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原田泰夫九段の講演(序盤)の再現

近代将棋1982年12月号、原田泰夫八段(当時)の「棋談あれこれ」より。

講演

 秋冷、仕事をした後の酒のうまさかな、人生の幸福を感じ
る。11月17日付で九段、11月25日付で藍綬褒章を下さるご通知、ありがたく感謝、肩書を汚さぬように界、道、盟のために尽したい。

 未知、初対面のところからの講演のご依頼がある。先約で失礼の場合もある。2月を例にすれば、行田市役所上級職員の研修会。農林省関係。小林コーセートップ幹部セミナー。神奈川県教育センター校長コース。相模台工業高校PTA。宇都宮青年館。杉並区文化祭。社会保険大学。1時間半、2時間、3時間の講義もある。内容の新鮮を心がける。

 どんな調子で何を話しているのか「原田ぶし」の序盤をご紹介したい。「颱風禍知られざる深き町」句と認めていただけるか。

三手の読み(序盤)

「盤上盤外」と致します。盤上は将棋界、将棋道、将棋連盟のこと、それ以外の社会、各界を盤外と見ます。将棋的発想で社会や人生や世界ニュースを眺め、盤上の世界ならこう考えると見たり、ブラスの面を吸収したり考え方を往復させますと現代が面白く眺められます。

 盤上の考え方では相手の立ち場に立って、相手の最善手を読む、これを「盤面をひっくり返して見る」と申します。盤を裏返しにするのではなく、相手側、向かう側に立つということです。 

 20代の青年時代から言葉を選び、言葉作ることが好きでした。選び、作った言葉を浮かべて物ごとを考えると分りやすくなります。

 大正12年生れ、数えで60、昭和12年に加藤名誉九段門下にしていただいてから45年、24年、26歳で八段に昇進してからでも33年、60年の人生、45年の棋士生活の失敗談、体験談を、いかに省略するか、まとめるか、一つにしぼるか、これは難問、あまりにもお話し申し上げたいことが多いからです。

 時間節約の場合は、意識して早口にして、あまり警戒しすぎては話しが面白くないので自然に流します。時には縦横の飛車筋に、時には稲妻型の角筋に、桂馬筋に飛んだり、香車の如く
話しが走ることがあります。

 話し上手より聞き上手と申します。この点、よろしくご賢察願います。

 原田と致しましては、皆様方約二百人の立派な指導者に、人物試験をうけている気持であります。写真よりラジオよりテレビよりも、面接して話しをきけば、その人間がどの程度か、はっきり分ると存じます。こちらは、秀才でも人格者でもございません。

 一般に将棋は娯楽、趣味と見ておられます。それで結構、将棋を楽しまれればいい。プロを棋士と申します。棋士には棋士の使命がございます。その点は時間があれば後に申します。プロ棋士の世界を勝負の世界、棋士を勝負師とも言われます。

 たしかに勝負の世界で勝てば本人はいい気分、家族は喜び、ファンは我がことのように喜んでくれます。位置が上り収入もふえます。負ければその反対、若い純心の時ほどくやしさが激しく、ほんとに泣きたくなったり、死にたくなることもありをした。

 その時その場で白黒の結着がつきますから厳しく見えます。しかし考えようによっては社会のあらゆる職業が勝負の世界であり、その日に勝負がつかないから一層奥の深い勝負とお感じになるのではないでしょうか。

 原田は勝負ごとはほとんど致しません。将棋は幼年時代に見よう見真似で覚えましてプロになり、現役時代も退役した只今でも大変好きであります。新聞棋欄、テレビ将棋、将棋の月刊誌や単行本が楽しい刺激で、突然、八段から八級に腕が落ちることはございません。

 表て芸の将棋道は別、そのほかの競輪、競馬の如き、トランプ、マージャンの如きに興味が湧かない性格であります。囲碁は本山の日本棋院から初段を頂戴していますが、活き死にも分りません。本部の理事、会長時代に日本棋院の本因坊とか名人の就位式に、10回か20回か祝辞を弁じましたので「あいさつ初段」にして下さったわけです。

 東京、千駄谷の本部で対局の場合、午前10時開始、翌朝の午前1時を過ぎることも稀ではありませんでした。50代の原田から見れば20代、30代棋士は恰度子供の如き年齢です。

 若手棋士は14時間、15時間、油汗を流して必死に戦かい、局後の反省会の感想戦も終り帰宅するかと見ればすぐには帰りません。

「さあ、したくだ、先生、マージャン覚えましたか………」ちょうど小遣いの取りごろだという。覚える意志のない者が上達する筈がない。若手諸君の楽しそうなマージャンの音をききながら、読み残しの朝刊、夕刊を眺めて帰る、性格、生き方が違うので少しもうらやましくありません。これが深夜の光景です。

 ある時期、本部のマージャンが盛んでした。マージャンを知らざる者は人間失格の如く横暴な発言もありました。「日本マージャン連盟」ではあるまいし、マージャンを知らないことも自由です。こちらもヘソ曲りかも知れません。野球は甲子園で高校選手が汗と涙にぬれる光景に感動致します。相撲やマラソンの観戦は好きですが、野球の見方はよく知りません。数年前、江川、江川とスポーツ紙に村祭りの子供の下駄のような活字が出ました。

 ドラフトとか、契約金、本部の棋士たちの大きな話題になりました。そこで「江川とかいう大型新人は、走るのか、打つのか、球を投げる名人か、どっちなんですか」身近にいた毎日新聞の名文家の加古記者が「投げるほうです」と言って大笑いされました。無知は無邪気なものです。

 勝負ごとをする代りに読書、書道、俳句の勉強をしたり、将棋界以外の人達とおつき合いに時間を使いたいわけです。世の中には勝負ごとでない趣味も沢山あります。

 正式に稽古致しましたのは長唄とギター、僅かな期間でも拙宅へ先生に来ていただき指導をうけました。中途半ばになりましたのは筋が悪いこと、時間がとれず、その道の先生に無礼になりましたのは筋が悪いこと、時間がとれず、その道の先生に無礼になりますのでやめました。

「松の緑」を舞台でうなったり……一番へたなのに令嬢、令夫人たちが稽古仲間の男が珍らしかったのか「ご立派な態度とお声で……」お世辞を言われました。一手詰を分らない入門者に「あなたは将棋の筋がいいですね」というようなものでしょう。

 第三の男、禁じられた遊びの曲が流れるとギターの先生が最後に模範を示された姿が浮かんで参ります。稽古ごと、芸ごとは長く続けなければいけません。反省しております。

 その点、拙筆ながら毎日、墨をすり、筆をもち書道の手本を開き独習しております。どうも進歩致しません。近年は複写機が普及され鉛筆、ペン習字に力を入れない傾向があります。年賀状や暑中見舞の書体を拝見して名筆に感服するのはごく僅かであります。

 マイコン、パソコン時代とか、いかに文明の利器が進歩致しましても、昔しからの基本である「読み、書き、ソロバン」を小学時代にきちんと覚えさせなければいけないと存じます。

 話しが角筋から桂馬筋に飛んだようです。

 局面を盤上に戻します。将棋は「読み」と申します。読みとは先を見て、相手の心を読むことです。覚え始めのごくごく初心者は次の一手に迷い、中級者は「三手の読み」上級有段は10手-20手の手順を読みます。

 プロの高段は次の一手を浮かべ、時には途中の読みを無意識に省略して、到達点と数十手先の完成図をいくつか描きます。そこで―

(以下次号)

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原田泰夫九段のスピーチをそのまま再現した、非常に貴重な文章。

原田九段の声、口調、発音が思い出されて、とても懐かしく感じられる。

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とはいえ、ここに載っているのは序盤も序盤。

将棋でいえばまだ10手以内の局面。

ここから、新潟のイタリア軒で見た関根金次郎十三世名人の紋付きと仙台平の姿に憧れ棋士を目指した話、加藤治郎名誉九段門下内弟子の時代、木村義雄十四世名人と一緒に行った満州慰問、は出だしとして定番。その後、将棋界の話題、世相、諸々の事柄へと話が展開される。

「原田のポン友、白樺の君 加藤博二九段、五十嵐豊一九段」「界道盟」「礼儀作法も実力のうち」「原田の話は桂馬のようにあっちへ飛んだりこっちへ飛んだり」なども定番。

毎回、よく出てくる定番の部分と、新たに挿入される話題のバランスが絶妙で、原田節は多くの人を魅了していた。

話が面白いので、どんなに話が長くなっても、皆が喜んで聞いていた。

いつもの定番の話が出てこないと、お客さんが承知してくれないほどだった。

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(以下次号)で終わっているが、翌月号に次のように書かれている。

近代将棋1983年1月号、原田泰夫八段(当時)の「棋談あれこれ」より。

 前号末尾(以下次号)は編集部が気をきかしたもの。20頁ぐらいでないと口語体での講演はおさまらない。ご寛恕を。

 

原田泰夫八段(当時)「芸能部の王様は飛角金銀桂香歩をうまく活用なさればいいじゃないですか」

近代将棋1982年2月号、原田泰夫八段(当時)の「棋談あれこれ」より。

箱根、石葉亭にて(十段戦第5局)

 加藤一二三十段と挑戦者・米長邦雄棋王の七番勝負第5局の立会をさせていただいた。41歳の十段に38歳の棋王、読売棋欄の日本一に全語句地方紙棋欄の日本一が挑戦、どちらのタイトル保持者が光るか、興味満点の顔合わせ、対局当日の読売朝夕刊に眼を通す。

 第1局…10月27・28日、東京千駄ヶ谷「玉荘」米長勝ち。第2局…11月5・6日、鶴巻温泉「陣屋」加藤勝ち。第3局…11月17・18日、熱海温泉「美晴館」米長勝ち。第4局…11月26・27日、金沢「金沢ニューグランドホテル」加藤勝ち。2対2、改めて三番勝負の形で箱根強羅の決戦であった。

 持ち時間は一人9時間、二日がかり。十段が上座、棋王の先手番。対局室は最上階の特別室「暁」この部屋で各種の大きなタイトル戦が行なわれた。第5局…12月9・10日、両日とも快情、箱根山の眺めはすばらしかった。

 観戦記は山本武雄八段。副立会は11月17日「将棋の日」に贈八段、原田門下の佐藤庄平君。記録係りは権橋五段門下22歳の大野八一雄三段。読売の担当は文化部の山田史生記者。前夜に平井芸能部長、当日から対局終了まで吉村文化部長が同席された。

 お世話役は美人聡明愛嬌兼備の若旦那夫人が陣頭、中年婦人清楚なタニさん、肉感的なヒロさんがあれこれ気をつかって下さった。石葉亭で三泊、想い出の風景、今も残る声を紹介する。楽しく学んだ、感謝感謝。

声の風景

○対局開始5分前、新調紺の洋服にコゲ茶の靴下、横綱北の湖の如き「神武以来、18歳八段」の記録をもつ加藤十段が上座に着く。すぐ立ち上り広大傾斜、各種樹木の庭園を眺める。元気いっぱい、闘士発散の姿であった。

 まもなく、茶の大島に薄茶の袴、羽織の紐まで茶で統一した「さわやか流」の米長棋王が笑顔を浮かべて登場する。

米長「箱根の緑りも、よござんしょう」

加藤「――」無言。

 応接間に石葉亭の大旦那が椅子席に「箱根の緑りも、よござんしょう」が口癖、これを知っている原田はつい笑ってしまう。

○休憩前後、棋王が手洗いに立つ、或いは椅子席で盤側に不在の時、十段は米長陣の座ぶとんの背後に立ち盤上を見る。自陣から読み、敵陣から自陣を眺めれば見落しが少ない。

 へんな癖で棋士良心がとがめるのか、2分か3分で自分の席に戻ろうとする。その瞬間

米長「どうぞ、どうぞ、ご遠慮なく」

加藤「――」無言。

○朝食は対局者と関係者も一緒、この方が手数が省ける。しかし、対局者は自室で食事したいなら、それも自由のしきたりがある。

加藤「食事は自分の部屋でします。希望は、なんでも結構です」

米長「皆さんとご一緒でいいです」

○担当の山田記者は誠実善良、相手の立場に立ち、蔭で厚意的配慮の淡々流。昼食に十段が”握りずし”の注文、控え室の山田さんは世話役婦人に「私も加藤さんにおつき合いしましょう。加藤さんの方だけ、三、四個多く入れて下さい」と念を押す。

 帰りのキップはバラバラに帰るので、わざわざ出かけて確保された。対局中、東京、大阪の本部大盤解説場から「次の手をお知らせ下さい」電話の応答。読売本社に知らせ、報道記事を作り、寸暇もなし。これからは将棋連盟の本部から本部へ連絡すべきだ。第二日目の中盤後からだんだん控え室もあわただしくなるから。

○吉村文化部長、平井芸能部長、将棋界へのご理解と愛情は人一倍の感じ。性格の相違が面白い。初日の朝食後、平井さんは社へ。

原田「もうちょっと、ごゆっくしては」

平井「正月の記事を沢山作るんですよ」

原田「芸能部の王様(部長)は飛角金銀桂香歩をうまく活用なさればいいじゃないですか」

平井「いや、そうもしていられません」

 吉村さんは悠々、将棋は少々ご存知とか、謙遜型は強いから案外強豪かも知れない。何れ停年、優雅な人柄、東京の区長か市長になり将棋介発展にご尽力願いたい、将棋ファンと帰人票で政界にお出まし願いたい、ほろ酔い懇談は楽しかった。

○山本八段は静粛無言観戦がお好き、恩師の金易二郎名誉九段の態度に酷似されてきた。

 本局68手目、加藤十段が35分の熟慮の5三桂を1分以内で「ここは5三桂と打ったらどうでしょうか」と控え室で特別発言、先輩八段のぼけない感覚を喜んだ。

 読売将棋間の継続隆盛に、山本さんの功績を見逃すことはできない。本部、長年の理事、不言実行、威張らない人。不遇不幸な人の気持がよく分る人。いい人である。

○佐藤庄平八段は原田の一番弟子、青年時代に病気でなければ、とっくに八段に昇進していたと思う。棋才豊か、常識あり、解説指道、執筆など、40代での上位、彼は今「成増名店街将棋囲碁会館」の講師として幸福な人生を送る。囲碁は将棋棋士中では一位か二位、アマ七段ぐらいらしい。将棋もA級選手と比較しても見劣りしない。

 自己宣伝せず、ファンに慕われる佐藤君に八段、成増地区の碁将棋ファンは心から喜びの拍手、理事会の好手だった。

朝日アマ将棋名人戦

 朝日新聞社主催の「第五回朝日アマ名人戦全国大会」は12月7・8の両日、東京新宿の厚生年金会館で開催された。開会の朝、日本アマ将棋連盟の佐橋滋会長、朝日本社の中江編集局長のあいさつ、原田が千駄ヶ谷本部代表として祝辞を述べた。

 朝日新聞社の行事に出席したのは久しぶり、皆さんは好意的に迎えて下さった。昔しから朝日は将棋界の普及にご尽力、育成された。戦前から「大学将棋」を一貫して後援協力、現在、日本一の「職団戦」は原田普及部長時代の創設なので感謝感謝である。

「朝日アマ名人戦」は全国13ブロックから代表32選手が、前年度の小林純夫第四期名人(奈良)への挑戦権獲得をきめる。

 旅行続きで調査不足だが、東京代表の元奨励会二段加部康晴君(26歳)が優勝ときいた。「流石元プロ二段は―」とプロ棋士の評価を高めた。人柄のいい好青年に幸あれ。

 大会後に「アマ・プロ角落戦」が行われた。7対2、5対4、5対4、三回戦ってアマ特別強豪が2勝1敗の勝ちこし。星数はプロ15勝、アマ12勝「いい勝負」。

○12月に加藤十段と米長棋王は、12局と11局。これまで1ヵ月で最多対局は大山王将の15局「それがご自慢らしい」と米長さん談。普通の体力では入院するよりない。

 原田は対局に追われず健康的な手順、7日朝、厚生年金会館で挨拶後、大阪へ。

 8日は和歌山市農協中央会で2時間半の講演。夜の10時頃、石葉亭へ到着した。忙殺はご免、花鳥風月の気分ゼロの人は、日本人でないような感じがする。

○毎日新聞の木曜夕刊「あの店、この店」欄に快男児加古記者のご依頼で約30年在住の阿佐ヶ谷の赤ちょうちん、縄のれんを4,5軒紹介した。本誌の酒道に心得ある名記者はそれを書けというが、これにて終結、なにとぞご寛恕を。

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昭和の雰囲気を味わいたい時には原田泰夫九段の随筆が一番。

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肉感的という言葉を見たり聞いたりしたのは何年ぶりだろう。とにかくとても懐かしく感じられる言葉だ。

原田泰夫九段の日常会話には、たとえば「歌舞音曲」、今回の終わりの方にも出てくる「花鳥風月」など、やや文語体に近い言葉が出てきて、それが多くのファンが楽しみにしていた原田節だった。

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大旦那の「箱根の緑りも、よござんしょう」も含めて、石葉亭へ一度行ってみたくなるような気持ちになる。

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平井芸能部長は、山田史生さんの前の将棋担当だった平井輝章さん。

「芸能部の王様(部長)は飛角金銀桂香歩をうまく活用なさればいいじゃないですか」は、他のケースでも使える実戦的な言葉だ。

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日本アマ将棋連盟の佐橋滋会長。

佐橋滋さんは元・通産次官で、通産省(現在の経済産業省)時代は「ミスター通産省」と呼ばれていた。

城山三郎さんの『官僚たちの夏』の主人公のモデルにもなった人だ。

 

四段昇段を逸した次点者に贈られた賞など

近代将棋1974年6月号、原田泰夫八段(当時)の「棋談あれこれ」より。

名人戦(中原・大山七番勝負)

 名人戦が始まると朝日新聞の配達が待ち遠しい。帰宅がおそく本部へ寄らない時は、駅の売店で買う。第一日目の進行はどうか、二日目の夕刊には勝敗がついたか、どんな内容か、どちらが有利かを見る。

 二人は全棋士に勝ちこしている最高の実力者同士であるから「大名人戦」と言ってもいい。今回は「いい勝負、互角」の声が多い。

 第一局目の観戦記は作家の山口瞳先生が担当された。将棋界と棋士に愛情の深い方で、行間に温かさが流れる名文、楽しく拝見している。書き方の見本を学ぶ。

 第33期名人戦七番勝負の日程が発表された。第1局=4月9・10日、東京渋谷「羽沢ガーデン」第2局目=4月8・9日、兵庫
玉場「七福荘」第3局5月1・2日、神奈川箱根「ホテル花月園」第4局=5月9・10日、神奈川湯河原「ゆがわら石亭」

 以後の予定は、第5局=5月21・22日。第6局=5月29・30日、第7局=6月6・7日。

 親しいなわのれんで一パイやっていると「どっちが勝ちそうですか、私はこちらにのっているんですが―」酒場の勘定を賭けている。中原ファンと若い層は中原のり、小野田元少尉の帰還で大正生れの株が上ったのか、大山のりも相当ある。

「さあ、困るご質問ですね。どちらか四番勝つまでは、ほんとに分りませんよ」これでは答えにならないが、答えようがない。

 前号の「中原、大山、名人戦の対決」東公平さんの読みものは面白い。こういう文はなかなか書きにくいものだが、読みやすく、名人戦を鑑賞のために参考になる。東さんは大変な努力家で、一流の観戦記者、功労者の一人である。

 名人戦の速報大盤解説は有楽町の朝日新聞社裏、丸の内ピカデリー横で特設台で行なっている。一日目、二日目とも正午と午後5時。対局終了後は三日目の全局解説で正午と午後4時。雨天の場合は中止することがある。

 解説者は第一同日、大内八段。第二周目、加藤九段。第三局目、松田八段。第四局目、花村八段の予定。劇の操作の達人、佐藤健伍五段が飛鳥の如く、鮮やかなさばきを示している。さぞ、疲れることだろう。

「初めてですから、うまくできますか、どうか、これも勉強です」謙虚な大内さんの解説をきいた。昭和薬科大学の将棋講師だけに分りやすい、「何の因果で貝殻漕ぎなろうたー」の貝殻節の名手は声がよくマイクにのっていた。好評の筈、5級以下には指し手の進行が、もうチョッピリゆっくりの方がありがたいとのことだった。

 大盤担当の社の宣伝課に原田も是非弁ずるようにとの注文。20年以上も前からある時期まで松田、五十嵐、原田の三人が専属の形で、三日目は木村十四世名人の総評が人気を高めた。名人は昨年まではお元気であった。目下、鎌倉にご入院の中、ご全快を心からお祈りする。

 業務局長時代の永井さん、豊川さんは大変な愛棋家で随分お世話になった。大盤解説にも力を入れて下さった。永井さんはお達者で嬉しいが、豊川さんは今は亡し、寂しい。

 どんな世界でも1年、3年たてば顔ぶれが変る。未知の社員の方々に新風を感じた。将棋のご縁で「ああー暫らく……」とをかけて下さる年輩社員があり、ありがたく。なつかしい。

 大盤解説は街頭なので忽ち黒山の人、係りは交通整理、昔と変らない風景であった。

 第一局の二日目は対局場の「羽沢ガーデン」で有料観戦、大広間に約百人が米長、芹沢八段らの名解説をきかれた。新しい将棋会館を建設できれば、タイトル戦観戦がファンに喜ばれるに違いない。

 ご承知のように第一局は大山さんが快勝した。勝率の高い得意の三間飛車で101手まで。

 中原さんが不出来だった。只今(4月19日夜)の夕刊には第一局、二日目の模様が出ている。大山さんの3六歩に中原さんが2四歩と突き捨てたところまで。

 大山流「穴熊」に中原流「高美濃」”二人の自然流”の白熱戦。双方ともに堅城、どちらが有利なのか、まだはっきりしない。朝刊が楽しみだ。26歳対51歳、亥歳生れの両雄が必死に戦かっている姿が浮かぶ。盤上はあくまでもきびしく、局後はつとめて和やかに、互いに尊重しあっている仲なので味の悪いことはない。名局の誕生を期待し敢闘を祈るのみだ。

将棋大賞

 昭和48年4月1日から翌年3月3日まで、全棋戦、全棋士の個人別成績を調査、各社の担当記者が詮衡委員になって協議して「第一回大賞」を決定した。

 最優秀棋士賞…大山十段。勝率一位賞中原名人。最多勝利賞…大山十段、米長八段。連勝賞…中原名人。技能賞…内藤棋聖。敢闘賞…原田。殊勲賞…板谷八段。新人賞…森安秀光五段。特別賞…木村十四世名人。

 これには棋士一人の介入もない。「将棋世界」編集長の太期喬也さんが、お世話役兼司会をして報道関係者のみで選定したものである。相撲、野球、囲碁界には前から賞があり、それが話題になっている。後手、後手で申し訳ないが、遅蒔きながら将棋大賞の実現は好手であった。

木村十四世名人に特別賞は、いいことを考えて下さった。最優秀棋士賞は「大山さんか中原さん」で議論があったらしい。現在の時点では中原さんのタイトルが多い。が、今年は本部の創立50周年であり、優勝97回、勝ち星が千勝にいま一息という大山さんを第一回目に立てられたものと想像する。

 一年間の成績や記録は近く本部から出る「将棋年鑑」をご覧願いたい。本誌でも別項で発表されるのもいいと思う。受賞者の一人、一人は本誌の愛読者なら納得がゆくのでないだろうか。それぞれ大奮闘された棋士ばかりである。

 最も驚くことは原田が立てられたことだ。敢闘賞に感謝。降級者に受賞とは恐縮、委員各位に一パイおごりたくなる。正月以降は不戦勝ち1を含めて2勝12敗、惨憺たるもの。年間を眺めると最後の「最強者」になりに記念対局で中原さんに勝ち、一年間で51局、26勝25敗、一番だけ勝ちこしになっている。

 その場にいないので分らないが「彼も可愛想だ、だいぶ頭が光ってきた、敢闘賞でもやりましょうや」そんな委員会の雰囲気でなかったか―。ありがとうございました。

「日立賞」に感謝

 昨年の秋に日立製作所から、ご理解ある質助金をいただいた。次代の将棋界をになう育成費に活用することであった。各界は技術の練磨と人間教育が盛んで、新人の育成に力を入れている。将棋界の場合は奨励会の青少年棋士に将来を期待するよりない。

 きびしい規定で、せまき門、四段昇進決定戦は運命を左右するほどのもの、決戦の敗者を一番に激励したくなると述べた。「どうぞ然るべくお使い下さい」とのお話し。感謝。

 現在、四段昇進を逸した次点者は、沼、青木、酒井、桐谷三段とのこと。それに今期順位戦で惜しくも昇級、昇段を逃した次点者、芹沢八段、佐伯七段、森安五段、若松五段に日立製作所からの激励賞を贈ることになった。4月22日、「将棋大賞」と「日立賞」を千駄ヶ谷の本部で行なう。

 三段陣と、奨励会の諸君たちよ、がんばり給え、諸君たちの実力を評価し成長を大いに期待している方々のためにも。

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細かい説明を加えるのが野暮に思えるほど、流れるような原田節が心地良い。

将棋世界同じ号のグラビアより。将棋大賞授与式の模様。千駄ヶ谷の旧将棋会館の一室で。

「実は俺にもB1で怖いもんが一人いるんや」

将棋世界1993年9月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「才能」より。

「好き」と才能とが、しばしば手をつなぎあっていないところに悲劇がある。死ぬほど好きな道も、才能がないためにあきらめなければならないという人が、この世にはごまんといる。

 そこそこの才能があり、そのおかげで好きな道を職業に選べたら、ただそれだけで幸せと感謝すべきではなかろうか。涙をのんであきらめた人からみれば、それほど素晴らしいことはないのだから。

 逆に才能があっても、その道が特別に好きでないという場合もある。自分にあれだけの才能があったらなあと仲間も羨む若者が、他の道を選ぶと言って惜しげもなく棋界を去っていった。17歳三段、関西奨励会では最有望視されていた若者である。

 以前、ある人から「将棋界と碁界は天才という言葉を安易に使い過ぎる。天才とはアインシュタインとかレオナルド・ダ・ビンチのような人類史上稀な人に対して言うもので、みだりに用いると価値が下がる」と言われたことがある。

 升田幸三実力制第四代名人の実戦集の紹介文を依頼されて、私は「升田さんは限りなく天才に近い人ー」と書いた。天才であると言い切ることをためらったのは、先の抗議が念頭にひっかかっていたからである。しかし言葉のアヤはどうあれ、升田将棋とあの人の持っていた人間的魅力に対する私の評価は変わらない。

 才能という点では、私らが若い時代にも格別にすぐれた棋士たちがいた。二上さんや加藤一二三さんは今、若者として出てきても大活躍するであろう。

 私より丁度二十歳年上だった本間爽悦八段は、私が奨励会に入るとき意地悪をしてなかなか入会を許してくれなかった人だが、のちには気があってよく一緒に飲むようになった。

 飲み始めは上機嫌で人当たりがよいので、つい気をゆるしてしまうのだが、その後が大変であった。ビールが好きでビールしか飲まないのに二本も入ると人が変わる。顔つきも別人のように険しくなって、誰彼なしに大声をあげて痛烈に非難、攻撃しはじめるのである。

 しまったと気がついた時はもう間に合わない。飲むピッチも早くなり、十本空ける頃はこの世に怖いものは何もない状態となる。こんな具合だから一人で飲みだして泥酔の末警察のお世話になることもめずらしくなかった。

 深夜連盟に電話が入り、大阪天満の交番所に塾生が引き取りにいくと、目を座らせた本間さんが警官たちを前にして「お前らおれに両桂で勝てる奴がおるか、勝てると思う奴は束になってかかってこい」といきまいていた。

 当時関西棋界では有名な話。

 その本間さんがあるとき「実は俺にもB1で怖いもんが一人いるんや」と言いだしたので私は驚いた。当時本間さんは星一つの差でA級入りを逃すということを何度か続けていて、日本一の七段、日本一のB級と言われていた。タイトル戦では大山さんをあわやという瀬戸際まで追い詰めたりしたし、Aクラスにも負けこしている相手は殆どいないというのが自慢であった。だから怖い者なんかいないと言うのはアルコールの威勢を借りなくても、あながち法螺ではない。その本間さんが声をひそめて「B1に怖い者がいる」というのである。一体それは誰なのか、興味を引かないわけがない。

 すると意外な人の名が出てきた。「それはな、大友や。あいつの将棋には才能がある」

 当時大友昇さんはB2組に落ちるなど本間さんとは対照的に不調であった。その大友さんが怖いというのである。しかし私は内心「さすが本間さんだ」と感心した。見る目があると思ったのである。今勝っている人を強いというのなら誰でも言える。

 私も大友さんの将棋にはその五段当時から素晴らしさに感心していた。大友さんは勿論その後A級にあがり活躍するのだが、この人には飲む打つ買うの三拍子が常に伴っていた。

 並の人がそれをやるとたちまち崩れてしまうのだが、大友さんはそれを実践してなおかつ強かったのである。私の目にも特別に才能のある人と映じていた。

 その大友さんであるが、後に40歳になるかならぬかの歳で突如引退宣言をして自ら現役棋士としての生命を閉じてしまうのである。

 それは棋界の謎としていろいろな憶測を呼んだ。一説によるとその将棋に魅せられ、また深く尊敬していた升田さんから痛罵をあびてやる気が失せてしまったのが原因だという。

 また「女房が浮気しているのに将棋なんかやってられるか」と荒れていたという噂も耳に入ってきて、こちらが本当の理由だという説も流れたりした。

 真相は不明だが、天才肌の人だけに傷つきやすい面があったのであろう。しかし道半ばにしての思いがけない引退は惜しみても余りあることであった。

 才能という言葉から私には思い出すもう一人の棋士がいて、その人の名も大友といった。「それは私が奨励会から予備クラスに入ったばかりで若さと自信にあふれていた頃のことである。
同じ予備クラスに大友寛治三段がいた。私より少し年上だったと思う。対局は関西本部で行われたが、相手は1時間も遅れて対局室に現れた。規定(当時は30分を超えた分が倍引き)により3時間の持時間から丁度半分の90分が引かれる。

 大友三段とはこの日が初対面であったが、相手の序盤が少し雑な感じがしたのはやはり遅刻の影響があったのかもしれない。

 矢倉中飛車から攻めまくって中盤で、はっきり優勢になった。相手はすでに秒を読まれている。「もう勝ったも同然」と油断したわけでは決してなかったのに、その将棋をひねられてしまったのである。

 大友三段の終盤は強かった。大きな扇子をばたばたさせて顔をあおぎながら、ノータイムで放ってきた二度の自陣角を私は今でも忘れることができない。

 自信に満ちていた頃だけにこの敗北はこたえるとともに、相手の強さに舌をまいた。

 しかし翌年再び顔が合ったときには、これがあの強かった将棋かと疑うほど弱くなっていた。

 そしていつの間にか棋界から去っていったのだが、心か脳の病気に罹ったらしいという噂だけが残った。

 私は才能という言葉を聞くと、この二人の大友さんのことがまず念頭に浮かんでくる。

 そして同時に、流れ星のように消えていった才能にたいする哀惜の念が、心の中に足をひくのである。

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自分にあれだけの才能があったらなあと仲間も羨む若者が、他の道を選ぶと言って惜しげもなく棋界を去っていった。17歳三段、関西奨励会では最有望視されていた若者である」とあるのは、1992年9月、17歳のときに奨励会を三段で退会し、後に医師となった立石径さんのこと。立石さんは、将棋世界2006年9月号の上地隆蔵さんの「元奨の真実」第1回に登場している。

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「将棋界と碁界は天才という言葉を安易に使い過ぎる。天才とはアインシュタインとかレオナルド・ダ・ビンチのような人類史上稀な人に対して言うもので、みだりに用いると価値が下がる」

余計なお世話だと言いたいが、将棋界的には大山康晴十五世名人の「天才と言われている間はまだまだ本物ではない」という言葉もあり、天才という言葉にそもそもあまり価値がないこともたしか。

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本間爽悦八段は弟子にもあまりにも厳しかった。

田中魁秀九段が弟子を怒らない理由(NHKテキストview)

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大友昇九段も本間爽悦八段もB級1組時代が長かった。

その本間爽悦八段が「B1に怖い者がいる」と言っていたのだから、本当に凄い。

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明日は、大友昇九段自らが語る。

写真は、1996年、森雞二九段A級復帰・郷田真隆六段昇段(五段→六段)祝賀会での大友昇九段。近代将棋1996年8月号、撮影は弦巻勝さん。

 

升田幸三実力制第四代名人「将棋は我慢くらべ」

将棋世界1994年2月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「我慢の心」より。

 ここはパパの部屋だよ、と言った息子に「きみんちのパパはお部屋があるなんて子供みたいだね」と友達が言った。そういう小話が新聞に載っている。近頃は子供に部屋があって父親にはないというのが通常になっているらしい。

「家の中で男の一番気の休まるところはトイレ」。アンケートをとると、こういう結果が出たと何かで読んだ記憶もある。

 これではかつての軍隊ではないか。

 テレビではセールスマンが語っていた。

「家を売るポイントは台所を立派に作ること。とにかく女の人に気に入ってもらえるかどうかが勝負です」

 自分のことで恐縮だが、私は新居を作るにあたって、見晴らしのいい一番の部屋を自分の書斎にした。音楽を聞きながら詰将棋を作ったり、ものを読んだり書いたりして大半をそこで過ごす。もし自分の部屋がなければ居間で寝ころんでテレビを観て時間かくれば眠るだけーという生活になるだろう。棋士だからそれで生計維持には別状ないとしても、それでは一家の柱としての威厳がなさすぎる。

 男はまず自分の部屋を確保すべきで、子供の部屋はそれからでよい。亭主関白ではない、「主人」として当然のことである。子供と自分を第一に考える母親(男にとっては妻)のなすがままになってはいけない。職業の種類にもよるだろうが、それはてきめんに仕事にもよくない影響を与える。また子供も、物事の軽重をわきまえない、ろくでなしが育つような気がする。

 母親といえば、昔は玩具造の前などで泣き叫ぶ子供(幼児)を引きずるようにして母親が連れ去る光景をよくみかけたものだが、この頃はまるでそういうことがなくなった。

 その理由が新聞をみていて分かった。ある調査によると現代の子供は玩具を、なんと平均412個も持っているという。どんどん買ってくれるので今の子はだだをこねる必要はなくなったのである。それにしても、その数の多さには驚かされる。おそらく世界中でもだんとつのトップであろう。同時にこれは「甘やかし度」を示すものと考えられる。つまり日本の子供は世界一甘やかされているということになる。

 どんどん玩具を与えると、想像したり工夫したりする能力が育たない。あまり玩具のなかった昔は、将棋の駒からいろんな遊びを考え出したものだ。それで兼価で手頃な将棋の駒はほとんどの家庭にあった。いまは数多い玩具のなかに将棋の道具が入っていない家庭が多い。嘆かわしいことだと思っていると今度は新聞で次のような小話をみつけて、少しはほっとした。

 母親が子供に「買うの反対語はなーに?」と聞くと「我慢」という答えが返ってきた。正解の「売る」よりこの答えの方がはるかに味があって面白い。買ってほしいのをじっとこらえる子供の心が伝わってくる。小さいうちに我慢することを覚えるのはいいことだ。それを身につけないで大きくなると、困るのは自分自身である。

 勝負ごとにおいても我慢は非常に大切なことで、近頃私がよく好局を落とすようになったのも我慢する力の衰えのせいである。年のこともあるようだが、残念でしょうがない。

 あるテレビで、「将棋とはどういうものですか」と聞かれた升田さんは、しばらく考えて、「我慢くらべですね」と答えた。他の人ではなく升田さんの言葉であるところに重みがある。

 我慢という言葉の意味はしかし多様である。そのときの状況に応じて変化する。

 腹を立てない、音を上げない、あせらない、あきらめない……。

 とくに「一か八かやってやれ」「えい、しゃらくさい」などと思いだしたらおしまいである。これは決断力とか直感力とかいいほうに解釈されがちなだけに用心しなければならない。実際はカモフラージュされた短気にほかならず、後でてきめんに咎めを受けることになる。

 かつてかなり鳴らしたテニスの選手と飲んだことがあるが、そのときの話が面白かった。

「あきずに何度でも同じ所へただ機械みたいに打ち返してくるやつがいる。こいつテニスしか考えることのない馬鹿じゃなかろうかと腹が立ってきてね」。自分も”御同役”のはずなのに、と笑いたいのを抑えて聞いていると「まあ、自分も馬鹿になってつきあってやれと、いうなればあきらめの心境ですね。先にクソッとしびれを切らしたほうが負け」。

 あきらめの心境というのも我慢の一種としてつけ加えなければならないようだ。

 人間の心は不思議なもので、あきらめてしまうとそれまでだが、あきらめたつもりなら頑張りがきくのである。

 優勝したゴルフ選手の感想に「我慢のゴルフに徹したのがよかった」という言葉が出てくる。ゴルフでいう我慢とはどういうことを指すのか。ちょっとこれまでとはニュアンスが違うような気がする。将棋やテニスのように互いに妨害しあうゲームと違うからだが、この点についてはゴルフ下手があれこれ推察するより、ゴルフ上手の読者の読みにお任せしたほうがよさそうだ。

 ゴルフで不思議に思うのは、これをやり始めてやめる人がいないということだ。将棋は大抵の人がやめていく。私と同年輩の人は、かつて殆どの人が将棋を覚えた筈である。それがいまは例外といっていいほどやっている人はすくない。それはやはり勝負の厳しさに関係があるのだろうか。

 たとえばゴルフでは、上手がクラブを5本6本おろすということはない、数字によるハンデがつきそれで力のバランスがとれる。将棋のハンデは駒落ちだがこれが流行らない。力に大差があっても駒を落とされるのは屈辱的ととる人もいる。

 とくに初対面では(一方がブロとかの場合は別として)駒落ちは相手に失礼という意識が強いので避ける。

 またゴルフでは、スコアは悪くてもロングパットが決まったとか、プロ並みのバンカーショットが出たとか、部分的に思い出して楽しむことができる。将棋は勝ち負けが全て。いいのを逆転負けすればますます悔しさが増す。優勢になった局面だけを思い出して楽しむということが出来ないゲームである。

「段」を贈られた人のその後を聞くと、「負けるとみっともないので」と逆に指さなくなる人が多い。連盟としては、これからますます将棋を楽しんで下さいという思いで出しているのにこれでは段位がかえってマイナスになる。

 それを憂えて大山十五世名人が生前面白い提案をされた。「歩の使い方初段とか大駒の使い方三段という出し方はどうかね。これなら勝ち負けにそれほどこだわらなくてすむ。免状も売りやすいしね」。いかにも大山さんらしい柔軟な考え方で、あるいは妙案かもしれない。

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「一か八かやってやれ」「えい、しゃらくさい」と思って攻めて、それで勝つ快感は将棋ならではのもの。

しかし、このような攻め方はアマチュアの高段者以上に対しては通用しない。

アマチュアは、強い四段と強くない四段の間に大きな河があると言われている。

この辺が境目、強いアマ四段同士以上の戦いになると、お互いの手を殺し合う我慢くらべの戦いに様相が変わってくるのだと思う。

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言われてみると、私は将棋であまり我慢をしていないような気がする。我慢を心がければもう少し将棋が強くなれるのだろうか。

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私が書いた「広島の親分」の故・高木達夫さん。

高木さんは広島の的屋の親分(村上組二代目組長→中国高木会初代会長)だった方で、名前が飯干晃一著『仁義なき戦い』にも出てくるほどの大物だった。戦前は木見金治郎九段のアマチュア枠の門下だった。

抗争の当事者であったのは1950年代初頭まで(映画でいえば『仁義なき戦い 広島死闘篇』)で、その後は抗争には関わっていない。基本的に的屋は物を仕入れて売る商売なので、抗争があって街中が不穏な雰囲気になると売上が落ちるし、そもそも抗争に加わって組員が戦闘態勢になると売上はゼロになり持ち出しばかりという状態になってしまう。

高木さんが「ワシは平和主義者じゃけん」と何度か言っていたのも、そのような背景があったからだ。

高木さんが引退後は、会館建設、アマチュア棋戦などで将棋界に大きな貢献があり、日本将棋連盟から七段を贈呈されている。

高木さんは「将棋が、わしを救ってくれた」と言っていた。

高木さんがいた世界は、引くことをしない人があまりにも多く、それで亡くなっていった人が多い。

高木さんは、守るべきところでは守る、引く技、我慢する技を将棋で身につけたという。先を読む必要性も将棋から。

将棋によって我慢すること、引くことを身につけ、肩の力を抜くこともできるようになったという。やはり高木さんがいた世界の人は、稼業的に肩の力を抜くことをしない。

至近距離でなければピストルは命中しないが、ピストルで狙われたときに肩に力が入っていると撃たれてしまう。こちらが肩に力を入れないと相手に一瞬怯みが出る。その瞬間にピストルを取り上げて捨ててしまう。

昭和30年代までは、高木さんも狙われることがあった。自らの命を守るため、ビジネスのため、どちらも将棋が救ってくれたという。

将棋によって我慢する心を身につけることは、非常に大事なことかもしれない。