「随筆」カテゴリーアーカイブ

中川大輔六段(当時)が語る宮城県沖地震

近代将棋1995年4月号、中川大輔六段(当時)の「仕掛けのタイミング」より。

 阪神大震災は、死者五千人を超える大惨事となってしまいました。

 被災された方々に心からお見舞い申し挙げます。

 地震で思い出すのは、私が子供の頃にあった「宮城県沖地震」。

 今回の地震ほど大きなものではありませんが、それでもその時のショックは、今でもはっきりと覚えています。

 地震が起きた時、私は広場で友達とキャッチボールをして遊んでいましたが、突然の大きな揺れに、何が起きたのかわかりませんでした。

 揺れがおさまって、とりあえず家に帰らなければと思い、急いで自転車を走らせましたが、途中、火事になっている所があり、家の方がますます心配になりました。後で知ったのですが、火災は市内で2、3件だったそうです。家に帰り無事だったので安心したのを覚えています。

 しかし地震の残した爪跡もひどく、ガス、電気はもちろん、水道もろくに使えないありさま。地震の怖さを初めて知りました。

(以下略)

—–

宮城県沖地震は1978年6月12日17時14分に起きた。中川大輔八段が9歳の頃のことだった。

私は地震の時、東京の下井草で家庭教師をやっていて、東京は震度4。

少しして、お母さんがやってきて「震源地は仙台です。ご実家に電話をされたほうがいいですよ。うちの電話を使ってください」。

こういう時、私は変に遠慮深く、「いえいえ、後で電話しますよ」と言って、家庭教師を終わった後、公衆電話から電話した。

物が落ちたりはしたが、実家は無事だった。

それから33年、阪神・淡路大震災から15年、昨年の3月11日に東日本大震災が起こった。

1年経った今でも、まだまだ大変な状況は続いている。

被災地の復興を心から願う。

昨年3月12日のブログ記事→東北地方太平洋沖地震…

—–

今日は、LPSAが「東日本大震災復興祈念・チャリティーイベント」を行う。

◆日時 2012年3月11日(日) 11:00~18:00

◆会場 芝浦港南区民センター (港区芝浦4-13-1 UR都市機構トリニティ芝浦 1・2階)

入場料・参加費は無料で、会場内に義援金の募金箱が設置されている。

・多面指し指導対局(事前申し込み制)

・将棋交流大会

・女流棋士自戦譜大盤解説

が主な内容

来場棋士は、石橋幸緒女流四段・島井咲緒里女流二段・大庭美樹女流初段・船戸陽子女流二段(14~17時)・中倉彰子女流初段(15~17時)・大庭美夏女流1級(15時~)

3/11(日) 東日本大震災復興祈念・チャリティーイベント

1993年の珠玉のエッセイ

珠玉のエッセイ。

将棋世界1994年1月号、中平邦彦さんの「ポケットに夢を」より。

 うろ覚えで言ふのだが、トム・ソーヤのポケットにはたしか、オハジキと、青いガラスびんのかけらと、糸巻で作った大砲と、カンシャク玉と、子犬の首輪がはいってゐた。これこそは男のポケットの原型である。(丸谷才一)

   

 バーゲンでイタリア製のジャケットを買った。両脇のポケットに手を入れようとしたら、きっちり縫いつけてあって用をなさない。

 思うに両脇のポケットには物を入れるものではないと言っている。型が崩れて、みっともないからである。

 そうか、まあいいやと思った。どうせ何も入れないのだから、ちっとも困らない。上衣とズボン、それにコートを着たら、男のポケットは二十もあるが、使わない方が多い。丸谷さんは、それが無益にしてかつ不必要なもの故に男にとって捨てるに忍びない重要なものだという。

 そのジャケットを着るたびに、棋士の顔があれこれ浮かんでニヤニヤしてしまう。両脇のポケットを、いつもふくらませている村山七段や有森六段らは、こんなジャケットを買ったら、腹を立てて返品するだろう。神吉五段はカシミヤのコートを着ているが、ポケットがふくらんでいて、ちっとも上等に見えない。

 酒場で小林八段の背広を持ったら、何が入っているのか、ズシリと重かった。パーティーの帰りに森安九段が酒場にコートを忘れ、持たされた内藤九段が、余りの重さにあきれ、ポケットを探ったら日本酒の一号瓶が二本出てきたそうだ。

 とは言っても、棋士も最近はおしゃれになった。東京の若手はセンスのいい人が多いし、谷川や羽生はヨーロッパに行っても風景に溶け込んで異和感がない。

 それでもサラリーマンとはどこか違う。サラリーマンの制服は背広であり、その枠から一歩も出られないが、棋士たちは背広をどう着てもいいのである。

 森信雄六段が婚約した。彼を選んだ人は、彼のふくらんだポケットの中にトム・ソーヤを見つけたのだと思う。

—–

中平さんの棋士に対する愛情がものすごく伝わってくる。

そして、森信雄六段(当時)。

感覚的に、直感的に、なぜか涙が出てきそうになる。

リアルタイムで読んでも、そうはならなかったのではないかと思う。

聖の青春」を通しての森信雄七段、ブログを通しての日常の森信雄七段を知るからこそ、感動が増幅する。

「森信雄六段が婚約した。彼を選んだ人は、彼のふくらんだポケットの中にトム・ソーヤを見つけたのだと思う」

年月が経って陳腐化するどころか、もっと活き活きと輝くようになる文章があるのだなと実感させられる。

—–

中平邦彦さん。観戦記では原田史郎というペンネーム。

将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞を二度受賞しているのは、中平邦彦さんと後藤元気さんだ。

—–

棋士-その世界 (講談社文庫)
価格:¥ 399(税込)
発売日:1979-07
西からきた凄い男たち―と金に懸けた夢西からきた凄い男たち―と金に懸けた夢
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2003-10
敗局は師なり―知られざる名勝負物語
価格:¥ 1,264(税込)
発売日:1987-06
棋士ライバル物語―強者(つわもの)たちの盤上盤外
価格:¥ 1,275(税込)
発売日:1990-01
飛翔―谷川浩司 永世名人への道飛翔―谷川浩司 永世名人への道
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:1997-10
名人谷川浩司
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:1983-01

名人の結婚

近代将棋1995年6月号、湯川恵子さんの「女の直感」より。(昨日の続き)

 大山康晴十五世名人は相手の女性の顔もろくに知らずに結婚を決めたそうだ。昔のお見合い結婚てそんなものだったのかなとも思うが、大山先生は、 ”こういう問題は、周囲の人が決めてくださった事に従うのが一番いいのです”  と書いておられる。

 片や兄弟子の升田幸三元名人(実力制第四代名人)が、熱烈な恋愛結婚だったことは有名だ。

 ぐっと若い中原誠先生(十六世名人を継ぐ)は、まさか相手の顔も知らなかったはずはないだろうが、やはり周囲の薦めを受けて後援者のお嬢さんとの見合い結婚だった。   片や米長邦雄前名人が、高校の同級生との恋愛を実らせた結婚だったことは有名な話だ。

 遡って木村義雄十四世名人は後援者のお嬢さんとの見合い結婚だった。

 そして塚田正夫元名人は行きつけの将棋クラブのお嬢さんとの恋愛結婚。早稲田大学将棋部面々の憧れの的だった彼女を、塚田さんがさらってしまったとか。

 う~む、こうして同時代同士の大物を対応させてみると、 永世名人=見合い結婚  短期名人=恋愛結婚

 恋愛感情を結婚に実らせるにはそれなりに手間暇がかかる。永世名人になるような人は、効率よくクリアした?

 谷川浩司王将のタイトル戦の舞台など我々はたっぷりと見慣れていたはずなのに今期の王将戦七番勝負は鮮やかに印象に焼きついた。神戸大震災を背景に羽生善治の全冠制覇を阻止したこと、まさに甦って男を上げた感がある。

 谷川王将はあと一期で永世名人だ。当然十七世名人と目されていたことを私は忘れかけていたけど、思い出した。思えば”羽生名人”はまだ一期目だ。谷川さん間に合うかも知れない。なんたって、お見合い結婚したんだものっ。

 ところで羽生さんはどんな結婚の仕方するかしら、興味津々だ。女性ファンにはこと欠かないし見合いの釣書の条件にもこと欠かない。それはそれで悩ましいだろうなぁ。

—–

この”永世名人見合い結婚”説は非常に説得力を持つ理論だったが、森内俊之名人が初めてこれを打ち破り、羽生善治二冠も間もなく追い打ちをかけた。

—–

旧厚生省の調査によると、見合い結婚と恋愛結婚の比率は1930年代に69.0%対13.4%だったものが、1965~1969年に逆転し44.9%対48.7%、2001年~2005年では6.2%対87.2%となっている。 見合い結婚の比率が急激に下がっているので、”永世名人見合い結婚”説は二十世紀限定での正しい理論だったということになる。

中田功七段らしさ

将棋世界2002年11月号、中田功六段(当時)の自戦記「自分らしく」より。

 私は12歳の時、小学校を卒業して博多から上京してきた。

「東京に行けば俺より強い奴がいっぱいいるんだ!」

 そう思っただけでドキドキワクワク、早く強くなりたいと毎日思っていた。

 そして上京する日、新幹線に乗った私に父が言った言葉は今でも忘れない。

父「功、酒とたばこと麻雀は絶対やるなよ!」

 はあ? 何じゃそりゃ。12歳の私には元から何のことやらさっぱり分からない。

「父は何であの時あんなこと言ったんだろ?」

 それだけが私の疑問としてずっと頭に残った。

 果たして、長年の謎を解明すべく結局全部覚えてしまった。父の予感は見事的中したのだ。あう。逆効果だよ親父・・・・・・。

 あの時から23年経つ。四段には18歳でなった。それからC2に7年、C1は10年目になる。もう勝つことにも負けることにも慣れてしまった。未だに私の周りは強い奴ばっかりで、しかも前より増えている気がする。うーむ。

(中略)

 私は対局中、心掛けていることが一つある。それは自分らしい将棋を指すことだ。

 棋士になった時感じた。将棋ができる場所と時間があり、指したい相手がいる。それだけでとても幸せなことだと。

 でも本当にそれだけで満足してしまった。今まで好きなこと、楽しいことしかやらず、将棋の勉強をしたなんて記憶はもう浮かんでこない。

 朝起きて鏡を見てびっくりしたことがあった。

(父が私を見ている!?)

 父は去年亡くなった。私の順位戦の成績だけを気にしながら最後まで酒とたばこをやめなかった。対局の日の朝、父に似てきた自分の顔を見つめる。「父さん、僕はもうあんまり強くはなれないかもしれないけど俺らしくやってくるよ」。

 今のありのままの自分、生き方考え方、喜怒哀楽全てを将棋なら表現できる。そしてやはり勝ちたい。勝てば父の喜ぶ顔が浮かんでくる。

(中略)

 私は子供の頃から振り飛車党で特に三間飛車が大好きだ。この戦法が一番自分の性格に合っていて後手三間などは駒組みが一手遅れ気味な所も私らしいと思ったりする。奨励会の香落ち上手も三間飛車ばかりだった。軽く捌いて終盤玉頭戦で勝負、B型の獅子座プラス九州男児、調子に乗るとどこまでも行ってしまう反面、悪くなるとあっさり大差で投了もよくある。

(中略)

 さて最近の私の趣味はと言うと草野球、スロット、お酒。朝から順番にやれば一日が終わる仕組みになっている。うーむ将棋の勉強はいつだろう? 本誌を読むぐらいか。月に何日もないな。うーん。

 ただ新聞は毎日読んでいる。喫茶店で何紙も読み比べていつもいろんなことを考えるようになった。そのおかげかどうか対局をやっている時もいろんな角度から客観的に見れるようになった気がする。

 今まで私はいつもマイペースだった。当然これからもマイペースだろう。でももっと自分らしい将棋を指したいと思う。今までよりちょっとだけ・・・・・・・・・頑張るぞ!

—–

中田功七段らしさが表れた文章だ。

お父さんとの心の中での会話など、涙が出てしまいそうになる。

中田功七段の将棋は、一目見れば中田功七段とわかるような個性溢れる将棋だ。

”自分らしい将棋”は実践され続けている。

「あれはね、ここ三年間、私の見た将棋のなかでいちばんいい手だよ」と語られた一手

—–

「○○と△△と□□は絶対やるなよ」と言われると、その時は当然そうだと納得していても、その後に意識的あるいは無意識にやってしまい、それが習慣性を持ってしまうということは数多くありそうだ。(もちろん非合法ではないこと)

私などは、高校生までは酒、大学2年まではタバコ、は最も忌み嫌う物だった。

人に言われないまでも、自分の中で一生やらないと鉄板の意志を持っていた。

しかし、、そのような意志など豆腐よりも軟らかく、紙よりも薄かったことを後になって知ることになる。

おもろうて、やがてさみしい・・・

じんわりとした哀感が絶妙な文章。

先崎学八段の2001年に刊行されたエッセイ集「フフフの歩」より。

 一月の後半に函館へ行った。当地で行われていた将棋まつりに出演するためである。

 函館へは夏の競馬競輪やら冬のスキーやらで何度も来ていて、土地鑑もそこそこある。裏将棋史に名高い中村さんと郷田の点のある・ない論争が起こったのも函館五稜郭のスナックである。

 好きな土地で楽しい仕事というところだが、僕の気分は澱んでいた。数日前に順位戦を負けたからである。ここまで七連勝、レース展開にも恵まれ、あと一番勝てば昇級決定だった。三番連続である。できることなら一発ですっきり決めたかった。

 将棋は完敗だった。

(中略)

 得意なはずの終盤で完璧に競り負けたのはさすがにショックだった。終わってしばらくは鳩尾(みぞおち)のあたりに割り箸が一本詰まっているような感じだった。

 重い気分は函館でも抜けなかった。頭が熱く微熱が感じられる。一部の神経が少しずつ反乱を起こしていた。こんな時は自然と無口になる。

 控室でボーッとしていた。そこに奴はやってきた。

 神吉登場。一瞬に場の空気が変わる。住宅街に歌舞伎町が混ざるようなものだ。

 神吉さんだけ当日の朝入りである。スターは違いまんなあ。

「おう先チャン、元気しとったか、こっちは大変やで、昨日も五時まで六本木で飲んどってなあ、徹夜で飛行機はしんどいでえ、おう市ちゃん、相変わらず素敵やな、おうヒロエも素敵やで、寒いなあこっちは。ブルブルやで、おう和ちゃん、ちょっとデジカメ撮らしてな」

 最新式のデジタルカメラで高橋さんにはいポーズなんていっているところへ二上会長が現れた。神吉さんの声がまた高くなった。

「これはこれは会長、お元気そうで何よりです。この神吉、将棋連盟のために、二上会長のために身を粉にして働かせて頂きます。函館といえば二上会長の出身地、ということは将棋連盟の直轄地、二上幕府の天領でございます。二上会長バンザーイ」

 本当に手を挙げてバンザイをした。我々が呆気に取られていると津好きを喋り出した。

「この神吉、先崎とともに函館の夜の街を、二上会長とともにどこまでもお供致します。神戸では神戸の女、東京では東京の女、函館では函館の女、これが神吉のモットーでございます。地元の英雄、二上会長に今宵はどこまでも、なあ先チャン」

「はあ」

「ほなもう一度いくで、二上会長、バンザーイ」

「バンザーイ」

 ついついつられてしまう自分が情けない。

 思えばこの時からいつにも増してテンションが高かった。それは夜になっても持続した。そして、大変なことになっちゃったのである。

 夕食は地元の海の幸づくしだった。カニ、カニ、カニ。大御馳走である。しかし、食っている場合ではなかった。

 神吉、先崎の間に屋敷君が座る。屋敷君にとっては不運な席だった。あるいは神吉さんの計算だったのかもしれないが。

 我々の目の前に、清水、中井、高橋の女流三人が座った。これも不運だった。

「まあ飲めや屋敷君、ほらぐっとぐっと」

「はあ」

「先チャン、美味いなあ、酒は。そう、我々がこうして飲めるのも」

「飲めるのも」僕が合いの手を入れる。もうヤケである。

「二上会長のお陰です。二上会長、バンザーイ、夜の街バンザーイ、きれいなネーチャンバンザーーイ」

 場は完全に神吉色に染まっていた。神吉ワールド。そこは魅惑の世界。誘惑に満ち溢れた世界である。

 我々があまりにも景気良く飲むのを見て、女流三人組も日本酒を飲み出した。

「先チャン、そろそろいくで、ジャンケンや」

 ほらはじまった。これを恐れてたんだ。学生の飲み会じゃないんだから、と言おうとした瞬間延びた右手が恨めしい。

「あっそれ、最初はグー、じゃんけんポン」

 神吉が負ける。バカー。次、僕が負ける。バカー。「次は屋敷君もやで」嫌がる屋敷君も神吉ワールドにおちていた。三人でパカパカ。バカである。

 神吉軍の進軍はとどまることを知らない。

「ヒロエ、いくでえ、ほらジャンケン-」

「えー私はいいです、そんなに飲めないです」

「ほな、半分でいいで、ほら右手出して、ほら」

 とにかく強引なんだ。これが。

 中井さんがおちて、高橋さん清水さんも猪口でなら、ということで順におちた。

 めちゃくちゃ。

 じゃんけんの回数は十回や二十回ではきかなかったろう。島さんと森下さんが、目をまるくしていた。

 ほうほうの体でお開きになった。しかし神吉の夜はおわらない。屋敷君はふらふらで帰り、女流三人もさすがに帰り、神吉、先崎が、二上会長の後にぞろぞろついた。

 函館の道は凍っていた。神吉さんは三千円も出して靴にすべり止め加工したにもかかわらず、悪戦苦闘している。

「うわぁ、恐いなこれ、おい先チャン、よくそんなにすいすい歩けるなあ」

 地元出身の二上会長はもちろん、僕も小学校の時札幌に住んでいたので慣れているのである。神吉さんはそろりそろりと歩く。それでも遂に転んだ。ずってーん。ああ、なんで僕はカメラを持っていなかったんだろう。

 やっとのことで入ったスナックは、どうみても神吉好みではなかった。妙齢のというか、元・若い娘というか、がいっぱいいた。神吉さんの顔が失望でいっぱいになる。

 会長の歌をニ、三曲聴いたところで、神吉さんがたまらず切り出した。

「先生、この店も大変ええ店ですけど、その、何ちゅうか、もっと、色んな店を、せっかく函館に来たんですから、楽しみたいんですが」

「よ、よく分かった。よしもう一軒いこう」

「よっ会長太っ腹、さすが我々の会長や。な、先チャンもそう思うやろ」

「いや、全くおっしゃる通り」

 継ぎの店、入口の看板に大きく書いてあった。

「唄えて飲めて、将棋が指せるスナック」

 ここで神吉さんの腰が抜けた。当夜の神吉さんは、ツイてなかった。

 悄然としている神吉さんに切り出された。

「先チャンなぁ、順位戦、上るのやめとき」

「なんでや、変なこというなあ」

「あんな、B2にいったらB1にいきたくなるやろ、B1に昇ったらA級にいきたくなる。A級なんて上ったらしんどいでえ、あのメンバーで降級争いなんて大変やで。下のままで、酒飲んで楽しく暮らした方がええで、な、今からでも遅くない、やめとき」

 僕はこれを、変則的なエールだと受けとった。そういう神吉さんだって楽には見えない。みんな大変なんだ。

「分かった、やめるよ」

「ほんまかいな」

「やめる。負けるのをやめるよ。やっぱり勝つことにする」

「そうか、まあ頑張ってな」

 ラーメンで仕上げて帰り道、いやはや寒い寒い。神吉さんはデブのくせに寒さに弱いのである。

「うわあ、こらたまらんでっせ、おうさむ、会長、神吉はブルブルでっせ」

「酒、飲むと寒くなるんだよ。少し痩せられて丁度いいだろ」

「そんな殺生な、こんなに寒いとは思いませんでしたぜ。うわ、この辺りは一段と寒いですね」

 会長の顔がニヤリとなった。

「神吉君、こ、ここは寒いはずだよ。ほら、う、うえ見てみ」

「はあ?」

 先崎、神吉が上を見ると、ああ、そこには、

「山一證券」

 の看板が・・・。

 しばらく歩く。会長がまたニヤリと笑う。

「神吉君、もうすぐもっと寒くなるよ」

 咄嗟に意味がおぼろげに分かった。顔を上げるとやっぱりあった。その文字が、目に飛び込んで来た。

「北海道拓殖銀行」

 みんな大変なんだ。俺も頑張らなくっちゃ。

 ふと見ると、神吉さんも同じことを考えていたのか、珍しく口を開かず、トボトボと歩いていた。

—–

山一證券と北海道拓殖銀行が倒産したのは1997年。

同じ年に経営破綻した三洋証券も含めて、本社および東京本部が三社とも永代通りにあったので、中国人の風水師などは”倒産通り”と呼んでいたという話もあったほどだ。

その後の1999年には、永代通りにあった東急百貨店日本橋店も閉鎖されており、20世紀末の永代通りは散々な目に遭うことになる。

—–

妙齢の女性ばかりがいるスナック。

さすがにそのような店は行ったことがないな、と思っていたが、(今はなくなってしまったが)5年ほど前まで通っていた店は、一人だけが30代後半でそれ以外の女性は皆40代だったことに気がついた。見た目が若い子ばかりだったのでそのようなことはリアルタイムでは意識しなかったのだ。

そう考えると、妙齢の女性ばかりがいる店も悪くないなと思う。