昨日に続いて青野照市九段。
ところで、昨日の記事で大事なことを書き忘れていた。
引用している青野九段の1993年将棋ペンクラブ会報秋号の原稿のタイトルは「文化としての将棋」。
(太字は青野九段の文章)
負けたときの悔しさ
(囲碁は)無論プロともなれば相当前から半目負けでも読み切れるというから、勝負の厳しさは同じであるが、少なくともアマチュアにとっては、高段者を除けば自分の囲った地(実績)が数字で出ることは、たとえ敗れても救いがある。
この数字で出るかどうかが、将棋と囲碁の決定的な違いといえる。子供の頃は将棋から入っても、社会に出ると囲碁に転じる人があったり、囲碁なら交際になるが、将棋は負かすと相手の気分を悪くさせるだけでかえってマイナスになるからと、会社の社長が将棋を指さないのもすべてここに原因がある。
将棋は、相撲、剣道、空手、レスリングなどの格闘技と同じ分類であるとすると、接待や交際には向かないことがよくわかる。
囲碁は、テニスや卓球などと同じ分類なので、接待や交際に向くこともよくわかる。
そういう意味でも、青野九段のこの分類法は秀逸だと思う。
間の文化
青野九段は、一対一で、速度で勝負を決める競技(将棋、相撲、剣道、空手など)全てに共通する大きな特徴は、自己の能力を伸ばすことだけではなく、相手との力関係を考えながら技をかけることである、と述べている。
これを我々は用語として”間”、あるいは”間合い”と言う。この”間”こそ、私は日本文化の根底だと思うのである。
相手との力関係に関係なく、自己の能力と技で勝負する代表例は、ゴルフ、ボウリング、体操、短距離走など。
一見、相手との力関係に関係なさそうでありながら、間合いが必要なのが、マラソン、競輪、競艇など。
私は、日本人が間合いを測るのに長けている民族だと思うのは、ほかにも自転車のスプリントレースで中野浩一選手が十連覇を遂げたことや、レスリングが強いことでも証明されているからである。
言われてみると、全くそうだ。
青野九段は、この後、間と止、曖昧性の魅力などにも言及している。
私はX軸とY軸で形成される四分類が大好きなほうだが、青野九段の競技四分類は、絶妙だと思う。