間宮久夢斎六段の訂正情報

先週の記事(引用したWikipedia)に誤りがあったので、訂正をしておきたい。

4月21日の記事「入玉の鬼、間宮久夢斎六段」での、間宮純一(久夢斎)六段の生まれについて。

Wikipediaでは、間宮純一(久夢斎)六段について次のように書かれている。

間宮 純一(まみや じゅんいち、1908年8月25日 – 1981年11月16日)は、将棋棋士。六段。溝呂木光治門下。静岡県出身。

マミヤ光機製作所の創業者間宮精一のである。(以下略)

これは正しくは、マミヤ光機製作所の創業者間宮精一の父の養子である徳次郎氏の長男が間宮純一(久夢斎)六段。

なので、マミヤ光機製作所の創業者間宮精一氏からみて、間宮純一(久夢斎)六段はにあたることになる。

情報源は、湯川博士さんの著書「一手劇場―将棋巷談」。

この本の中に、間宮久夢斎六段の実弟(間宮登也さん)を取材した記事があり、そこには次のように書かれている。

間宮の家は、登也さんや久夢斎のおじいさんに当たる間宮勝三郎が興した。この人は安政年間に三島で生まれ、藤沢の呉服屋の丁稚から、大仁で木屋呉服店を開業した。生来発明好きで、楠から樟脳を採ったり、三宅島で芋焼酎やイチゴ酒、椿油を製造したかと思うと、北海道に渡ってリンゴ酒を製造する。

(中略)

この勝三郎の発明の血を継いだのが長男・精一で、この人は「マミヤシックス」という連動ピントの高級カメラを発明し、これも一代を築いた。

木屋呉服店を継いだのは養子の徳次郎で、この人が登也さん(と久夢斎)の父である。

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間宮登也さんは三男で、間宮久夢斎六段よりも20歳若い。

以下、兄思いの登也さんによる思い出話。

「アニキがあんな人間になっちゃったのは、多分に甘やかしだと思います。私もそうですが、なにしろ女中がつきっきりで、学校の送り迎えやなんやら、何もさせないんですから。私のときは家も全盛期から下り坂でしたけど。

私の人生の後半はアニキの面倒で振り回されていましたが、終戦直後は青春でしたねェ。軍隊から帰ってすぐにやったのが演芸ですよ」

(中略)

「アニキは最後はアル中で、連盟も退会しましてね。どうしようもないんで、断酒会に入れてもらい、最後は身延山の功徳会という施設に入れました。私もアニキのためにずい分苦労しましたけど、この頃は、私の不徳を全部アニキがしょってくれたんだなあと思えてくるんですよ。

アニキが死ぬ一週間前につくった俳句があるんです。功徳会で『もみじ祭り』というのがあって私が訪ねたときです。

”短夜に弟と語る久々に”

よっぽどうれしかったんでしょうねェ、アニキ」

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間宮久夢斎六段が亡くなったのが1981年、この取材が行われたのが1985年のことだった。