「キスカ島撤退作戦」

史実では囲碁だったのが、映画では将棋に変わっていた、というのが今日の話。

太平洋戦争の奇跡といわれた「キスカ島撤退作戦」。

米軍に包囲され孤立していたキスカ島の守備隊5,200名を無傷で救出した快挙の作戦だ。

キスカ島撤退作戦とは、昭和18年7月29日に行われた日本軍によるアリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のこと。

キスカ島よりも日本に近いアッツ島では、5月に2,600名が米軍の総攻撃により玉砕していた。(戦死率99%、米軍はアッツ島を日本の方面本拠地とみてアッツ島を最初に攻撃した)

キスカ島の守備隊の救出は、はじめは潜水艦部隊により行われていたが、米軍潜水艦に発見され被害が大きかったということで、アリューシャン列島特有の濃霧のタイミングに救出する海上作戦に変更された。

この時の実行部隊海軍司令官が、この作戦のために指名された木村昌福少将。

木村昌福少将は、海軍兵学校入校時成績順位は120名中第84位、卒業時成績順位は118名中第107位だったが、艦隊勤務一筋の叩き上げの実戦派であり、勇猛果敢な上に豪放磊落な性格の人柄で知られ、部下をむやみやたらに叱ることもなく、常に沈着冷静な態度であったので、将兵からの信頼は厚かったといわれる。

救出作戦は、キスカ島に数日後に濃霧が発生すると予報された7月7日に開始された。

計画では12日が救出決行日だったが、キスカ島に近づくにつれ、霧が晴れてきた為突入を断念、一旦反転して予定日を繰り下げて決行日を13日とした。しかしこの13日も霧が晴れ、翌14、15日と決行したが全て途中で霧が晴れてしまい、突入を断念せざるを得なかった。

この慎重にも慎重を期した行動は、木村少将がこの年の2月に参加したビスマルク海海戦で敵空襲を受けた経験から来ているといわれる。上空援護のない状態での晴れた時の突入は自殺行為だということを。

燃料の残量も少なくなってきたことから木村少将は15日に一旦突入を諦め、基地(幌筵)への帰投命令を発した。

「帰ろう。帰ればまた来ることができるからな」

手ぶらで根拠地に帰ってきた木村少将への批判は凄まじく、直属の上官である第5艦隊司令部のみならず、連合艦隊司令部、更に大本営から「何故、突入しなかった!」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ!」等々轟々たる非難を浴びることとなった。

しかし、木村少将はこの批判を全く意に介せず、濃霧が発生するのをじっと待った。

旗艦でのんびりと釣りをしたり、司令室で参謀と碁を打ったりしていた。

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阿川弘之「私記キスカ撤退」より

ある日、木曾の艦長・川井厳大佐が、ノックして司令室へ入ってみると、木村少将は有近先任参謀と口合戦をまじえながらを打っていた。川井大佐は艦隊の知恵袋と言われ、吉田善吾長官の時代に聯合艦隊の参謀をつとめた俊才で、何か話したいことがあったらしいのだが、しばらく黙って二人の碁を眺めていたあと、急に「帰ります」と言い出した。

「オイ、何か用事があったんだろう? へんだな。暫く待っておれよ。今すぐ先任参謀を片付けて相手をするから」

と木村司令官が髭をひねりながら笑顔で引き止めるのを、

「いえ、用事はすみました。安心しましたから、もう何も申し上げることはなくなりました」

と、川井大佐は言って、木曾へ帰っていってしまった。

この場面は映画では、木村昌福少将(三船敏郎)と第5艦隊司令長官(山村聡)が将棋を指しているシーンになる。

川井大佐(田崎潤)「 いえ。 さぞかし心中ご苦労のことと思いましたが、 司令官の悠々たる落ち着きぶりは、頼もしい限りです。 これで安心しました。 では! 」。

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(ここからは、Wikipediaの複数の関連項目を統合・編集)

7月22日、気象担当将校が「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を出したため、救出部隊はその日の夜、再出撃した。

途中多少のトラブルはあったものの、7月28日、艦隊の気象班が29日は濃霧の可能性大との予報を出し、気象観測に出した潜水艦各艦及びキスカ島守備隊からの通報でもそれを裏付けられたため、木村少将は突入を決意する。

7月29日昼の12時に艦隊はキスカ湾に突入。濃霧の中の突入だったため座礁や衝突の危険があったが、突入直後に一時的に霧が晴れる幸運があった。

艦隊は13時40分に投錨し、ただちに待ち構えていたキスカ島守備隊員約5,200名を上陸用舟艇(大発)のピストン輸送によりわずか55分という短時間で迅速に収容した。

この際使用済の大発は回収せずに自沈させ、陸軍兵士には持っている小銃を投棄させて身軽にしたことも収容時間の短縮に繋がった。

守備隊全員を収容後、ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱。直後からまた深い霧に包まれ空襲圏外まで無事に離脱することができた。

ここに戦史史上極めて珍しい無傷での撤退作戦が完了する。

実は、このことは「人事を尽くして天命を待つ」を絵に描いたような出来事だったのだ。

キスカ島を包囲していたアメリカ海軍は、 7月26日、濃霧の中「ミシシッピー」のレーダーが15海里の地点にエコーを捕捉。艦隊各艦からも同様の報告を得て直ちにレーダー射撃を開始させ、約40分後に反応は消失。

しかし、不思議なことに重巡「サンフランシスコ」のレーダーにはこの戦いの最初から最後まで全く反応がなかった。

これは現在ではレーダーの虚像による誤反応を日本艦隊と見間違えたという説が一般的になったが、もちろん日本軍には全く損害は出ておらず、一方的にアメリカ軍が無駄弾をばら撒いただけだった。

日本の艦隊を撃滅したと確信した米海軍は弾薬補給のため一時艦隊を後退させる。

補給を終わり、封鎖を再開したのが7月30日。

アメリカ軍のいなくなった7月29日に、日本艦隊が突入し撤退を完了した形になる。

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キスカ島への攻撃を再開したアメリカ軍は、8月15日、艦艇100隻余りを動員、兵力約34,000名をもってキスカ島に上陸する。

艦隊による十分な艦砲射撃を行った後で濃霧の中一斉に上陸を開始したアメリカ軍は、存在しない日本軍兵士との戦闘に備えて極度に緊張した状態で進軍した為、各所で同士討ちが発生。死者約100名、負傷者数十名を出してキスカ島攻略を完了した。

上陸したアメリカ軍の見たものは、遺棄された数少ない軍需品と数匹の犬だけだった。

また、日本軍は軍医の悪戯で『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を兵舎前に残し、これを見たアメリカ軍は一時パニック状態に陥り、緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注した。

アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは『アメリカ海軍作戦史』で「史上最大の最も実戦的な上陸演習であった。」と皮肉っている。

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1965年の東宝映画「太平洋奇跡の作戦 キスカ」は非常に好評で、ラスト近くの救出完了シーンでは観客から拍手が巻き起こったという。

映画での木村昌福少将役は三船敏郎。三船敏郎ほど、こういう役が合う俳優はいないと思う。

映画の脚本は、史実を基本としながらも、もっと観客に喜ばれるようにアクセントをつけていく。

一旦撤退した後に木村昌福少将は囲碁を悠然と打っていたが、映画では将棋に変えている。

ひいき目かもしれないが、将棋のほうが、「一旦は引いたが、必ず思いをとげる」という強い思いを表現できる感じがする。

史実も映画も、救援部隊は一発も敵に向って撃っていないが(小島への誤射はあり)、辛抱しながらも静かに燃える心は、将棋を通してのほうが表現として劇的に感じるのは確かだと思う。

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