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内藤國雄九段「真剣師は真剣の道ではプロであり、その土俵で戦ったのではプロ棋士もカモにされるのである」

将棋世界1992年8月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「真剣勝負の話」より。

 宮本武蔵は一生の間に50数回の決闘をし、敗れることなしと自ら語っている。

 そのうち幾度かは木刀や薪、船の櫓などいわゆる真剣でないものも用いている。しかしそれで相手を叩き殺しているから真剣勝負の名にはじない。真剣勝負とは生命を賭けた勝負のことで本当の真剣、つまり切れる刀を用いるかどうかは問題でない。

 以前、ある雑誌社が全国のアマ将棋強豪に「将棋が強くなる方法」についてアンケートをとったことがある。なかに「真剣をすること」という回答があった。武士の真剣勝負は命を賭けることだが、将棋の場合は金銭を賭けることである。金銭が賭けられると真剣さが加わるという意味合いから、この言葉が使われるようになったものと思われるが、正しい由来はつかめない。

 この真剣の意味は将棋だけのものらしく、囲碁や花札などでは用いられていないようだ(因みに国語大辞典を引いてみたが、賭け事の意味は見いだせなかった)。

 今回は将棋と真剣の話をとりあげたい。

 賭け将棋を生業とするか、生活の足しにする人を真剣師という。一般にセミプロとも言われるが、ここからプロになったりアマ名人になる人も出ている。

 木村名人に見込まれて付け出し五段でプロ入りし最高の段位まで昇った故・花村九段の話は有名だ。最近亡くなった元アマ名人の小池重明氏にも一時プロ入りの話があったが、実らなかった。最期は貧窮のうちに若い生命を終えている。

 現在、賭け将棋だけで生活している純粋な真剣師がいるだろうか。パチンコではそれだけで生活している人もかなりいるように聞くが、将棋の方は難しい環境になっている。

 かつて師匠がまだ存命のころ、兵庫県の職域団体戦で主将を除いて副将から五将までそうそうたる真剣師を揃えた団体があった(今は1チーム3名だが当時は5名であった)。それは港湾関係の会社で、真剣師たちが臨時に沖仲仕として働きにくることがあるので、その会社のチームに出場しても不法ではないというわけである。トップに出場するのはそこの重役ではじめからアテ馬のつもり。いわばセミプロで固めたこのチームは、知る人が見れば優勝は確実と思われたのだが実際には、毎回出場するのに殆ど優勝したことがなかった。真剣師の特徴は序盤が雑で、一番勝負に弱いというところがある。また独特の妖術も大会のような雰囲気では通用しないということもある。そういうところから、意外に勝てなかったようである。真剣師の数は多かったが、もう真剣では食っていけない時代になっていたことが、職団戦からも推察された。

「賭けないと面白くない遊びはいくらでもあるが、将棋はそれだけで十分楽しめる。将棋に賭けを持ち込んではいけない」。これが私の師匠の持論であった。

 それだけで楽しい将棋に賭けを加えたら余計楽しいものになるのではないかという人もいるが、そうはならない。賭けには麻薬の要素があって、いったんこれにはまるとそれなしには済まされなくなる、また次第に量(金額)が増えるなどの恐ろしい傾向がある。

 私と仲良くしていた数人からなる紳士のグループがあった。たまにその人達の同好会に呼ばれたり食事をしたりして良い関係が続いたのだが、ある時期からなんとなく私を避けるようになり疎遠になった。その人達が指している雰囲気も以前の和やかさがなくなり、なにかぎくしゃくしたものが漂うようになった。指し手が早くなり落ち着きのない品の悪い将棋になってきているのが傍目にも感じられる。

 後に分かったのだが、実はそのときグループ内で真剣がはやっていたのである。金額がどんどん増え、負けるとそれを取り返そうとして早指しになるという真剣おきまりのコースを辿った。

 最近スポーツ関係の著名人を交えたグループが自宅で花札賭博をしていて検挙された。「私らの安月給でも麻雀であれに近い金額までいきましたからね。稼ぐ人ならあの程度は不思議じゃないでしょう」と私の知人は言っている。この場合は誰かの警察への密告でちょんとなったが、将棋のグループは次のような途をたどった。

 中の一人が、賭金の取立を執拗に迫り相手の会社まで押しかけていった。やられた人はついには会社を辞め退職金で負け金を支払うという悲劇的な結果となったのである。

 こういうことで、もとは仲のよかった趣味グループは崩壊した。

 ちゃんとした職業があり収入もある人がどうしてヤクザまがいの取立をするのかと、当時若かった私には解せなかった。師匠が強く賭けをいさめたのは、真剣華やかな時代に幾多の悲劇をみてきた故に違いない。

 真剣はほんとうに将棋を強くするのだろうか。そういう点は確かにあるだろうが、逆の要素がそれ以上にあるのを痛感する。将棋の筋と人間の筋と、この双方を歪めてしまうのである。かつて有望視された奨励会員が真剣の深みにはまって駄目になった例もある。東大出の教師が質のよくない真剣師になりかけた例もある。

大阪在住の大先輩、故・O八段は晩年といってもいい60歳ごろから連続2回昇級を果たした。年齢を加味すれば、今後ともなかなか破れそうにない新記録といえよう。一体どのような一念発起があったのであろうか、私もあやかりたいものである。

 C級1組からB級1組まで上がったのだが、B1においても最初に2連勝し、この快進撃はまだ続くかと思われた。しかしここから急におかしくなっていく。その原因になったのが次のような出来事からであると言われている。

 Oさんは普段から真剣師相手によく指していた。それは小遣い稼ぎよりはむしろ腕を鍛えるという意味があったのだと思う。真剣師から金を巻き上げるというのはプロといえども容易なことではなく逆にやられることも少なくないのである。このとき、Oさんは相手に24倍層という極端な賭率をふった。よほど相手を弱いとみたのであろう。普通大駒一枚の差で倍層(2倍)、二枚で5層というのがこの世界での相場となっている。

 バイソウ、或いは単にソウともいうのは真剣用語で、これは競馬でいうオッズ(賭率)のことである。ちゃんとした手合いで指せばこれは生じないのだが、平手で指すところから大きなオッズが生じる。それにしても24倍層は目茶苦茶といえる。もし一局落としたら、あと24局を全勝しなければ元がとれない。焦るとどんなポカが飛び出すか分からないのが人間というしろものである。この勝負で、なんと2局目にOさんは負けてしまった。そしてその次に5局目にまた負ける。賭金がどの程度だったかは知らないが、とにかく24倍となると大きくなる(噂では負けた1局がB2の年収くらいであった)。

 すぐに清算するのがこの世界の習いである。家に金を持ってくるよう電話を入れる。貯金全部はたいても足りない、そこで奥さんは駆けずり回って……。

家庭不和や生活不安は棋士にとって最大の敵である。Oさんは酒におぼれるようになり対局は全敗、引退をして幾年もしないうちに亡くなった。「惜しいなあ」と関西棋士は呟きあったものである。真剣が棋士生活と寿命を葬り去ったといって過言でないだろう。

 妖術という言葉を先に使ったが、質の悪い真剣師は勝つためにあらゆる妖術を用いる。

 手合い(強さ)を見誤らせる(ごまかす)というのもその一つ。私の想像だが、Oさんはこの妖術にひっかかったのではあるまいか。相手はせいぜい5層までの手合いだったのでは、という気がするのである。真剣師は真剣の道ではプロであり、その土俵で戦ったのではプロ棋士もカモにされるのである。

 最後につけ加えておきたい。これまで真剣師のよくない面をとりあげたが、全部がそうであるというわけではない。一般の賭博の徒と違って、将棋の真剣師にはほんとに将棋が好きで、将棋さえ指せればあとはなにも要らないという純粋な人もいる。通常の仕事が手につかないので、収入を得るためにやむを得ず真剣師になっているに過ぎない。

 こんな人こそプロ棋士として一生を過ごさせてやれたら―。もし私が神様ならそうするのになどと思うのである。

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駒音コンサートでの内藤國雄九段。将棋マガジン1992年3月号、撮影は弦巻勝さん。

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凄惨な話が続く。

内藤國雄九段の師匠の藤内金吾八段が亡くなったのが1968年(昭和43年)なので、これらのことは昭和30年代のことだと思われる。

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「兵庫県の職域団体戦で主将を除いて副将から五将までそうそうたる真剣師を揃えた団体があった。そは港湾関係の会社で、真剣師たちが臨時に沖仲仕として働きにくることがあるので、その会社のチームに出場しても不法ではないというわけである」

この当時、神戸港の船内荷役業は山口組などが仕切っていたので、その港湾関係の会社もそのような系列だったのだろう。

ちなみに、日本の侠客の元祖は幡随院長兵衛とされているが、幡随院長兵衛は口入れ屋(人材斡旋業)を営んでいた。

山口組の船内荷役業という正業の部分のビジネスモデルは、幡随院長兵衛のそれと同じアプローチだったことになる。

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「中の一人が、賭金の取立を執拗に迫り相手の会社まで押しかけていった。やられた人はついには会社を辞め退職金で負け金を支払うという悲劇的な結果となったのである」

この当時の世相ということではないと思う。賭け将棋に狂って、その人の魂まで狂ってしまったのだと思う。とにかく悲劇的なケースだ。

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「それにしても24倍層は目茶苦茶といえる。もし一局落としたら、あと24局を全勝しなければ元がとれない」

平手の24倍層、例えば1局10万円ならば、強い側から見て、勝てば10万円、負ければ240万円ということになる。

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「家庭不和や生活不安は棋士にとって最大の敵である。Oさんは酒におぼれるようになり対局は全敗、引退をして幾年もしないうちに亡くなった」

O七段(当時)がB級1組から降級したのは1964年度(昭和39年度)。

東京オリンピックがあった年度だった。

 

穂坂繭初段(当時)「その羽生棋王とよく腕を磨き合っているよきライバルの先崎五段は、羽生棋王と同じぐらいの六子なのだが冴えた感覚で早指しに勝る!?早打ちである」

将棋世界1992年3月号、囲碁の穂坂繭初段(当時)のエッセイ「将棋との碁縁」より。

穂坂繭初段(当時)。将棋世界同じ号より。

 よく「将棋は短距離で、囲碁はマラソンだ」って、聞いたことがあるけど、案の定、私は足が遅いので囲碁をやっている。文章にしても、囲碁棋士で書く人はほとんどいないが、将棋では色々な棋士が書いていて、それも上手いしとても面白くて、将棋をほとんど知らない私でも、最新号の雑誌を心待ちにしている。私がまだ院生(将棋の奨励会)の頃、米長先生のある対談集の中で、「最善手を知ったり誰かに教わることより誤読を犯すことが唯一の勉強法」というくだりに、すごく驚き感動した覚えがあって、それ以来、エッセイの類では、碁の本より読んでいると思う。

 それが碁縁とは不思議なものでスクリーンの中の人たちだった将棋棋士の囲碁のお相手をする機会に恵まれてもう2年が過ぎた。

 碁会に来られるのは、いつも棋界を賑わせてる若手棋士が多く、よく出席して下さるのは神谷六段で、五子で勝ったり負けたりだが、本人曰く、多少淡白なところがあり、これからという時に投了されてしまい何度助かったことだろう。先頃、王位戦で活躍された中田宏樹五段は、人柄そのものといった感じの温厚な碁風で、白の弱い石でもあまりいじめたりはしない(本業でそんなことはないでしょうけど)。羽生棋王は、常に鋭いねらいを持っている碁で、白がマジックにかかるのを恐れているふしがある。その羽生棋王とよく腕を磨き合っているよきライバルの先崎五段は、羽生棋王と同じぐらいの六子なのだが冴えた感覚で早指しに勝る!?早打ちである。

 私など本業なら10秒碁でもよく打つが、将棋となると、まるで読める訳ないのに、自分でもイライラするぐらい遅い。1局1時間以内で終わったためしがない程長考してしまう。

 その点、「これで実戦は3局目です」と、若葉マークの郷田四段は、一手一手慎重によく考えられる。私もなんだか人ごとの様に思えず、「どうぞ、ごゆっくり」などと言っていると、「そこはノータイムでしょ」と外野席からすかさず声がかかってしまう。以前は幹事で、今はすっかりお忙しくなられて欠席ぎみの森下六段の碁風は、なかなか打ちたがらないというカンジで、「イヤイヤ僕は……」と遠慮されるが、イザ黒石を沢山?置くと、のっけから白は攻められ独特な打ち回しをされる。女流では清水市代三段は、初段に近い腕前ということだし、中井女流王位とは、何度か碁と将棋の交換教授をしていたこともあってお互い同じくらい強くなった!?

 2ヵ月に一度の囲碁会は、稽古に行くというより、すっかり楽しみになってしまい、囲碁界と又、違った空気の吸える棋士たちと碁を交えてお話できるのはいい刺激になっている。

 私が碁をやっていてよかったなと思えるのは、実にこんな時で、碁を通して、今まで様々な人たちと出逢うことができたし、その分色々な考え方もできる様になれた気がする。

 それに将棋も囲碁も、全く知らない相手でも、一度、盤を挟むと何だか昔からの知り合いだった様な親しみを覚える。これは、ランチを3回共にするより効果的かもしれない。

(以下略)

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穂坂繭初段(当時)は、この当時、日本将棋連盟囲碁部の師範だった。

神谷広志六段、中田宏樹五段、羽生善治棋王、先崎学五段、郷田真隆四段、森下卓六段(タイトル・段位は当時)のキャラクターがとてもよく表現されている。

今頃の季節にふさわしい、穏やかで清々しい気持ちにさせてくれる文章だ。

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「最善手を知ったり誰かに教わることより誤読を犯すことが唯一の勉強法」

これはアマチュアにも言えることだと思う。

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「碁縁」という一石二鳥の言葉が使えるのが囲碁界の強み。

「将縁」だと硝煙に聞こえるし、「棋縁」だと奇縁に聞こえるし、そもそも「ご縁」にならない。

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「その羽生棋王とよく腕を磨き合っているよきライバルの先崎五段は、羽生棋王と同じぐらいの六子なのだが冴えた感覚で早指しに勝る!?早打ちである」

穂坂繭三段と先崎学九段が結婚をするのは、この時からおよそ7年後のことになるので、この頃はその萌芽が現われかけて来た頃なのか、あるいはまだこれからなのか、読み取ることは難しい。

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先崎学九段と穂坂繭三段は、2017年10月から東京・西荻窪で「囲碁将棋スペース・棋樂」を開いている。

通常の教室以外にも、「佐藤康光会長と指し初め」「王位と泣こうぜ」「おっさんずバトル」など、様々なイベントが行われている。

絶対に面白いと思う。

囲碁将棋スペース・棋樂(ホームページ)

囲碁将棋スペース・棋樂(twitter)

 

「丁稚の将棋 旦那の碁」

将棋世界1991年11月号、スポーツライターの玉木正之さんのエッセイ「丁稚の将棋 旦那の碁」より。

 わたしは将棋が大好きである。

 下手の横好き、振り飛車一本槍という程度の実力であるうえに、最近は盤に向かうことすらまったくといっていいほどなくなったが、それでも、将棋について訊かれると、声を大にして胸を張り、わたしは将棋が大好きだ、と答える。その言葉の裏には、わたしは囲碁ではなく将棋が好きだ、という意味が込められている。そして、そう答えることのできる自分に、ほのかな心地好さすら感じている。

 というのは、わたしに将棋の指し方を教えてくれた人物―すなわち、わたしの父親が、将棋を指すたびに口にしていた言葉を思い出すから、である。

「丁稚の将棋、旦那の碁、というてな、丁稚は将棋を指すもんや。囲碁は旦那にまかしとけ。丁稚には将棋が似合うんや」

 といった具合に、わたしの父親は、盤上を見つめ、わたしから奪った駒を楽しそうに手のなかでジャラジャラと鳴らしながら、口癖のように「丁稚の将棋、旦那の碁」という言葉を何度も何度もくり返したものだった。

 京都の祇園で小さな電気器具販売商を営んでいる父親は、終戦直後に徳島の山奥にある寒村を離れたあと、大阪の市岡という下町にある電気店で、何年間か丁稚奉公を経験したという。わたしは、その話を子供のころから聞かされ、知っていた。だから親父は囲碁でなく将棋を指し、「丁稚の将棋、旦那の碁」という言葉を口にするのだろう……と思っていた。が、中学生になったころ、わたしは久しぶりに親父と盤を挟んだ折に、少しばかり疑問に思ったことをふと口にした。

「昔は丁稚でも、今は店を持ってるんやから旦那やろ」

「まあ。そうやな」

「ほな、なんで囲碁をせえへんの?」

 親父は、じっと盤面を見ながら、しばらく何もいわなかったが、やがて、口を開いた。

「旦那か丁稚かというんは、立場で決まるもんやない。それに丁稚が旦那より下というわけでもない」

 親父はそれだけで口をつぐみ、わたしは親父の次の一手の王手飛車取りに、「エエーッ」と声を張りあげ、「待った、待った!」「阿呆いえ!待てるか!」「1回だけ、勘弁してえな!」「あかん、あかん!」などといいあうなかで、その話題は立ち消えになった。

 その後わたしは、青年期を迎えた世の男の子がすべてそうあるように、父親との交流以上に悪友との付き合いが中心になり、親父と盤を挟むことはなくなった。が、このときの親父の言葉は、意味のよくわからないまま、なぜか何度も思い出された。

 高校生になり、大学生になると、何人かの友人から囲碁を覚える機会を得た。

「将棋よりも囲碁のほうが奥行きが深いぞ」と、彼らは口をそろえた。なるほど囲碁とは、石の並び方の美しさに宇宙を感じるものだ、とも思ったが、その奥行きは頭で理解しながらも、心の底からのめり込むということが、どうしてもできなかった。

 それは、「丁稚の将棋、旦那の碁」という親父の言葉が脳裏にこびりついていたからに違いない。

 いま考えてみると、わたしは親父の言葉から「人間の分際」と「人間の矜持」とでもいうべきものを学んだと思う。

 人間には「分際」というものがある。しかし、それによって自らを卑下する必要もなければ、自慢するべきでもない。人は「身の程」というものを知ることによって、はじめて自分のできることがわかる。

 将棋は将棋、囲碁は囲碁。碁で勝つ者は将棋で負ける。歌は碁の如く詩は将棋の如し。

 どっちが上でどっちが下ということは断じてない。

 少々理屈をこねるなら、そのような多様性のなかにこそ文化の広がりがある、といういい方ができるに違いない。そして、そのような多様性と広がりのすべてのなかに、一人の人間が身を置くことなどできない、ということだ。それが「分際」というものだろう。

 今年の夏、女房と3人の子供を連れて、久しぶりに京都の電気屋に帰ると、腰の曲がった親父が「久しぶりに、いっちょ、やろか」といって、将棋盤を引っ張り出してきた。わたしは、「長幼の序という言葉を知っとるなら、この手は待て」などと強権を振り回す親父に苦笑いしながらも、楽しい一時を過ごした。とはいえ、わたしがその一手を待ってやったおかげで逆転勝ちした親父が、「やっぱり、まだまだわしの方が強いな」といったときばかりは、本気でムッとしたのだったが……。

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個人的には、将棋と囲碁は、隣接するものではなく、全く世界の違うものだと思っている。

「将棋よりも囲碁のほうが奥行きが深いぞ」は、「トンカツよりもアイスクリームのほうが奥行きが深いぞ」や「サッカーよりも茶道の方が奥行きが深いぞ」のような言葉と同様、比較をすること自体がおかしい意味のない言葉だと思う。

「丁稚の将棋 旦那の碁」も、比較をすることに意味がないという、同じような考え方と言って良いだろう。

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「身の程」という言葉で思い浮かぶのが、司馬遼太郎『項羽と劉邦』、およびそのベースとなっている『史記』。

自分の持っている器量というものを理解し、身の程をわきまえた人が成功している。(言葉を変えれば、殺されていない)

「身の程をわきまえる」というのは自分のためのリスク管理であって、決して消極的・退嬰的なことではない。

最も身近な例は酒で、自分の身の程を超えた量を飲むと、ろくなことにならない。

50人の企業の名経営者が300人の企業の名経営者になれるとは限らない。

企業を発展させる過程で、その経営者が持つ器量を超えた段階(規模)から、変になり始めることも多い。

3億円の自己資金で株式投資に大成功していた人が、ファンドを作ってお金を集めて50億円の運用をやって、大失敗するケースもある。

バブル時代、経験のない分野での新規事業をいくつも立ち上げて、ことごとく失敗した大企業も、結果的に身の程をわきまえていなかったと言うことができる。

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プロの将棋の対局の盤上においては「身の程」を考える必要はない。むしろ考えてはいけないのかもしれない。

そのような意味でも、勝負の世界は見ていて純粋に楽しめるということになるのだろう。

 

内藤國雄九段「やっぱり名人になるほどの人はすることが違うなーと私は感心した」

将棋世界1991年12月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「棋は人なり」より。

 塚田(正夫)さんは、若い私にとって憧れの人であった。何と言っても「塚田詰将棋」の御本尊であり名人になったことのある人である。私が二段のとき、この雲の上の憧れの人と地元新聞社の好意で対局が出来ることになった。手合いは角落、私が中段で飛車を振り回して勝たせてもらったが、局後「受けのしっかりした将棋だね」と、ぽつり言われたのが意外で印象深かった。

 新聞社の偉いさんが塚田さんを高級レストランに案内した。なんなりと仰って下さい、と言われたのに対して塚田さんはすまして言った。「カレーライスを下さい」

 それは塚田詰将棋から受ける、なんとも言えない味わいを思い出させた。

 公式戦で初めて顔が合ったのは私が四段になって間もない頃だった。王将戦の予選で、戦いは組み合ったとたん、ツツーと横に運ばれて土俵の外にポイと放り出されたような感じで終わった。あっけなくて疲労感もなかった。やっぱり違うなと感嘆した。局後、「ここでこう指せばどうですか」と、実戦で迷った末に指せなかった手について質問した。塚田さんは一寸小首をかしげて「一局の将棋だね」と言って、それきりだった。それは高僧に「それも一つの人生じゃ」と諭されたような重みがあって、心にじんと響いた。

 それから10年の歳月が流れて、私は八段になっていた。

 一夜東京で塚田さんと一献傾けた。遅くなって塚田さんは奥さんに迎えにくるように電話をされた。横浜からここまで大変だなという思いが私の脳裏をかすめた。12時近くに奥さんが見えた。すると塚田さんは「帰れ」といって、追い返してしまったのである。やっぱり名人になるほどの人はすることが違うなーと私は感心した。

 それからおよそ20年の歳月が流れる。私も当時の塚田さんに負けない歳になった。

 塚田さんのことを思い出した。それを思い出したのは、心にひっかかるものがあったからである。奥さんを呼び出しておいて帰してしまったのは何故か。そこにどんな感心すべき内容がひそんでいるのか。今はわからないが、いつか分かる時がくるだろう……。

 その時の塚田さんと同じ歳になって、やっとそれが分かった。あれはただの判断力の喪失に過ぎないということ。将棋でいえば”ポカ”の一手であったということである。酩酊が過ぎると判断力をなくするということは私もいやと言うほど経験している。

 このことに気付いたのはよかった。もし塚田さんのポカを好手と勘違いしたままでいたら、いつか私も同じ轍を踏むに違いない。

 深夜愚妻に無駄足を踏ませるという悪手をやらかすに違いなかった。気がついてよかった。

(以下略)

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ものすごく奥が深そうに見えて、実は全くそうではなかった、ということは結構あるもので、塚田正夫名誉十段の奥様呼び出しももその典型例と言えるだろう。

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塚田名誉十段の奥様は、将棋大成会(戦前の将棋連盟)の理事の娘さんで、当時の若手棋士の憧れの女性だったという。

このような場合は、恐妻家になる可能性が高いし、実際もそのようだった。

塚田正夫九段(当時)「いつだったか、観戦記に『塚田九段が気分転換といってストリップを見にいった』と書かれたのが目にとまってね(笑)えらい目にあいましたよ」

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ただし、塚田名誉十段の奥様呼び出しは、素面の時も行われている。ただし、「帰れ」は酔っ払ってからのようなので、迎えに来てもらうつもりが、飲んでいるうちに段々と(もっと長い時間飲んでいたい)と思うようになり、奥様が到着した頃は「帰れ」になる定跡だったのかもしれない。

他の業界でも立派にやっていけそうに見える棋士とそうではない棋士

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将棋世界1972年11月号より、内藤国雄八段(当時)。
将棋世界1973年5月号より。塚田正夫九段(当時)と奥様。

 

中井広恵女流王位(当時)「顔だけ比べれば、清原、野茂より羽生、郷田の方がずっといい男だ……と思う」

将棋世界1991年9月号、中井広恵女流王位(当時)の「美男棋士と素敵なおじ様」より。

 野球界より一足先に日本シリーズが開幕した。この棋戦は皆さんご存知の通り、全国各地で行われる公開対局である。

 日曜日ということもあって約1,400人程の人が足を運んでくださったが、それでも野球に比べると50分の1程度にすぎない。

 対局者は内藤九段対羽生棋王という好カードにもかかわらずである。

 内藤九段といえば”おゆき”が大ヒットし、歌もお話も素敵なおじ様だ。おばちゃん……いや、奥様方にとても人気がある。

 一方、羽生棋王も若くてタイトルを手にし、お金持ちでしかも二枚目。

 どう考えてもモテないはずがない。東京ドーム位、人が集まってもおかしくないのだが……。

 野球選手はユニフォームを着ているからかっこよく見えるのだ。うちの主人も野球部のユニフォームを着ると、それなりに見える。顔だけ比べれば、清原、野茂より羽生、郷田の方がずっといい男だ……と思う。

 早く将棋連盟にも羽生君見たさにギャルが列を作る……という風景も見たいものだ。

 この日本シリーズのイベントは2日間に亘って行われ、土曜日は前日祭の多面指し及び講座。日曜日はメインの公開対局。

 前日祭では、内藤九段、羽生棋王、船戸女流初段が多面指しを行い、大内九段と私は大盤を使って詰将棋クイズを行った。

 問題は大内九段が作ったものだが、私もアシスタントとして一応は答えを知っておかなければならない。大内九段に手渡され、考えてみたが、なかなか難しい問題ばかりである。

 ところが、皆さん詰将棋をよく解いてるのか、挙手が早い。しかもほとんど正解なのだ。

 ”解いてくれなきゃ困るけど、あまり早すぎても頭にくる”

 とお客さんを笑わせ、用意した問題以外を出題。今度は今までのようにはいきませんよ……と得意な大内九段の前に現れたのが天才少年。9歳ながら、15手詰をわずか1分足らずで詰ませてしまったのには大内九段をはじめ、会場の皆さんもびっくり。

 ”この子は将来、プロ棋士になれる”とお墨付きをもらっていた。

 多面指しを行った方々も、プロ棋士と接触する事が出来、喜んでもらえたようだった。

 前日祭が終わると、関係者の方々との前夜祭にうつる。対局者の明日への抱負、また対局の見どころなどを解説者の大内九段にお話してもらうわけだが、この広島では毎年恒例になっているのがカラオケ。

 ”歌はダメですョ”

 と言いながら、すかさず歌詞カードを見ている棋士も多いそうだ。

 内藤九段の歌が聞けると楽しみにしていたのだが、のどを悪くされていて、お医者様にしばらく歌はダメと言われているそうだ。

 羽生棋王も韓国帰りで疲れがたまっていて歌ってもらえず、残念な展開となった。

 メインの対局の前に、私は地元のアマチュアの方と対戦した。結果は言いたくないが(こう言ってしまえば分かってしまうが―)矢倉で難しい将棋ながら優勢になり、あとは寄せるだけになったのだが、詰むと錯覚し、入玉されてしまった。

 将棋を負けると、聞き手をやっても元気がないので、対局者はその点も考えてほしい。

 残るはメイン対局だけである。対局者が花道を通って舞台へ上がる。対局前のインタビューを対局者にしたが、内藤九段は、”こうして舞台に立つと、歌手内藤國雄で来てみたいです”と場内をわかせた。一方の羽生棋王も”自分らしさが出ればいいと思います”と羽生棋王らしいコメントを残した。

 将棋は羽生棋王の先手と決まり、空中戦が予想されたが、予想に反して内藤九段が向かい飛車の作戦をとった。

 それに対し、羽生棋王は急戦を用い、激しい将棋となった。

 途中、封じ手クイズでは手が限られていたこともあって、大半の人が正解だった。

 羽生棋王が飛車取りに銀を引いた手に対し、大内九段が、

 ”ここでは、こういう手は(飛車を逃げる)指しません”

 と言った手を内藤九段が指し、

 ”これは失礼しました。指されてみれば、なるほど……という手ですね。しかし、私の弟子がこう指したら破門です”

 これには会場のお客さんも大爆笑。

 対局が終わり、残念ながら敗れた内藤九段に感想戦で質問したが、

 ”将棋は負かされるわ、破門されるわで踏んだり蹴ったりや”

 とジョークまじりに答えていた。

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将棋マガジン1990年9月号より。

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中井広恵女流六段の文章は、とにかく面白い。

面白さの打率は10割に近いと思う。

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「野球選手はユニフォームを着ているからかっこよく見えるのだ」

これは男性にも女性にも言えることなのだろう。

2012年の調査では、警察官、消防士、パイロット、医師、自衛隊員が、女性から見た男性のユニフォームの人気上位に入っているようだ。

萌えっとくる男性の制服&仕事姿ランキング(セキララ★ゼクシィ)

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「顔だけ比べれば、清原、野茂より羽生、郷田の方がずっといい男だ……と思う」

時代劇の台詞を使っても良いのならば、「よくぞ申された」と言いたい。

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「早く将棋連盟にも羽生君見たさにギャルが列を作る……という風景も見たいものだ」

形態は違うが、1995年(羽生七冠誕生の前年、かつ婚約発表をする前)、羽生六冠(当時)宛で将棋連盟に大量のチョコレートが送られてきている。

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「9歳ながら、15手詰をわずか1分足らずで詰ませてしまったのには大内九段をはじめ、会場の皆さんもびっくり」

広島で行われたこの前日祭、この時に9歳だった広島出身の棋士は片上大輔七段。この少年が片上七段だったのか、あるいはプロにならなかった少年なのか、興味深いところだ。

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「羽生棋王も韓国帰りで疲れがたまっていて歌ってもらえず、残念な展開となった」

この韓国行きは、森雞二九段の研究会の旅行で行ったもの。

森九段はカジノが大好き。研究会の旅行もカジノがある国となる。この当時、ソウルには1軒だけ、ホテルの地下にカジノがあった。(グランデ ウォーカーヒルソウル…テレビドラマ『ホテリアー』の舞台)