戦慄の愛のムチ

将棋世界1990年10月号、田丸昇七段(当時)の第31期王位戦七番勝負第4局観戦記「冷静な若武者、谷川前進流を的確に迎撃」より。

 夕方になると対局室にひょっこりあらわれる学生服の少年がいた。あまり見ない顔である。あとで聞いたら、関西の奨励会から関東に最近移籍した佐藤君という。私の対局の記録係についた時は、きちんと正座を続けて黙々とペンを走らせる真面目な態度が印象に残った。それからまもなくして、あの子は強いというウワサを耳にした。数年前のことで、奨励会の昇段制度が現在の三段リーグでない頃だ。なんでも、四段昇段の候補者のラスト二番は、幹事が愛のムチで森内俊之、佐藤康光をぶつけるというのだ。この強力なダブルストッパーで涙をのんだ者が実際にいたそうだが、わが不肖の弟子の櫛田陽一は克服して棋士になった。彼が今日あるのは、きっとその時の試練の賜であろう。

 佐藤は序盤作戦に精通し、中終盤の戦いで容易に崩れないマシーンのような正確さ緻密さがある。

(以下略)

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将棋世界1990年8月号、早指し新鋭戦決勝、森内俊之五段-佐藤康光五段戦。撮影は中野英伴さん。

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「なんでも、四段昇段の候補者のラスト二番は、幹事が愛のムチで森内俊之、佐藤康光をぶつけるというのだ」

自分は構わないので、他の人に「愛」を与えてあげてください、と奨励会幹事に真剣にお願いしたくなるような展開。

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愛のムチというと、『巨人の星』に代表される昔のスポーツ根性漫画などで、ライオンが我が子を谷底へ落とすシーンが思い浮かんでくる。這い上がってきたものだけを子供として育てる、愛情をもつ相手にわざと試練を与えて成長させる愛のムチ。

しかし、今回あらためて調べてみると、「獅子の子落とし」という故事が原典のようで、ライオンではなく伝説上の生物である獅子の世界での話。

ライオン界はかなり不条理で、縄張り争いで群れの雄を追い出すことに成功した雄ライオンは、その群れにいる子供ライオンを全部殺してしまうこともあるらしい。雌のライオンは、子供が独立するか死ぬまで発情しないため、雌の発情を促すというのがその理由。

雄ライオンは雌ライオンよりも体が大きいため、雌ライオンの3~4頭が一致団結して対抗しない限りは、子供を守ることができない。

自分の欲望を満たすために子供ライオンを殺す雄ライオンは、まさに鬼畜だ。

とはいえ、自然の摂理の中でのライオンの話、人間がとやかく口を出すのも筋違いだ。

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ライオンの子供は、このようなこともあったり、あるいはジャッカル、ハイエナ、ハゲワシ、ヘビに襲われることもあり、2歳まで生きるのは20%未満であるという。

ライオンの子供は、雌が手厚く育ててくれるものの、生まれた瞬間から谷底へ突き落とされたような環境に置かれている、と考えることもできそうだ。