広島の親分(最終章-4)

ある勇気の記録
 同じ年の9月、私は広島へ出張することになった。朝、東京を発って名古屋、広島で打合せをして日帰りで東京へ帰るという強行軍。絶好の機会なので、高木さんに線香をあげに行くことにした。
 出張の2週間前、ふと、ある絶版本を手に入れようと思い、インターネットで調べてみた。その本とは、昭和40年に菊池寛賞を受賞した中国新聞報道部「ある勇気の記録」。
 昭和38年から始まった山村組と打越組の広島抗争、それに対し「暴力追放キャンペーン」を紙面で繰り広げた中国新聞。「ある勇気の記録」は、それらの取材記録をまとめたものだった。
この頃になると、ネット古書店で容易に絶版本を手に入れられるようになっており「ある勇気の記録」を入手することができた。
 出張の1週間前に家に本が届いた。
届いた日に一気に読んだ。村上組組長時代の高木さんが後半に出てくる。抗争には関わっていなくとも暴力団追放キャンペーンなので村上組も関係してくる。高木さんに関係する部分を抜粋要約してみる。

「きみ、名指しで電話だ。また、きたぜ、高木からだ」とデスクが声をかけた。「なんの用件ですか」と私は冷たくいった。するといきなり、「あんたら、どういうつもりかしらんが、記事の書き方がずるい思うな」と高木の声が聞こえた。「われわれが何かやると、きまって資金源になるとか、サツがこう見とるとか、なんであんなきたない書き方をするんか。その理由を聞きたい。勝手にあんなことを書かれてはこっちが困る」「勝手に書いてやせん、警察がそういっとるから、いっとると書くだけですよ」「サツはあんなことはいっとらん」「いっとるか、いっとらんか、サツで聞けばわかる。サツへいっしょに行って、じかに聞いてみてもええんよ」「よろしい、それじゃいっしょに…」

新聞社へ、記事の抗議を直接してくる組長は高木さんだけだと思う。他の博徒系の組長は新聞社を無視していた。

村上組の二代目高木達夫組長は、K会の相談役でもある。37年4月、松原町に「中国ボクシングジム」を設立し、選手の養成強化をはかるとともに、中央からも、年に数回、有名選手を招いて、広島県立体育館で、公開試合を行ってきた。このため広島地方のボクシング・ファンもふえ、興行にも、比較的暴力事犯があらわれなかったので、まずまずの運営だった。ところが、昨年6月末、山村組と合体してK会に組織替えしてからは、博徒系の山村派が相次いで、殺傷事件を繰り返したため、K会が市民から徹底的に批判され、取締りはもとより興行面でも、強い締め付けを受けはじめた。東新天地広場のバッティングマシンや射的場の締め出しもそのひとつの現われであった。この高木組長以下は、村上組のなかでは比較的地味な存在で、ボクシングジムのほかに、露天商を中心にした本来の意味のテキヤ団体であり、K会へ入ってからも、ほとんど抗争事件に関係していないが、K会会員として批判の対象になっていた。高木組長にとって、ボクシングは重要な資金源であった。昨年11月24日、広島県立体育館で、全日本ウエルター級タイトルマッチを開催したが、事前にこのことをキャッチした取材班は、暴力団が一枚かんでいる事実を大きくとらえ、これを紙面にぶっつけた。ために「公共施設が、暴力団興行に使われすぎる」と市民の非難をあび、興行成績は予想外に悪かった。その後も、たびたび、高木一派の行動を紙面でたたいてきたことが、頭にきたらしい。部長をはじめ、取材班の仲間は、高木との対決を心配して、同行しようといったが、私は県警の中だからと一人で出かけていった。

K会は、広島の暴力団の大同団結として結成された政治結社であり、山村組が中心となった。

 高木組長は単身で、県警記者クラブに来た。高木組長をつれて、捜査二課の次席へいった。「警察も、新聞のとおり見ている。あんたがK会にいるかぎり、ボクシング興行が資金源になっているとみられてもしかたがない。新聞は正しく報道している。したがって、警察はあくまで興行には目を光らせ、前売り券の売り方などに少しでも不正があったらどんどん取り締まる方針だ。徹底的に…」と次席は、目こぼしはしないぞと強い態度を見せた。 この一言に、高木組長も観念したらしい。あっさりと引き下がった。正月をはさんで、三日の休暇もあけて、再び取材活動にはいって、間もないころであった。 また、高木組長から電話があって、「ぜひ、あんたにお会いして、話したいことがあるから、家へきてくれないか」というのだ。 私は部長と相談のうえ、ひとりで高木組長宅をおとずれた。ひどく丁重に三階の居間に案内された。どことなく元気がない。すすめられるがままにコーヒーを飲み、二時間近くも話し込んだ。私が暴力団関係者から、おごりをうけたのは、あとにも先にも、この一杯のコーヒーだけである。「実は、昨年暮れから、またボクシングの公開試合をやろうと考えていたのだが、今度も、あんたらまたあんなふうに新聞に書くかね」と高木組長は相談するように言った。「どこで…」「やっぱり県立体育館以外に会場はないんで…」「県立体育館でやるんだったら、また書く。いや書かなければならん。公共施設だから書かないわけにはいかん。少なくともあんたがK会に所属しているかぎり、あんたの村上組系が悪いことをしていなくても、K会全体は好ましくない組織だからね。こんども興行を公共施設でやるんなら書きます」「やっぱりね…」と高木会長は、思いつめたように言った。沈黙が続いた。「どうしても書くというなら…」と高木組長は顔を上げて言った。「仕方がない、あきらめよう。興行はもちろんジムのほうもやめる。あんたらに書かれたら、経営上成り立たんし、赤字を出しながらやるのはバカげている。実際、わしはボクシングファンのためを思うて、あんまりもうけにならんのに、これまで続けてきたんだが、そんならやむをえん。ボクシングからいっさい手を引くこととする」「資金源と見られるかぎり、興行はもう公共施設ではやれない。もうまともに生きることです。それには、結局、K会を出ること、好ましくない団体だから…」「しかし、いま、わしがK会から脱退したら、K会におるもんとのアツレキができて、せっかく抗争が下火になっとるのに、こんどは内輪同士のケンカで、抗争するようにでもなったら困るしのう。やっ
ぱり、一度極道したものの世界に生きてみなければわからんだろうが、あんた、なんにもないときに、サカズキを水に流すのはむずかしいもんです。きっかけがないとやめることもできん。まあ、ボクシングが資金源になるとみられ、それが悪いことだというんなら、まずボクシングをやめ、身ぎれいになってから、時機を見て、K会から身を引く―そんならできんこともないだろうがな」「それを新聞に発表してもいい?」「うん、やめるとなったら、堂々と、ジムの閉鎖と興行辞退を正式に声明しようと思うてます。あんたとは、東新天地問題以来、たびたび口ゲンカをしたし、ちょいちょい電話でもやりあったね。もしあんたが、新聞に書かんいうたらやるつもりじゃった。あんたの意向を聞いて、決心しよう思うてきてもろうたんや。実をいうと…あんたたちの意見は世論じゃし、その世論を無視して強行することは、ボクシングの健全育成にとってもマイナスになるから…、また前売り券の売り方なんかにも、無理があったようだし、市民に迷惑をかけていることがわかったから、これでわしの決心もきまった。今後は商売一本に生きます」 高木組長はきゅっとくちびるを引き締めた。妙にしんみりとした雰囲気のなかで、私は、世論に追い詰められた暴力団組長に、個人的には同情の気持ちを押さえることはできなかった。「そうしてくれりゃ、ぼくもうれしいです。これまではずいぶんきびしく書いたが、いっさい水に流して、まともに生きていかれることを望みます。あんたなら、きっといい商売人になれるでしょう」というのが、精いっぱいだった。 それから雑談に移り、彼はボクシング興行の帳簿まで引き出して、「このとおり、去年の11月24日のタイトルマッチは、あんたらが、暴力団資金源と書きまくったもんだから、客の入りがガタ落ちで90万円ほどの赤字を出しとるんです」と寂しそうに言った。「だが、もう、さっぱりとあきらめがつきました。あんたたちが、その決心をつけてくれたんです」そういって、高木組長ははじめて微笑を浮かべた。

きっと、この記者も高木さんのことを好きになってしまったに違いない。
 私は、いかにも高木さんらしいと思い、高木さんをもっと好きになった。
高木さんは「広島が平和だからこそ商売ができる。抗争なんかもってのほか」と常々言っていた。

こういう業界というよりも、根っからの商売人だったのだと思う。

「ある勇気の記録」を読んで、もう高木さんには会えないんだ…という思いが更に強くなった。

ある勇気の記録―凶器の下の取材ノート (現代教養文庫―ベスト・ノンフィクション)
価格:¥ 612(税込)
発売日:1994-03