1994年の藤井猛九段(前編)

将棋マガジン1994年6月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳 藤井猛 振飛車党期待の新旗手」より。

将棋マガジン同じ号より。

足腰を鍛えた逞しさ

 とりたてて目立った成績を上げているわけではないのに、気になる棋士というのがある。こんどC1に昇級した藤井猛五段は、私にとってそんな棋士のひとりだった。

 なぜ、気になるか。ひとつには、風貌のせいである。大都市出身者が大勢を占めている若手棋士のなかにあって、いかにも地方出身らしい芯の強そうな顔をしている。およそ秀才タイプではないけれど、そのかわりに、足腰を鍛えた逞しさを感じさせる。サラリーマン社会でも、エリート族は、こういうタイプに追いかけられるのが、いちばんいやなのではないかと思う。

 藤井が振飛車一本で通しているのも、興味を惹かれた。谷川浩司の登場以後、タイトル戦に登場した若手棋士で、振飛車党はひとりもいない。将棋界は、居飛車党による一党支配に向かいつつあるような感じさえする。そんな時流のなかで、振飛車で一貫しているのは、かなり頑固な性格にちがいない。

 藤井は群馬県沼田市出身。近年、若手棋士は東京、大阪を中心にした都市出身者が圧倒的に多い。藤井のような地方都市出身者は少数派に属する。しかも、振飛車党とくれば、居飛車党による中央集権体制を打破すべく、地方分権主義を推進する若き改革派の旗手、というイメージを重ねることもできる。

 前期は昇段昇級を果たしただけではない。通年の成績は32勝13敗。勝率七割一分一厘は全棋士中第六位。「大山、森安亡きあと、四間飛車は藤井がいちばんうまいのではないか」と評価する棋士もいる。

 研究熱心で知られているが、腕力にも定評がある。通称「ハンマー猛」。かつて”ハンマー・パンチ”で世界を制した、ハワイ生まれの藤猛にあやかっている。

 藤井のような地方派の振飛車党は、いまや将棋界では貴重な存在になりつつある。これは、いよいよ気になるじゃないですか。

 いつか司馬遼太郎がテレビでしゃべって、妙に印象に残った話がある。

 旧幕時代の教育は、藩によってテンデンバラバラだった。全国共通のカリキュラムなんかないから、それぞれの流儀ができあがった。A藩とB藩では、まったくちがうことを教わる。維新後には、そういう教育を受けた、相異なる個性の持ち主が中央に集まった。

 司馬説によれば、日本が明治時代に近代化に成功したのは、個性と個性がぶつかり合って、新しいものを生みだしたからだという。現代のように北海道から沖縄まで同じ教育が実施されているのを見ると、日本の将来に不安を感じる、ともいっていた。

 プロ棋士になろうという子どもは、学校教育の外れ者といってもいいくらいだから、棋士の個性がどうのと心配するほどのこともない。が、タイトル戦に振飛車党が顔を出さない現状は、いささか問題がある。

 かつて米長邦雄名人は「矢倉は将棋の純文学である」と定義した。米長、中原、加藤の”三強”が矢倉の芸を競った時代である。「矢倉純文学説」は、米長の実績も手伝って、矢倉の大流行に拍車をかけた。矢倉を指さなければ、天下は取れないという風潮まで生んだ。

 たしかに、相矢倉戦には、彫心鏤骨の文章を重ねる純文学に通じるものがある。米長の解釈に異を唱えるつもりはないけれど、純文学ばかりが栄えては、文学全体が衰退してしまう。手に汗にぎらせる大衆小説が広く読まれてこそ、純文学の読者もふえる。

 ヘボ将棋には、棒銀と中飛車がだんぜん多い。振飛車には大衆小説=縁台将棋のにおいがある。ひところの矢倉全盛のプロ将棋界は、縁台将棋のファンから遠ざかったきらいがないではない。こうみてくると、いっそう藤井への期待は大きくなってくる。

小学生名人戦を見て

 藤井は小学校四年のときに、学校の友だちに将棋を教わった。昭和五十五年、ちょうど”将棋ブーム”のころである。藤井も「将棋が流行った時期がありましたよ」といっている。「クラス二十人の男子生徒の半分は、将棋を知っていた。もっとも、最近は、実家の近所で将棋を指す子どもを見たことがないそうだ。

 最初のうちは、たまに友だちと指す程度だったが、五年生の終わりごろ、入門書を読んでから、突然、興味がふくらんだ。六年生になってからは、学校ではだれにも負けないくらい強くなっていた。棋力はアマ初段程度はあったという。

 そのころ、テレビで小学生名人戦を見た。決勝戦に出る選手は、ゆうにアマ四、五段の棋力がある。当時の藤井少年より相当に強いはずだが、ご当人はこういっている。

「自分より強そうだとは思いましたけど、ぜんぜん勝負にならないという気はしなかったですね。指す手がどういう意味か、いちおうわかりましたから」

 のんびり屋なのか、気が強いのか、あるいは、知らない強みというのか。

 藤井は羽生四冠王と同年で、誕生日も二日しかちがわない。羽生少年は小学校二年のときから、毎週一回、八王子の道場に通った。藤井少年が入門書を読みはじめたころには、五段と認定されている。六年生のときには、小学生名人戦で優勝した。藤井は「とうぜん、見たはずなんですけれども、記憶にないですね」とあっさりいっている。

 沼田市には将棋道場がなかったから、強くなるにはひとりで勉強するしかなかった。いっぽう、羽生は小学校六年生の十二月に奨励会にはいった。これは、ひとえに環境によって生じたハンディキャップというしかない。

 地方の将棋少年は、スタートにおいてハンディを背負わされているということにもなる。このハンディは、けっして小さくないはずだが、才能というのは、年月がかかっても、いつか確実に開花する。

(つづく)

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私が将棋を最も熱心に勉強したのが中学2年の後半から中学3年の頃。

大野源一八段(当時)の振飛車、升田幸三九段(当時)の振飛車や升田流ひねり飛車、大山康晴名人(当時)の振飛車、の棋譜ばかりを並べていた。

特に、大野・升田の振飛車が大好きだった。

思えば、アマチュアの振飛車党にとって最も良い時代だったのかもしれない。

将棋世界や近代将棋を見ても、ほとんどが振飛車-居飛車の対抗形。

もし、将棋に興味を持ち始めた頃が相矢倉全盛時代にぶつかっていたら、私はこれほど将棋を好きになっていたかどうかは、正直いって分からない。

江戸川乱歩なら読むが、大江健三郎はちょっと・・・という感じ。

現代は、戦法の選択肢が広くなって、とても面白い時代になっていると思う。