間、社会学、人間学の勉強をする。職業、年齢、立場が違う善人の集まり、酒道に心得のあるポン友との懇談は、まさに人生の至福である。気分転換は楽しい。

 数え歳で六十、棋界入りして満四十五年、将棋に関するお話は尽きることはない。何を省き何を入れるかが問題である。

 一局の手数が六十手でも百手でも二百手でも大した問題ではない。三十手の短手数でも書く材料が多く特別困ることはない。

 よし、書こうと決意する。一局を八譜か、十譜か、十二譜かをたしかめながら、まず図面、指し手、一日ごとの指し手時間、消費時間を用紙に記入する。毎月一局、サンケイ棋聖戦創設以来観戦記を執筆させていただき満二十年、サンケイ社の観戦記用紙はよくできている。

 用意はできた。本局は何を重点に書くかを決定する。ご指導いただいた各界の先生、ご感想を仰ぐポン友の顔と言葉が現れる。

一流人に学ぶ

 去る七月二十四日、渋谷東急文化会館7階「とん平の会」に出席した。原田のほかに高柳八段、青野七段もパーティーに参加、各界約百名ほどの方々と歓談した。

 加藤治郎先生がご案内のおでん屋「とん平」で、どれほど人生、社会の雑学を学んだことか。パーティーで頂戴した「しぶや酔虎伝」の紹介文を書き写す。

 渋谷とん平35年の歩み「戦塵おさまらぬ昭和21年、渋谷川のほとりに灯った”とん平”の提灯を慕って、数多くの映画、演劇人、作家、学者、ジャーナリスト、棋士、医者、宮さままでここに集い、夜を徹して杯を重ねたなつかしい35年の歳月。”とん平”と共に生きた心優しき人々の青春と友情―それを支えたママ、キヨちゃん一家の善意をこの一巻にこめる」加藤先生と原田の随筆もある。

 幸運にも26歳で八段、新鋭と言われた青年時代、人生の大学院の如き”とん平”で観戦記のコツを学んだ。その場の講師はフランス文学の辰野隆、詩人の大木惇夫、劇作家の三村伸太郎、八木隆一郎先生たちが、青年原田に特訓のお言葉。

「将棋の観戦記は一局を十日間なら、十日間の独特の読みもので、しかも毎日が面白いこと。一日に一手か、一ヵ所、教師の役割で善悪を示すこと。知能、精神の勝負だから、白熱の臨場感を出すように。将棋を知らない人が喜んで読む欄にすること」

 いちいちごもっとも。第40期名人戦七番勝負、中原名人対加藤十段の十局目「名人決定の一番」毎日新聞社の観戦記を担当、”とん平”の特訓を想い出しながら書いた。どうであったか、不評判なら申し訳ない。

 約二十年前か、二上ファンの剣豪作家故五味康祐さんの痛烈な言葉がきこえる。

「近頃の観戦記は、どこの社のものも、もう一つ迫力不足です。私が書けば盤上に血の雨を降らせますよ」と豪語した。

 朝日新聞社で名人戦をお世話の時代、大岡昇平、五味康祐、木村十四世、原田、名人戦座談会の席であった。右の一言で五味さんが一局を担当した。その道の名人は文がうまいのは当然だが、盤上に血の雨が降ったか、どうかは分からない。

 青年時代、富士見高原に療養「白樺の君」の愛称の加藤博二八段は「署名がなくても”原田ぶし”はすぐ分かります。人真似でなくて独特でいいじゃないですか」と激励、友の言はありがたい。

せめて〆切前に

 将棋ファンは原田に五枚落、六枚落の層が多い、7六歩、3四歩の変化を詳細に解説しても読まない。分からない、読まないものを新聞に書いても無意味だ。急所、勝因、敗因だけ短く書く執筆作戦は誤りか。

 原田流の書き方は、対局者について。その場の雰囲気について。棋界の近況。将棋談あれこれ。形勢判断と次の一手。将棋をご存知ない方も読めるように。何百万人の読者は好みが違うので何を希望されているのかは分からない。

 書くからには本を読む。新しい、面白い表現の発見、すべて平素の勉強である。凡才、拙文、各社の編集者にご迷惑をかけないように、せめて〆切り前に原稿をお渡しするよう心がけている。

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2002年までの将棋ペンクラブ交流会では、名誉会長であった原田泰夫九段のあいさつが名物だった。

朝10時に始まる交流会、10時30分頃から原田名誉会長からのあいさつがあった。

新潟のイタリア軒で見た関根金次郎名人の和服姿に憧れ棋士を目指した話、加藤治郎門下内弟子時代の時代、木村義雄名人と一緒に行った満州慰問は出だしとして定番。その後、将棋界の話題、世相、諸々の事柄へと話が展開される。

原田九段の話は面白く、あっという間に30分は経ってしまう。

その間、交流会の参加者は対局の手を止めて話に聴き入っている。皆、原田九段の話を聴くのを楽しみにしていたし、原田九段のことが好きだった。

話が40分くらいのところで統括幹事の湯川博士さんが「原田先生、そろそろお時間が…」と止めるのも定番の流れだった。

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この随筆も、文語体を少しだけ口語体に変えれば、原田九段の話の雰囲気そのもの、原田節だ。

渋谷「とん平」の話の辺りで「原田の話は桂馬のようにあっちへ飛んだりこっちへ飛んだり」と原田九段なら話しているだろうなと、文章を読みながら思った。

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「将棋の観戦記は一局を十日間なら、十日間の独特の読みもので、しかも毎日が面白いこと。一日に一手か、一ヵ所、教師の役割で善悪を示すこと。知能、精神の勝負だから、白熱の臨場感を出すように。将棋を知らない人が喜んで読む欄にすること」

は、新聞観戦記の理想形であるし、一つの指針でもあると思う。

 

 

藤井猛竜王(当時)「はい。終わってから電話したら”(見ていて)心臓が破れるかと思った”と言っていました」

将棋世界2001年3月号、山田史生さんの巻頭随筆「心臓が破れそう」より。

 20世紀最後の大勝負、藤井竜王対羽生五冠の竜王戦七番勝負。この観戦記を書くために第1局(上海)、第6局(山形県天童市)、第7局(神奈川県秦野市)を現地で見た。フリーライターの身で三局も観戦できたとは幸いなことであった。

 将棋対局の紹介方法といえば、これまでは新聞、雑誌に書かれる観戦記がほとんど唯一のものであったが、このところ観戦スタイルも様変わりしてきている。

一部の棋戦だけながら、NHKテレビ(BS)ではかなり長時間、対局を生中継しているし、今回の竜王戦ではインターネットによる速報もなされた。一手一手、即座に指し手が分かり、簡単な解説も付けられる。第7局では述べ12万人ものアクセスがあった。自分の意見や希望を書きこむこともでき、その参加者は1,300人いたそうである。

(中略)

 第7局終了の翌日、自宅が同方面の藤井竜王と車に同乗した。「奥さんはずっとBSで見てたんでしょう」と聞くと「はい。終わってから電話したら”(見ていて)心臓が破れるかと思った”と言っていました」と話してくれた。

 第7局の終盤、私はずっと対局室の中にいた。控え室のプロの意見は聞いていないので、二人の顔つき、態度からしか形勢判断ができない。羽生は低い姿勢で鋭く目を光らせているのに対し、藤井は「ふぃー」「はー」とあえぐような息をしながら苦慮している。私はてっきり逆転して羽生が優勢になったのではないかと思って見ていた。

 中立の立場の私でさえ胸がドキドキするような際どい終盤。まして妻であれば、あえぎながら懸命に最大の強敵に立ち向かっている夫の姿を見ていると”心臓が破れそう”というのは真実の気持ちだろう。こぶしを握りしめ、必死の思いでテレビを凝視している、そんな妻の様子を想像するだけで目が潤んでしまうのは、私が年をとったせいだろうか。

 もちろん羽生の家族も同様の思いであったろう。奥さんが見ていたことは間違いなく、ご両親も「毎局必ずBSで見ています」と直接聞いたことがある。

 かつては家で、ただ結果を待っていればいいだけだった勝負師の妻や家族も、今は夫と同じ苦労を共に味わなければならなくなった。大変な時代になったものである。

 しかし、会社でつらい思いをしながら頑張っているサラリーマンは数多いが、それを直接見ることのない家族は、そのつらさをほとんど分かっていない。給料を運んでくる(それさえも振込だが)マシーンぐらいにしか思っていないのではないか。

 仕事ぶりを直接見てもらえ、勝負に勝つ大変さを家族に分かってもらっている藤井や羽生は幸せというべきだろう。

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1990年代前半のこと。

知人(厳密には知人の友人)がNHKで行われていた新人歌謡コンテストに出場したことがあった。

彼女は昭和50年代洋楽のライブハウスのハウスバンドでボーカルを務めてたのだが、ライブハウスが閉まってバントも解散して、一人新たな道へ挑戦しようとしていたのだ。

元・バンドリーダーからは、コンテストの日にNHKホールへ応援に行こうと誘われていたのだが、私はその日は人に言えないような用事があって行くことができない。

当日、用事が意外と早く終わって、家に戻ってきたのが20時頃。

お、まだ間に合うと思い、テレビをつけて間もなく、彼女が歌う番となった。

かなりドキドキしたが、歌い始めると、思っていたよりも素晴らしく、鳥肌が立つほどだった。

一次予選での結果は見事に通過。この時点で「オーッ」と一人でテレビを見ているのに声が出ている。

そして最終予選。やはり彼女が歌っている時には鳥肌。

グランプリはプロの歌手だった。

彼女はアマチュア部門で優勝で、実質的には2位。

ビックリしたし驚いた。私は画面に対して声を出して声援を送っていた。

今すぐお祝いに駆けつけたいと思ったが、携帯電話のない時代・・・

感情が大きく揺れ動く1時間だった。

知人の友人に対してさえこうなのだから、夫や家族なら、もっともっと凄いことになる。

「(見ていて)心臓が破れるかと思った」という藤井猛竜王(当時)の奥様の言葉は、大袈裟でもなんでもなく、むしろ控えめに語られているのではないかと思うほどだ。

 

 

羽生善治名人(当時)「気持ちを高める時間だった。それが結果として9分35秒必要だったということでしょう」

将棋世界2001年6月号、NHKアナウンサーの村上信夫さんのエッセイ「9分35秒の実況中継」より。

 時間にして、9分35秒。その間、対局室には、息をするのも唾を飲むのも憚られるような空気が流れていた。

 平成9年の第55期名人戦は、平成の将棋界を代表する羽生・谷川二人の対戦だった。挑戦者の谷川浩司竜王(当時)は、このシリーズを制すれば永世名人の資格を得る。羽生・谷川のどちらが先に十七世名人を名乗るのか、世間の注目を集めていた。

 谷川竜王が、羽生善治名人(当時)をカド番に追い込んで迎えた第6局。羽生名人には、後がない。群馬県伊香保温泉の対局室には、地元のファンも入って、大一番が開始される瞬間を見守っていた。

 対局開始時刻の午前9時と同時に衛星放送も始まった。立ち会いの五十嵐豊一九段が対局の開始を告げた。

 だが、先手番の羽生名人は、膝の上で手を組み、目を閉じて俯いたまま微動だにしない。1分たっても2分たっても、いっこうに指す気配がない。初手が指されないと、対局室にいるファンの人たちも退出するきっかけがつかめない。取材陣もカメラのシャッターボタンに手をかけたまま、いかんともしがたい。そして、私はひたすら実況するしかない。初手が指されたところで、番組タイトルが出る手筈になっている。それまでは、実況描写して待つしかないのである。用意したコメントに加えて、目に映ることを実況しながら、羽生さんの手の動きから目を離さないようにしていた。

 羽生さんは、5分近くも姿勢を変えず、沈思黙考していた。「自分の気持ちを高ぶらせているのかもしれません」と私はコメントしたが、実際後で羽生さんに聞くと、「気持ちを高める時間だった。それが結果として9分35秒必要だったということでしょう」と、こともなげに答えてくれた。

「5分半たちました。目が開きました。指しません。まだ」と実況している私は、はじめのうちは、早く指してほしいと思っていたが、このままの状態がずっと続くなら、それはそれでいい。ずっと見守りながら、実況を続けようという気持ちに変わっていった。

 9時6分30秒。羽生さんが駒台に手をかけた。一瞬、飛車先を突いたのかと思った。

「まだです。まだ指しません」

 そして羽生さんは、唇を真一文字に結んだ。こめかみに手をやった。少しうなづいた。小さく息をはいて、吸った。

 谷川さんは、左右に視線を配りながら、盤面から目をそらしていた。谷川さんは、やはり「早く指してほしい。早くこの空気を変えたい」と考えていたそうだ。「作戦の決断を確認する時間だったのではないか」と分析している。「それにしてもあの雰囲気の中で初手をあれだけの時間かけて指すような芸当は自分には出来ない」とも言ってる。

 羽生さんが初手を指すまでの間、多くの人が、名人戦独特の空気を味わっていたに違いない。駒が動く前から始まっている戦いに酔いしれていたに違いない。

 ついに羽生さんの指が歩をつまんだ。「さぁ、やっと手が動きました。9時9分35秒。7六歩です!」私の実況も少し声高になった。

 長く長く感じた9分35秒だが、それは至福の時でもあった。ハラハラドキドキワクワクさせられる時間であった。

* * *

 対局室の二人を見ているだけで絵になる。和服の着こなし、正座姿、駒を並べたりかたづけたりするしぐさ…。どれもが日本の様式美を伺わせる。

 対局に没頭すると、テレビカメラが自らを映しているなどという意識はなくなる。髪の毛をかきむしって考える姿、勝利を確信してお茶を飲む姿。勝敗をかけた男たちの姿は、見るものを釘付けにする。

 3月に生中継した『将棋界のいちばん長い日』宛に視聴者から届いた200通あまりのFAXの中に、「将棋のルールは知らないけど、対局姿に引き付けられて見ている」という人が何人かいた。こういう人を大切にしていきたいと思う。将棋を知らない人が見ても面白い将棋放送を心掛けたい。ハラハラドキドキワクワク、みんなで楽しめる将棋の放送を目指したい。

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スポーツで言えば重量挙げ、ハンマー投げ、走り高跳び、走り幅跳び、スキージャンプなどが、自分の中で気持ちを高めてからスタートできる競技。

とはいえ、これらは瞬発力あるいは短時間の中で力を発揮し尽くすための精神集中(神に祈っている場合もあるかもしれないが)であり、将棋で初手を指すまでの「気持ちを高める」とは性質が異なるものなのかもしれない。

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自分を振り返ってみると、果たしてこれまでに「気持ちを高める」ようなことをしたことがあったのだろうかと考えてしまう。

 

いろいろと思い出してみたが、気持ちを落ち着かせたり鎮めたりするようなことはあっても、気持ちを高めた事例がなかなか出てこない。

あるとしたら、カラオケで難しい曲を歌おうとする時に自分の気持ちを高めたことがあるくらい。

かなり冴えない。

 

 

 

「君は強いんだってね。羽生さんがそう言ってましたよ」

将棋世界2001年8月号、山野美容芸術短期大学教授の中原英臣さんのエッセイ「羽生五冠、丸山名人との不思議な御縁」より。

 私は将棋には詳しくないのですが、自分でも不思議だと思うくらい将棋の世界とは御縁があるようです。私は羽生五冠の就位式には殆ど出席しています。皆勤賞は無理としても精勤賞くらいはいただけそうです。

 羽生五冠との御縁についてお話するには、時計の針を1990年まで戻さなくてはなりません。当時『クオーク』という科学雑誌で対談を連載していた私の前に対談相手として颯爽と現れたのが、その前年に19歳で竜王になったばかりの羽生五冠でした。羽生五冠の印象を私は「天才は一つの世界を変える。碁と違い先手後手の差がなかった将棋に、羽生竜王が先手有利の革命を起こしつつある。将棋はゲームだと笑う若き天才の笑顔に日本人に欠けている国際的センスを感じ、心が晴れました」と書いています。

 その後の羽生五冠の活躍は素晴らしいものがあります。就位式の祝辞をお願いされたのに、どうしても都合がつかなくて「今回は無理なので、次の機会にお引き受けさせてください」と申し上げたところ、わずか1ヵ月で「次の機会」がきたこともありました。いまでも時折お話を伺うことがありますが、羽生五冠のすごいところは、いくら強くなりタイトルが増えても、初めてお会いした時の素晴らしい笑顔が少しも変わらないことでしょう。

 もう一つの御縁についてお話するには、時計の針を1992年に合わせなくてはなりません。当時(今でもそうなのですが)、早稲田大学で楽勝科目の聞こえも高い「生活の衛生学」という講義を持っていた私は学生たちから「仏の中原」と呼ばれていました。その楽勝科目の進級試験が来週に迫っていたある日のこと、私は試験のテーマを学生たちに知らせていました。普段は欠席がちの学生たちも、この日ばかりは私の言葉を一言一句といえども聞き逃さないという真剣な様子で講義を受けています。テーマを与えた後に、いつものように「就職試験などでどうしても試験を受けられない学生はレポートを提出すればいいですから、講義が終わったら申し出てください」と言いました。

 講義が終わると、毎回かならず講義に出て一番前の席で真剣にノートを取っていた真面目な学生が「私はレポートにしていただきたいのですが」と申し出てきました。いくら「仏の中原」でも、試験を受けられない理由くらい聞かなくてはなりません。以下は真面目な学生と私の会話です。

「試験に出席できない理由は?」「実は将棋の対局があるんです」「えっ、いくらなんでも将棋部の試合じゃ駄目だよ」「実は、私、プロなんです」「プロって将棋のプロのこと」「そうなんです。来週はプロの対局があるのですが」「そうなの、それならいいでしょう。ところで対局相手は誰なの」「羽生さんです」「えっ、それじゃ君、勝てっこないじゃない」「……」

 これが丸山忠久名人との出会いでした。その日、家に帰ってから羽生五冠に電話をして「私の講義を受けている丸山君という学生が羽生さんと対局するようですね」と言うと、即座に返ってきたのは「丸山さんはとても強いんです」という声でした。後日、レポートを持ってきた丸山名人に「君は強いんだってね。羽生さんがそう言ってましたよ」と言うと「それほどではありません」と照れていた姿がいまも目に浮かびます。この時の羽生五冠の御墨付きは、丸山名人が誕生した瞬間に証明されました。

 レポートは見事なまでに論理的で「仏の中原」でなくても「優」を与えたと思います。いま手元にある丸山名人のレポートには「授業で先生はエイズの治療薬が私達が枯れる頃までできないだろうと予想していたが、何か画期的な新薬ができるのではないかという希望的観測をもっている」と書かれていますが、私の予想は外れて丸山名人の観測が当たりました。名人の読みにはかなわなくて当然かもしれません。

 その他にも森下卓八段とも仲良くさせていただいており、奥様の声楽のリサイタルにもご招待いただいたこともあります。卒業後は一度もお会いしていなかった丸山名人との再開をセットしてくれたのは、顔の広い森下八段でした。時計の針を戻すだけでは能がなさすぎるので、ここで一気に針を10年先に進めてみますと、進化論を研究している私の目には、将棋界を進化させている3人の姿がはっきりと見えます。

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”就位式の祝辞をお願いされたのに、どうしても都合がつかなくて「今回は無理なので、次の機会にお引き受けさせてください」と申し上げたところ、わずか1ヵ月で「次の機会」がきたこともありました” は物凄い迫力。

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私大での進級試験ということは、1月下旬から2月上旬にかけて行われる試験。

そういうことから、「もう一つの御縁についてお話するには、時計の針を1992年に合わせなくてはなりません」の1992年は、1992年1月の中~下旬のことだと思われる。

この頃に行われた羽生-丸山戦はNHK杯戦準決勝で、羽生善治五冠(当時)が勝っている。

丸山忠久九段は四段の時。(この年の3月に順位戦でC級1組への昇級を決め五段に昇段している)

棋士2年目でNHK杯戦準決勝に進み、勝率も7割を超えているのだから、どう見ても凄い四段だ。

羽生五冠が「丸山さんはとても強いんです」と言ったのも、中原英臣さんへの社交辞令抜きの、全くの感じたままの言葉であったことが分かる。

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それにしても、丸山九段は本当に真面目な学生であったことが示されている。

私など、必修科目以外の一般教養科目は最初の授業に出ただけで後はそれっきり、それで試験を受けて単位を取った科目も多かった。

丸山九段の真面目な大学生度を100%とすると、私は30%くらいのものだったと思う。

何しろ、大学にはキャンパスがなく、たくさんの喫茶店、雀荘、居酒屋などが超至近距離にある絶妙な環境だった。

 

 

羽生善治棋王(当時)「与えれば与えられるんです」

将棋世界2001年7月号、写真家の岡村啓嗣さんのエッセイ「島研」より。

 羽生善治さんのスポーツ好きは、有名だ。

 自身でやるのは水泳と軽いジョギング。体力を強化するのとリフレッシュが目的だ。

 中学生のころは、東京・八王子の自宅から片道40分の自転車通学をしていた。行きは延々と坂道を登る。かなりハードだ。3年間の自転車通学で相当体力・脚力が鍛えられたに違いない。昨シーズン89局という最多対局記録を達成したが、こうした基礎体力があったからこそではないかと、あの坂道を思い出す。スポーツ観戦は、時間が許す限りしているようだが、サッカー、ラグビー、NBAなど好きなスポーツは多い。スポーツ選手との交流もある。ラグビーの平尾誠二さんと羽生さんが初めて会ったのは、竜王奪取から1年余り経った91年4月頃。当時、羽生さんは20歳で、竜王を谷川浩司さんに取られ持っていたタイトルは棋王一冠のみ。棋士人生の中でも珍しくスランプに陥っていた頃だった。一方、平尾さんは当時27歳で日本代表チームの主将をつとめ、強豪スコットランドに勝つなど「スポーツ界のプリンス」ともてはやされ、またその発言から「革命児」とも呼ばれ、注目を集めていた。

 二人はすぐに意気投合、すっかり打ち解けた。最初に行った店は、青山通りに面したスペインレストラン。二軒目は、パブを貸し切り状態にしてカラオケを歌った。羽生さんは「マスカレード」を、平尾さんは「大阪で生まれた女」を熱唱。

 二人がどんな話をしていたか、私は今でもはっきり覚えている。

「島研」についてだった。羽生さんが所属していた研究会である。

 島朗さんが、羽生さん、佐藤康光さん、森内俊之さんを集め、プロの棋士としては初めての研究会を作ったのだ。今でこそ、棋士が集まり研究会を開くのは当たり前になっているが、当時としては画期的。他の棋士たちからは「プロ同士が一緒に研究といっても、手の内を明かしてしまったら不利になるだけ。成立するわけがない」と冷ややかに見られていた時期でもあった。

 平尾さんと羽生さんの話題もそこに集中した。

 平尾さんも当時代表チームの主将として迷いがあった。ラグビー界は、代表チームの成績よりも国内で所属するチームの成績をより重視する傾向にあった。自分が持つノウハウを代表チームで全て教えてしまったら、国内の試合で自分が所属するチームは不利になる。口には出さないが、様々なジレンマを感じていた事だろう。

 その時の羽生さんの一言が強烈な印象として残っている。

「平尾さん、与えれば与えられるんです」

 そう語ったときの羽生さんの真剣な眼は忘れられない。

 あれから10年、時は流れた。

 羽生さんは、史上初の七冠王を達成。平尾さんも神戸製鋼を率いて日本選手権7連覇を達成させた。

 いつしか島研も解散。4人揃ってタイトル戦やA級で活躍するようになって、さすがに役割を終えた。

 しかし、羽生さんと平尾さんの二人はその後も定期的に対談の機会を持つなどして、交流を継続させている。

 私自身、お二人と親しくさせていただきながら、それぞれの10年余りの歳月を思うと、その生き方、考え方に共通のものを感じ、将棋とスポーツ、真剣勝負の中で語る本質は一緒なのだと実感している。

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「平尾さん、与えれば与えられるんです」

内容は異なるけれども、「情けは人の為ならず」と同じような雰囲気のこと。

それにしても、20歳の若さでこのようなことを話すことができる羽生善治三冠があまりにも凄い。

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パブを貸し切りというのが豪快だ。

1991年の羽生棋王(当時)はまだ広く顔は知られていなかったものの、平尾誠二さんはスター選手であったので、貸し切りにする必要があったのだろう。

羽生棋王が歌った「マスカレード」。

ジョージ・ベンソンやカーペンターズがカバーしたレオン・ラッセルの曲が思い出されるが、庄野真代の「マスカレード」、trfの「マスカレード」、SHOW-YAの「マスカレード」など、曲名は同じでも違う曲がたくさんある。

どの「マスカレード」を歌ったのかを総合的に考えてみると、安全地帯の「マスカレード」である可能性が高いと思われる。

羽生三冠は、少年時代にピアノで安全地帯の曲を練習していたと観測されるのがその主な理由。

羽生善治四段(当時)インタビュー(前編)

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平尾誠二さんは今年の10月に癌で亡くなっている。53歳の若さだった。

ラグビー日本代表選手であったほか、日本代表監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーなどを歴任した平尾さんだが、伝説的なテレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の登場人物のモデルにもなっている。

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羽生三冠と平尾誠二さんは、『簡単に、単純に考える』 (PHP文庫)でも対談をしている。

簡単に、単純に考える (PHP文庫)