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堺屋太一さんの将棋エッセイ

将棋世界1991年2月号、堺屋太一さんの随筆「『好き』に燃えるとは」より。

 知り合いの出版社から、一冊の本が送られて来たのは秋の終わりだった。「悪役(ザ・ヒール)」(実行之日本社刊)という変わったタイトルと美貌の著者の写真に釣られて読み出したら、意外に面白い。人間が「好き」なことに燃える情熱、世間に知られないマイナーな世界に生きる喜びと苦しみ、そして一般に言われているのとは違って有利よりも好きを求めている若者の心理などが、飾り気のない稚拙な文章で語られている。

 この本の著者は21歳の女性「尾崎魔弓」、ジャパン女子プロレスの悪役なのだ。プロレスファンのお父さんと一緒に観戦を重ねるうちに、何時しか自分もレスラーになりたいと思い、15歳の高校1年と時に全日本女子プロレスのオーディションを受けるが、身長体重ともに不足で落とされる。何とか合格しようとビル掃除のアルバイトをしてプロレス団体のジムに通うが翌年も不合格、そこに新設のジャパン女子プロレスなる団体が設立されて、やっと拾われる。

 体格が小さいのは格闘技では最大の不利、それを知りながらビル掃除までして何度も挑戦したのは大変な執念だが、その後はもっと涙ぐましい。新設団体の練習生になり全身痣だらけになる練習の末にやっとデビューするが、興行は流行らない。試合が少なく観客も入らないから給与は安い。ついにはまったく給与が出なくなり、スーパーマーケットのアルバイトで、やっと髪を洗うシャンプーと試合用のタイツを買う状態だ。

 その上、発足当時のスター選手が次々と辞めて、著者は悪役転向を薦められる。そうなると世間もファンも冷たい。「善玉の時はちょっと苦しげな表情をしても声援が飛んだのに、悪役になると頭から血が吹き出していても観客はゲラゲラ笑っている」という有様。しかも、善玉と悪役では扱いも全然違う。地方の興行主が食事に招待してくれても悪役は連れていって貰えず、コンビニエンスストアでおにぎりを買って宿舎で食べる。移動のバスも善玉はリクライニングシートの大型バス、悪役は小型のワンボックスカー。これで夜通し走ってすぐ試合、そこで悪役は罵声を浴びるというわけだ。

(中略)

 そんな不利な苦しみを耐えて、なぜ親の反対するプロレスを続けたか。それを著者は簡潔な言葉で各章のタイトルにしている。「好きでやるんだから頑張る」「有利より好きを選んだ」「甘ったれた奴は嫌い、私はハードに生きたいの」、そして「好きだから耐えた、耐えたから誇れる」といった具合だ。

 もっともこの小説はハッピーな状態で終わっている。3年ほど経つと、著者の属するジャパン女子プロレスも流行りだし、「尾崎魔弓」にも人気が出て来る。ジュニア級のチャンピオンにもなり、雑誌のグラビアに「美貌の悪役」として登場、レコードを吹き込んだり写真集を出したり、そして小説を書いたりする。だが、著者はそんな自分を「悪役」らしい醒めた目で見ている。「こんなになれると思ってプロレスをやっていたのではない。どうせ女子プロレスなんてマイナーだ。その中でも悪役はマイナーだ。それがどうしたというの」である。

 最近は豊かな時代になったので、若者たちはきつい仕事を避けて給与と休日の多い職場を選ぶ、と言われている。経営者も師匠も、あんまりきついことを言うと若者が定着しないと戦いている。たしかにそんな若者も多いが、その一方では本当に好きなことに燃えたい、という若者も少なくない。

 豊かな時代になれば、スーパーマーケットでアルバイトをしても食べる程度の収入はある。貧しい時代には、収入の多少に生命が懸かっていたが、今やその差はプランド衣料が買えるか、バーゲン品で済ますかの違いに過ぎない。それならば、ブランドで着飾るよりも大きな喜びが得られる好きな職場を求める若者が多いのは当然だろう。問題は、若者たちが燃えるほどハードな修行の場を与える職場が少なくなったことだ。本当に人間が「好き」を実感できるのは、楽しさを越えた苦しみに耐えて物事をなし遂げた時だ。それを味あわせるほどの気迫のある大人が今は少ないのである。

 将棋は、相撲、落語と並んで、今も徒弟制度が生きている数少ない分野だという。そしてこの三つが玄人と素人の差が最も大きいともいう。日本将棋連盟が将棋の天才を一人漏らさず探し出してプロに仕立てている人材発掘能力と修行制度は、もっと注目されてよい。同じことが政治家や官僚の世界でできれば、日本はずっとよい国になるだろう。大抵の企業は大発展するだろうし、伝統工芸は一段と進歩するに違いない。

 脳味噌が汗をかき腸が捩れるほどに考える将棋は、相撲やプロレス以上にハードであろう。だからこそ、好きに燃える天才が集まり辛苦に耐えて修行し、この伝統芸術を発展させているのではないだろうか。

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堺屋太一さんは女子プロレスファンで、やはりプロレスファンのバトルロイヤル風間さんと試合会場でよく遭遇することがあったという。

堺屋太一先生訃報(バトルロイヤル風間の見物したり見物されたり)

尾崎魔弓さんのことを書きたくて書きたくて、という熱気が行間に躍動している。

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「日本将棋連盟が将棋の天才を一人漏らさず探し出してプロに仕立てている人材発掘能力と修行制度は、もっと注目されてよい」

一人漏らさず探し出して、という表現が面白い。

探し出さなくても自然に将棋の天才が集まってくるシステムが昔から出来ていた、ということになるのだろう。

「同じことが政治家や官僚の世界でできれば、日本はずっとよい国になるだろう。大抵の企業は大発展するだろうし、伝統工芸は一段と進歩するに違いない」

これは堺屋太一さんならではの視点。

実現は非常に難しいだろうが、とても説得力がある。

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35年ほど前に堺屋太一さんの講演を聴いたことがある。(あるパーティーの前に講演会があり、その講師がたまたま堺屋太一さんだった)

はじめに、この講演で最も伝えたいことを簡潔に述べ、そこからはその伝えたいことを裏付ける複数の実例や事例の話、そして最後に、冒頭に述べた最も伝えたいことを結論として終わる、という流れで、非常にわかりやすく説得力があった。

講演にはいろいろなスタイルがあるだろうが、講演のノウハウの一つを垣間見る思いがした。

この随筆でいえば、最も伝えたいことは最後の4行。講演も伝えたいことは一つだけに絞られていた。

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遠藤龍之介さんのエッセイ「打てなかった金」

株式会社フジテレビジョン代表取締役社長で日本将棋連盟非常勤理事、そして作家の故・遠藤周作さんの長男である遠藤龍之介さんのエッセイ。

将棋世界1990年12月号、遠藤龍之介さんの「打てなかった金」より。

 母に手を引かれて私が小学校の入学式にいった時、父は丁度3回目の結核の手術の直後で病院のベッドにいた。週に2回、学校が終わると日当たりの悪い病室で私は暗くなるまでの数時間を、その日起きたたわいもない出来事を一方的にしゃべりながら過ごすのだった。

 外に出てリハビリする程体力の回復していない父から私は沢山のゲームを習った。最初は花札とドボン(今でいうブラックジャックの変形)を教わったのだが、これはどうしても何かをのせる事になってしまい、当時月50円だった私の小遣いを結果的に父が全部巻き上げてしまう事になり、それが母にいつの日か知れる事となり逆鱗に触れ中止のやむなきにいたったのである。不思議な事にいわば被害者である自分も、バクチの正当性というのを心のどこかで納得している部分があり彼女の裁断に何かやり場のない怒りを感じた事を覚えている。

 然し考えてみればたかだか6,7才の子供が一人前に花札をもてあそんでいるのは今にして思えば一種異常な状況であったのは確かで、そういった意味では奇妙な幼児体験であるのかもしれない。

 退院してから私ははじめて将棋を教わったのだが、ご承知の様にこれは何ものせなくても面白いものだから私はたちまち夢中になってしまった。ようやく体が快方に向かい、徐々に仕事を再開するようになった父は週に一度か二度きまって夕方のある時間、私の相手をしてくれるようになった。いつもはピリピリしていて何か話しかけるのもはばかられるような父もこのときばかりは軽口をとばしながら駒を手に持つので、そんな時にはとても親しみやすく、私は妙に安心してしまい、勝負そのものよりも、ある時間を親子で共有することを楽しみにする様になっていた。夕食の時間になっても勝負が続いていることがまゝあって、いつもは口うるさい母も生返事ばかりの亭主には強くはいえず、必然的に私の方もお目こぼしとなる訳で、そんな時、何か自分も大人の仲間入りが出来た様で、私は当時まさしく只々そういう雰囲気を味わいたいがために将棋を指していた様な気がする。

 父との手合は私の二枚落ち下手というのがパターンであった。今から考えると上手の棋力というのは甘く見積もってもせいぜいアマ4~5級程度なのだから、こちらの方は全く想像もつかぬ程の弱さだったのだろう。然し二枚引いてもらっても入るのは5番に1番位で、おまけに負かされた後で「そんな頭じゃ、いくら勉強しても成績なんか上がる訳がない」「オレの子供なのにこんなに馬鹿な奴はもう育てる気がしない」等を軽口をたたかれると生来勝負に淡白な自分もいい様のない悔しさを覚えるのだった。

 そんなある日、マンガ本を買いに行った本屋の片隅で私は一冊の将棋入門書を見付けた。将棋の本、というものがあることすらその時まで知らなかった私は以来、母に教材を買うからといって金をせびっては何冊も何冊も将棋の本ばかりを買いに走るのだった。

 私の棋力は急速に上昇して1年後には父と平手で充分互角に戦える様になっていた。元々我流で固まった技術と、基礎から一歩一歩学んでいった技術の差は驚く程急速に接近しつつあった。平手で3番に2つは勝てるようになってくると、向こうも滅多に私の相手をしてくれなくなっていた。私には何となくその理由がわかっていたのだが、自分が失いつつあるものの大きさにようやく気付きはじめていた。

 珍しく泥酔して帰ってきた父が久し振りに盤を持ち出して来たのはそれから更に1年後位だったと思う。3番、4番と棒に負かすうちに酒もすっかり抜けてしまった様で、早く寝なさいという母の声に最後の1番を戦ったのは、多分もうかなり子供にしては遅い時間だったのに違いない。

 眠い目をこすりながら指し始めた一局は中盤過ぎから私の必勝形になっていった。終盤になって相手の玉に簡単な詰みが生じていた。金を打って桂を打つという3手詰だとわかった時、私は思わず安い源平駒の金を手に持っていた。盤に打ちつけようとしたその刹那、その駒は単にその一局のトドメの駒だけではない事をようやく私は気付き、思わず駒台に戻してしまった。然し修正しようにも夢中で指していた局面は今やどうにもならない程の大差になってしまっていた。こちらの玉は覚えたばかりの銀矢倉という囲いの中に入っていてもう手もつけられない状態であった。私は呆然と盤に目を落としていた。父はしばらくすると私の気持に気付いたのだろう。顔を真赤にして駒を崩し、無言で自分の部屋に入っていった。

 父にとっては多分それは一晩過ぎれば忘れてしまうささいな出来事だったのかもしれない。けれども子供の私にはその夜は確実に何かを失った忘れられない夜だったのである。

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遠藤龍之介さんは、この頃、番組のプロデュース、企画などを行っていた。

また、夕刊フジで詰将棋欄(出題と解答)も担当していた。

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以前も書いたことがあるが、1989年、渋谷の道場で手合がついて、遠藤さんと一度対局をしたことがある。

その時の道場での遠藤さんの段位は四段。

もちろん私が負けたが、強い四段だった。

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「いつもはピリピリしていて何か話しかけるのもはばかられるような父もこのときばかりは軽口をとばしながら駒を手に持つので、そんな時にはとても親しみやすく、私は妙に安心してしまい、勝負そのものよりも、ある時間を親子で共有することを楽しみにする様になっていた」

「父にとっては多分それは一晩過ぎれば忘れてしまうささいな出来事だったのかもしれない。けれども子供の私にはその夜は確実に何かを失った忘れられない夜だったのである」

父と子。多くの家庭で、将棋に限らず、このような局面は違った形で起きてくるものなのかもしれない。

林葉直子女流王将(当時)「私たち女流棋士も紺の制服をびしっとキメて、将棋盤の前に勢揃い……!!これはいい」

近代将棋1990年7月号、林葉直子女流王将(当時)の「直子の将棋エアロビクス」より。

「林葉さん、余程お金に困っているんでしょうね……」

 ある日ある時、私のファンと称するお方から同情の眼差しを向けられた。

 おっと……!!私は思わずタタラを踏んだ。

 たしかに私にはお金がない。お金もなければ胸もない。知性もないし、色気もない……。

 あるのは借金と体重……

 それから……、将棋に対する愛着、ものを書きたいという意欲、そんなもの。

 でも、これだけあれば十分生きていける。

 借金があれば、それを返すために必死で働くし、体重があるということはユーレイではないことの証拠だし、将棋やって、ものを書いていれば、わずかながらお金も入ってくる。

 たしかにビンボーだが、充実している。

 金持ちだが、スの入った大根のような空虚な人生を送っている人より、中味のびっちり詰まったビンボー人生のほうがずっと増しだと私は思っている。

 そりゃ、お金は、ないよりあるほうがいいに決まっている。

 あれば喜んで使わせてもらうが、なければないでなんとかやっていく。

 幼いときから将棋をやっていて、駒台に欲しい駒が乗っていないとき、ある駒だけでなんとかその場を凌ぐことが身についているせいか、実際、傍から見て心配してもらうほど私自身は一向にビンボーを苦にしていない。

 それだけに、面と向かって

「林葉さん、貧乏しているんですね……」と同情まじりに言われると、大いに戸惑ってしまう。

 しかし、腹を立てるわけにもいかず、泣きわめくわけにもいかず、私はにこやかにファン氏に訊いた。

「うふふ……。どうしておわかりになります?」

 すると、このファン氏、ニタニタ笑いながら、

「フフフ、それですよ、それ」

と私の胸の辺りを指す。

 ン!?メ、胸のないことが、即、金のないことを表しているというの……?!

 まさか胸をつまんで「これ?」と聞き返すわけにもいかず、私はちょっと小首を傾げて彼を見返した。

「あははは、服ですよ、服……」

「服……?!」

 服と聞いて、私は思わず全身の血が一気に顔に集結してくるのを感じた。

 どこか破れているのかもしれない……。

 いや、どこかが汚れているのだ……。

 いやいや、またいつかのように襟首に値段表がぶら下がっているのだ……。

 できることなら、私はその場で服を脱いで調べたい心境になった。

 あるのだ、前科が、私には……。

 スカートの裏地が破れてフラ下がり、スカートの下からまるで尻尾のように出ているのを知らず平気でデパートの中を歩いたこと……。

 ペンキ塗りたてのベンチに腰掛け、スカートにベットリ青いペンキをつけて街を歩いたこと……

 バーゲンやセールで買ったワンピースの襟首から値段表を外にブラ下げたまま電車に乗ったこと等々……。

 すぐ破れるようなボロスカートをはいていたり、ペンキがくっついていても着替えのスカートがないのでしょうがなくそのままはいていたり哀れを催すような安い値段表をブラ下げたワンピースを着ていれば、誰だって、「かわいそうに。お金がないんだろうな」と思うかもしれない。

 (また恥かいた!)私は心の中で叫んだ。

 貧乏だってかまわない、なんてエラそうなことをいってるくせに、こと服装のこととなると、妙に気になってしまうのは、女の悲しい性だろうか。そんな私のあせった気持ちを察したのだろう。

 ファン氏が弁解がましく言った。

「お金がないなんて言ったのは冗談ですよ、冗談、あははは……」

 いいのよ、そんな弁解!

 それより、この服のどこを見てそんなことを言いたくなったのか、早く教えて!

 私は心中いらだって叫んだ。

「見たんですよ、その服。この前の衛星放送のときも着てたでしょ」

「え……。あ。でしてかネ」

 そういえばそうかもしれない。

 私は女優ではないので、そうそうたくさん服を持っていない。

 各季節ごとにせいぜい7、8着程度だ。

 それを交互にとっかえひっかえ着ているわけだ。

 彼の言う衛星放送は、もうひと月以上も前のことではないか。

 ひと月も経てば、何十枚も持ってない限り、同じ服を着ることは必然的にやって来るのだ。

 私が笑いながらそのことを説明すると、

「2週間前のS県のときも、たしかその服でしたよ」ですと。

 つまり、彼に言わせれば「3回会ったら、3回とも同じ服だった。ほかに服は持ってないのだろうか。かわいそうに」ということになるのである。これは困った。

 そんなふうに思われないためには、何十着も衣装を揃えなければならないからだ。いや、待てよ。貧乏人が見栄を張ることはない。われながらいいことを思いついた。

 女流棋士専門の制服を作ってもらうのだ。

 あの高給取りのスチュワーデスさんも制服ではないか。

 私たち女流棋士も紺の制服をびしっとキメて、将棋盤の前に勢揃い……!!これはいい。

”アテンション プリーズ アテンション プリーズ…… 王手飛車のランプが消えますまで、角を手放しませんように”ナンチャッテ。

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将棋マガジン1990年6月号グラビアより。撮影は中野英伴さん。

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たしかに、服をそろえるのは大変だ。

芸能人であれば諦めはつくけれども、女流棋士は芸能人ではない。

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「林葉さん、余程お金に困っているんでしょうね……」

「お金がないなんて言ったのは冗談ですよ、冗談、あははは……」

「2週間前のS県のときも、たしかその服でしたよ」

ファンである以前に、人間としてどうかと思う。

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「私たち女流棋士も紺の制服をびしっとキメて、将棋盤の前に勢揃い……!!これはいい」

AKB48も乃木坂46も制服。

NHK将棋フォーカスに出演している向井葉月さんは、少なくとも、ここで林葉直子女流王将(当時)が述べているような衣装の悩みは、しなくても済んでいる。

そういった意味では、女流棋士の制服が良いのかどうかは別として、林葉さんは時代を先取りしていたとも言えるだろう。

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紺の制服。

この時代の日本航空と全日空のキャビンアテンダントの制服を調べてみると、JALが7代目制服、ANAが8代目制服で、両社とも紺色だった。

制服の歴史(日本航空)

客室乗務員制服の変遷(全日空)

林葉直子女流王将(当時)「先生、私にも握手」

近代将棋1990年9月号、林葉直子女流王将(当時)の「直子の将棋エアロビクス」より。

 私には、尊敬している先生方がたくさんいるが、その中で、まだ一度も握手をしてもらったことがない先生が一人いらっしゃる。

 この先生の手は、女性の私なんかより、ずっときれいでやわらかそうな手をしていらっしゃる。

 一度、思いきりその手を握ってみたいという衝動に駆られるのだが、女性の私から

「先生、握手」

とは、なかなか言えないものだ。

 で。将棋まつりなどでご一緒したとき、チャンスを狙って先生のまわりをウロウロするのだが、世の中、決して私を中心にはまわってくれない。

 だから最近では、「ああ、もう、先生の手と私の手は永遠に合うことはないのだわ、トホホ」

と内心ではなかばあきらめていた。

 ところが、つい先日、あるイベント会場でのことである。

 会の終了間際であった。

 小学5、6年生の子が、「◯◯先生、握手してください」と先生に手をさし出した。

 私は先生のすぐそばにいた。

 先生はにこやかに笑いながら、その子の手を握られた。

 今だ!私も同じように言えばいいのだ。

「先生、私にも握手」と……。

 私はゴクリと唾を呑み込み、ジットリと汗ばんだ手をスカートの腰のあたりで拭いた。

「先生……」、と手を伸ばそうとした。

 しかし、一瞬遅かった。

 先生は、その子の手を離すと、くるりと私に背を向けて、さっさと控え室のほうへ引きあげられるではないか。

「あ……」

 私は、その場にガク然と立ち尽くした。

 また、せっかくのチャンスを逃してしまった……。

「ああ、やっぱりダメなんだわ。私たちの手……」と、すっかりいじけてあきらめかかったとき、パッと私の頭にヒラメクものがあった。

 私は、すぐに向こうのほうに歩いていた少年の背に追いすがるようにして声をかけた。

 少年は振り返ると、怪訝そうな面持ちで私を見た。

「ね、ぼうや。オネエちゃんとも握手しよう」

 少年の目の前に、私は手を突き出した。

 少年は一瞬、ポカンとしていたが、すぐに手を出し私の手を握ってくれた。

「ヤッター!」私は心のなかで叫んだ。

 この子の手は、ほんの少し前、あの先生に握られた。その手を今、私が握っているのだ。

 ああ、私は幸せ❤

 私は危うくその子の手に頬ずりをするところだった―。

 どうです。これが私の真の姿なのです。

 間接キスどころか、間接握手で感動してしまう純情な娘、それが林葉直子なのです。

 誰です、ただの変態だけのことじゃないかなんて言うのは…!

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将棋世界1990年10月号グラビアより。撮影は炬口勝弘さん。

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明治時代か大正時代の女学生のような行動ということになると思う。

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高校入試の時、面接があった。

部屋に入って「森です」とあいさつすると、面接官の先生が笑顔で黙って右手を差し出した。

ミッション系の学校だったので、(さすが西洋流、握手で始まるのか)と思い、こちらも右手を差し出すと、「受験票」と言われた。

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1年後だったか2年後、その先生の授業の雑談で「昔、入試の面接で、受験票をもらおうと手を差し出したら、握手と間違えた間抜けな奴がいてさ」。

自分以外にもたくさんそのような人がいたはずだ、自分だけではない、と自分に都合よく、前向きに思い込むことにした。

 

森信雄五段(当時)「相も変わらず私はわけの判らないことをやっているようだ。まあいいか」

将棋マガジン1990年7月号、森信雄五段(当時)の「忘れ得ぬ局面 忘れたい局面」より。

 ○月✕日のこと。

 午前10時カメラをかついで福島駅に向かう。

 今日はどの駅に降りようか、考えながら取りあえず切符を買って電車に乗り込む。

「ノダ、ノダ、次はニシクジョウ」

 そう言えば野田はまだ知らないところだ。降りてみよう。私は常に気まぐれ。

 西野田の街並は、戦災をまぬがれ明治の面影が残っている。その程度の知識はあったが、いざ歩いてみると、静かな下町のふんい気で、とにかく路地が多い。

 各家の軒先に鉢植えの光景も目につく。しばらく歩いている内に方角が判らなくなった。

 目に付いた喫茶店に入ると、客はおばあさんばかり5人。楽しそうに話をしている。

 来てよかった。洗練された都会を歩くより、私はこんなふんい気の街が大好きなのだ。

 再び歩き出すとサクを張りめぐらした空地が目に止まった。

 そばにいたおばさんに聞いてみる。

「ここは何ですか?」

「中央市場からの軌道の跡だよ」

 興味を魅かれた私は、「ちょっとだけなら、入ってもいいでしょうね」

「入ってもいいけど、サクがあって向こうは出られへんよ」

 サクを超えて、草とガレキの空地に入ると名も知らぬ小さな花がきれいに咲いていた。

 写真を撮りながら歩き出すと、確かに軌道の跡らしき枕木があった。

 空地に面した家々の前には、遠慮がちながら庭代わりに使われている鉢植えがある。

 そこで手入れしているおじいさんに、「この跡地はどうなるんですか?」とたずねた。

「知らない」ニッコリ笑顔でその返事。

「公園にすればいいのにね」

「そうだけど、このままでもいいよ」

 とうとう中央市場まで来てしまった。主婦らしい女の人に声をかける。

「この市場は一般の人でも入れますか?」

「もちろんですよ。でも今日は休み」

 先日、東京の築地の市場へ行ったが、私はあの息つくヒマもない混雑もまた好きなのだ。

 休みの日の市場は、人もモノも静止して、残されたゴミ溜まりがやけに目に付く。

 都会のエネルギーの裏返しのようだ。

 通りがかりの人に聞いてみると、普段は深夜でも休む間もないらしい。

 一回りすると警備員の人が寄って来て、「写真を撮ってくれるかなあ」

「いいですよ」カラーと白黒で2枚撮った。

 中央市場を出て、ある橋の所で写真を撮っていると、二人連れの男がやって来る。

「何を撮っとるんや。ウチの建物は撮るな」

「いえ、あの樹を撮ってるんです」

「何でや」

「あの樹の模様、面白いでしょう」

「何が面白いねん」呆れて去っていった。

 大阪には歴史を感じさせる、モダンな建物や橋が随所に見られる。そこにからむようなつるくさも、見ていて飽きない。

 しばらくいくと公園に出た。子供、学生、老人がそれぞれに、遊んだり、グランドを走ったり、鳩にエサを与えたりしている光景。

 一昨年、中国に行ったとき、公園で楽器を演奏している中で、なぜか「北国の春」を歌わされたことがある。

 普段は、まず歌うことのない私だが、そのときは後で拍手されて、素直にうれしかった。

 中国の公園は、毎日が祭りか縁日のようで、日が暮れてもなお、帰らない人が多い。

 私は、夕方、人が集まる公園に行くのを、毎日楽しみにしていた。暗くなると、日本から持って来た懐中電灯を使いながら話をする……。

 公園の隅に目をやると、将棋を指しているようだ。もちろん、ここは日本なので”将棋”。

 写真を撮らせてもらって、30分くらい黙って見ていた。「アッ、それはタダ」思わず声が出そうになったが、角が利いていて竜がタダですよ…。

 すぐ気付いたのか、すかさず「待った!」

 周囲のヤジ馬さんは、「わしら10級のもんでも、そんな手は指さんで」と冷やかす。

「今日は調子が悪いんや」とおっちゃん。

 しばらくすると、今度は相手の人が竜をタダで取られる(相手の人が少し強い)。

「お互い悪手ばっかりでんなあ」とご機嫌になったが、結局負けてしまった。思わず残念と、私もいつのまにか身を乗り出していた。

 話は変わって、インドの公園は、物売りがやけに多くて、とてものんびりしていられない。

 チャイ(紅茶)、クツ磨き、耳そうじ、そしてなぜかムチ売りなど。

 デリーの公園でのこと。クツ磨きの少年に仕方なく3ルピーで頼むことにした。

 しばらくして、5、6人の仲間も寄って来て「ジャパニー?」だの、「いつまでインドにいるのか」(多分そういうことだと理解した)

 判ったような判らないような会話をする。

 ここまではよかったのだが、払う段になって「30ルピー」と言われて、またか。またかというのは、他でも手痛い目に遭っているから。

「ノー!3ルピー」と私は言い返す。

 すかさず仲間が私を取り囲むが、「あかん、3ルピーのはずやった。払わへん」

 ついつい興奮して大阪弁になっていた。

 結局、クツ磨きを手助けしたのだからとの、少年達の言い分も聞いて、10ルピー払った。

 ユーウツだなあと思いながら、立ち上がって行こうとすると、初めに頼んだ少年がかけ寄って来る。

「またインドに来るの?」私にも判る英語でそう聞かれた。

「もうインドなんかに来ない!」ありったけの英語で、そう返事してから、しまったと思った。

 何のかんのあっても、たくましいインドの少年達が私は好きなのに、こんなことを言ってはいけなかったのだ。

 申し訳なさそうな表情が一変して、少年は私をにらみつけて、仲間の方に戻って行った。

 同じ境遇にあったなら、私など生きていけるかなあ。

 そう言えば、お金でなくアメ玉1個で親しくなった、あのちゃっかりした物乞いの少年、今頃どうしているだろう…。

 いつのまにか日が暮れそうになり、公園を出て家に向かう。今日もよく歩いた。

 でも、相も変わらず私はわけの判らないことをやっているようだ。まあいいか。そうだ、帰って詰将棋を作らなくては…

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1990年頃の森信雄五段(当時)。1990年の将棋マガジンより。

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嬉しくなるほど森信雄七段らしさが溢れるエッセイ。

全編、ほのぼのとした気持ちにさせられる。

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ここに出てくる中央市場は、大阪市福島区野田1丁目にある大阪市中央卸売市場本場。

1989年の映画「ブラックレイン」で、ニューヨーク市警のニック・コンクリン刑事(マイケル・ダグラス)と大阪府警の松本正博警部補(高倉健)が二人でうどんを食べた場所だ。

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「ブラックレイン」では、デフォルメされた大阪が描かれていたが、市場が休みとはいえ、「ブラックレイン」で出てくる場所と同じ場所とはとても思えないような、のんびりとした雰囲気が漂ってくる。

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「何を撮っとるんや。ウチの建物は撮るな」

これは、かなりの高確率で非常に怖い業界の人達だと思うのだが、「何が面白いねん」と呆れて去っていかせるところが、すごいというか神業だと思う。