将棋界の大旦那「七條兼三」(2)

湯川博士さんが近代将棋で連載していた「アマ強豪伝」シリーズから、「将棋界の旦那」と言われた故・七條兼三氏の話の2回目。

今日は、七條兼三氏の生い立ちなど。

(湯川博士さんのご厚意により、「アマ強豪伝 七條兼三」のほとんど全文を掲載させていただきます)

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「ウチは貧乏公家の出です」

出自を訊ねたら、照れながら答えた。大昔は京都の公家だったが、のちに高松藩に鷹匠として仕え、三百石の家柄だったという。鷹匠とはいっても実務は家来がこなし、公家の素養を生かしてもっぱら文書整理を司どっていた。明治維新になって東京へ出てきたのが兼三の祖父豈で、この人が西東書房を創設し、地図出版で陸軍に納め、大成功をした。同時に上野の山全体の売店権利も引き受け、以来公園内の屋敷に住んでいる。

父親は彼が子供のころに亡くなり、祖父に育てられた。父親は外にたくさん子供をつくったが、亡くなったときにすべてきれいにしたとか…

こういう育成環境がその後の歩み方に影響しているようだ。

囲碁・将棋は祖父譲り、漢籍は古文書を扱う家柄か、六歳から素読した。祖父の許へ出入りしていた、国士・頭山満の影響も少なからず受けた。

大学は初め東京商大(今の一橋大学)へ入ったが、武勇伝が原因で退学し、のちに早稲田大学(政治経済学部)へ編入、卒業した。

機嫌がいいと武勇伝を聞かせてくれる…。

「じいさんのピストルを持ち出して劇場でぶっぱなしたんだ。そしたら跳ねて、天井へ弾が当たった。もみ消すのにたいへんだったらしい。学生のころは、民族青年同盟みたいなものを拵えて、なんだかしょっちゅう憤慨していましたね。今は仏のシーさんなんて言われていますがね。アハハハ。あの~お銚子あと五本持ってきてください…」

軍隊(中支・中国中部)から復員したのは終戦の翌年で、七條青年三十歳。東京は一面の焼け跡で、祖父が持っていた秋葉原駅前の土地は、無法バラック建てが占領。予科練、特攻隊の生き残り、治外法権の三国人に加え堅気の衆も余剰品を売りに露天商に加わる。法も無法も簡単に手が出せない地域であった。

この露天商の世話をしていたのが、元テキヤの親分・野村誠一(宗家霊岸島枡屋宇佐美一家多田三代目菅佐原由之助身内)である。戦後は足を洗い、堅気のためにシマを仕切っていたが、若旦那七条の復員を知るや、ラジオ会館設立に協力し、副社長となる。

土地を整理しビルを建てたあと、七條さんが趣味に没頭できたのも、この副社長が会社内と周辺電気街との付き合いをうまくこなしていたからだ。

それというのも、秋葉原から神田にかけての電気屋は、テキ屋が仕切っていた地域だったから、野村の顔が最大の効果を発した。加えて気風のいい七條のもとには、上野界隈の人間がたくさん出入りしていた。元士族の若旦那と元テキ屋の世話役がうまくいったのは、七條さんの純粋を愛する心情が核になっていた。

当時は喧嘩で死んでもいいと思っていたくらい、血気盛んだった。酔うと、額の傷を指して嬉しそうに言う。

「これはね、日本刀でやられたんですが、ずいぶん血がでましたけど、人間て奴はなかなか死なないものです」

戦前から七條家には囲碁の棋士が出入りしており、その関係もあり終戦直後は日本棋院の大手合いの対局室を提供していた。ここで七條青年は、自分の屋敷とはいえ、日本刀を抜いて対局室に乱入するという事件を起こしている。囲碁の棋士からすると、いくら気に入らないことがあったとしても、神聖な対局場で碁盤を足蹴にされては…という感情がしこりとなったが、まもなく和解した。

のちに七條さんは将棋界と縁が深くなる。

升田幸三とは酒と囲碁と心意気が合い、すっかり昵懇となり、互いに「ヘボ碁」と言い合うくらい仲良くなった。

プロ棋士の付き合いとは別に七條サロンとも呼ぶべき、囲碁・将棋の集まりがラジオ会館で毎週開かれた。各界の紳士が集い、プロ棋士を師範に招き、優雅な時間を過ごすのである。

皆が碁を打ち将棋を指し、酒を酌み交わして談笑する姿を、杯を片手に眺めているのがなにより幸せだったようだ。旦那道の醍醐味でもある。

ところがあるとき、将棋の棋士が都合が悪く、弟子の若者を代理稽古に寄越した。その寄越し方に機嫌を損ねたらしい…

「ボクがいきなり角を引いたんです。そしたらその坊や、困った顔をしてね。アハハハ」

彼流の師匠に対する警告であろう。師匠にはたっぷりと月謝を払っている。それは将棋の技術料というより、その人格まるごとの値段のはずだ。サロンに来る人々も師匠の人間に接したいから来る。それをなんの断りもなく坊やみたいな先生(奨励会員)を寄越す。

そういう筋の通らないことに腹を立てた。ところがその師匠が素直に悪かったと受け入れたときはいいが、毎回そうとは限らない。

「いやはや、あの旦那にもまいったよ~。これこれしかじか…」

やられた理不尽なことだけが独り歩きをし事情を知らない棋士仲間は、なんと威張り屋の非常識な旦那かと思う。だれしも自分の悪いところは言いたがらない。七條さんも、どうしてこういうことをするかなどという説明はいっさいしない。

それでも勇気を持って、謝りに来る者もいるが、なかなか許さない。相手は冷汗をかいて顔色も悪くなる。酒を飲みながら相手の言い訳を聞いていた七條さんが、急に怖い顔をつくり、次にニヤッとして見せ…。

「これでボクも、なかなか怖いでしょう。ま、一杯やりなさい」

これでオチがつくのである。

(中略)

升田をひいきにしていたが、会館建設のときに将棋連盟に腹を立て(筋が通らないことが生じた)それを塚田正夫とともに謝りに来た大山十五世名人の態度(許されるまで二度も通った熱心さ)を見て、いっぺんに大山ファンになった。

以来、大山十五世名人の船の旅には毎回客人を連れて参加し、自分の旅行会にも必ず招待するような仲になった。

(つづく)

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七條家は、江戸時代末に137家あった堂上家(公家の中で昇殿を許される家柄)のひとつ。

Wikipediaなどによると、七條家は「水無瀬家の庶流で家格は羽林家。江戸初期に正二位権中納言・水無瀬氏成の子・隆脩を祖として成立した公家。歴代当主では七条信元が従二位参議になったのが最高。明治期に子爵を授けられた」とある。

ここでいう水無瀬家は「駒の銘は水無瀬公の筆をもって宝とす」と言われた水無瀬家で、先週のテレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」では、13代当主の水無瀬兼成の筆による象牙駒が2,000万円と鑑定されている。→鑑定結果(画面右のOPEN THE PRICEをクリック)

七條家の祖である隆脩は、水無瀬兼成の孫にあたる。

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ちなみに水無瀬隆脩(七條家の祖・七條隆脩)の甥の娘が右衛門佐。

京都時代に宮中随一の才媛と呼ばれていた右衛門佐は、徳川綱吉時代の大奥の上臈御年寄に就く。テレビドラマ「大奥」では 大奥総取締と呼ばれている。大奥全体の統括責任者という意味だ。

2005年に放送されたフジテレビ系「大奥~華の乱~」では、右衛門佐を高岡早紀さんが好演している。→大奥人物相関図

このドラマでは右衛門佐のキャラクターを、主人公(側室)をバックから支える位置付けとして次のようにしている。

「大奥での権力争いに勝たんがために、御台所・信子が京より招聘することになる。美しく、賢い綱吉好みの女性だが、自尊心が強く、側室になることを拒絶。プロ意識の強い大奥総取締となる。表の世界の“生類憐みの令”や裏の大奥での桂昌院の恐怖政治に唯一抵抗できる人物。当初は、信子に従っているのだが…。」

「大奥~華の乱~」は、かなり過激な面白いドラマだった。(右衛門佐は最後まで格好いい役)

 

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