随筆家であり俳人で、将棋ペンクラブ大賞最終選考委員だった故・江國滋さんによる名観戦記。(1983年名人戦第6局、加藤一二三名人-谷川浩司八段戦。谷川新名人誕生の一局)
随筆家ならではの視点と表現が秀逸だ。
観戦記では、棋譜の解説部分と情景・心理描写・エピソード部分のバランスが常に課題となるが、江國滋さんの観戦記は、情景・心理描写・エピソード部分が9割。
この観戦記では、棋譜の解説はほとんど必要最低限に抑えられている。
当時の大ニュースになった一局であること、12譜という長い観戦記であるので情景・心理描写・エピソード部分を多く盛り込みやすい、という条件が重なったとはいえ、情景・心理描写・エピソード部分だけで読者をぐいぐいと惹きつけていく素晴らしい観戦記だ。
将棋を全く知らない人が読んでも楽しめる観戦記と言ってもいいかもしれない。
もちろん有段者が読んでも楽しめる。
江國滋さんは1997年8月10日に亡くなられた。
将棋ペンクラブ会報1997年秋号「江國滋先生を悼む」より、第四十一期名人戦第六局、加藤一二三名人-谷川浩司八段戦観戦記の抜粋。
ちなみに、江國滋さんの長女は直木賞作家の江國香織さんだ。
[第1譜]
わたしは見た
「負けましたですね」
ましたですね、という語尾が印象的だった。
昭和五十八年六月十五日午後十時三十二分、加藤一二三名人の口からそのひとことがこぼれ、史上最年少の、名人が誕生した瞬間の光景については、いまさら筆を弄するまでもない。
二十一歳二ヶ月の新名人が「どうも」とちいさくつぶやいて頭をさげたこと、その顔に興奮の色はみられなかったこと、名人戦の歴史を書き変えた若きヒーローは、雨と降りそそぐフラッシュやライトの中で沈着冷静そのものであったことなど、谷川フィーバーに湧きに湧いたマスコミがいっせいに大きく報じたとおりである。
だが、私は見た。
新名人誕生の六手前、時間でいえば十時二十五分、投了七分前だった。そのとき対局室には、両対局者と記録係の飯田弘之四段、それに私だけがいた。
ああ、という押し殺したような声とともに、挑戦者が不意に喘ぎはじめた。息苦しそうに顔を左右にはげしく動かし、手さぐりでひろいあげた純白のハンカチを急いで口元に押し当てながら、肩で大きな呼吸をくり返した。どう見ても嘔吐をこらえているとしか思えない苦悶の表情だった。荒い息づかいのまま、ハンカチを捨て、お茶をひと口すすり、メガネをはずし、おしぼりをぎゅっと両目に押し当てた。ああ、という声がおしぼりの陰から聞こえた。
「最後の最後7五銀まで詰みが見つからなかった」(局後の第一声)という、その7五銀をみつけた瞬間の、これ谷川浩司新名人の反応だった。
[第2譜]
続・苦悶の顔
「ユーレカ!」(みつけた)と叫んでアルキメデスは浴槽を飛び出した。7五銀を発見した挑戦者も、おそらくはアルキメデスと等質の歓喜に全身をつらぬかれながら、「ユーレカ!」と叫ぶかわりに、対局室をとびだすかわりに、口をおさえ、荒い息を吐き、苦しげに喘ぐことで、こみあげる歓喜を体内に封じ込めたのだろう。
そのとき加藤名人は盤上を凝視していた。記録係は秒読みと採譜に追われていた。私だけが見たあの苦悶の表情について、終局直後の共同記者会見でたずねるのは、なんだかもったいないような気がするところが私のケチなところである。深夜の打ち上げ会をおえて自室に引き取る途中の廊下で、こっそりたずねた。
「そうなんです。あのときは手がふるえました。息が苦しくなって、そういう顔になるのが自分でもわかりました」
史上最年少、二十一歳の名人が、かくて誕生した。
終局と同時にドアを蹴破るようないきおいで殺到した報道陣で、対局室は戦場のようだった。煌々たるライトの下で、新旧両名人の、白い顔と赤い顔が、きわだった対照をみせていた。にゅっと突き出された黒い棒マイクの前で、挑戦者の5五歩に同金と指したのが致命傷だった、とみずからのは敗因を加藤一二三九段はたんたんと語ったが、その目は真っ赤に充血していた。
在位一年で名人の座を去った敗者の心中と、初挑戦で歴史を塗り替えた勝者の感慨の両方に思いを致しているうちに、アメ色に光る”名人駒”が整然と並び直されて、局後の儀式である感想戦がはじまった。
8六飛とぴたりと照準を定めた谷川のひねり飛車に、8三金と受けた加藤得意の陣形まで、序盤の駒組みが、すいすい、と再現されてゆく。
実戦も、このへんまではすいすいと…。
(つづく)
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