広島の親分(最終章−最終回)

再び広島へ
 広島へ出張で行ったのは、2004年9月17日。あれからちょうど6年経っている。
 午後4時過ぎに仕事は終わった。時間に余裕があるので、広島の市街を歩いてみることにした。この辺に打越組の本拠地「紙屋町タクシー」が、この辺が山村組と打越組の銃撃戦があったバー「ニュー春美」かなど、頭の中は「仁義なき戦い」の世界だった。

その後、駅前へ出て花を買った。高木さんの家へ向かい、「麻雀・喫茶よしみ」のドアを開けた。

雀荘は継続して続けているようだ。1階には年配の男性が一人、新しい店番の人なのだろう。カウンターの中には6年前にもいた、飲み物や軽食を用意する優しそうな年配の女性がいる。

この女性に私は声をかけた。
「突然お邪魔してしまったのですが、6年前に将棋で高木さんにお世話になった者です。よろしければお花をあげさせていただこうと思いまして」
「奥様に聞いてまいりますので、少しお待ちくださいね」
カウンターの女性は、私の名刺を持って上の階へ上がっていった。
アポ無しで、普通なら何物だろうと警戒されても仕方がないのだが、高木さんの場合は将棋というと通りがいい。
将棋という言葉がこれほど便利に感じられたのは初めてだ。
テレビでは相撲をやっている。店番の男性は、私がいることを全く意識していないかのように相撲をみていた。
私にとってはそのほうが楽だった。
しばらくすると、カウンターの女性が
「奥様がお会いすると言っていますので、3階へどうぞ」
と声をかけてくれた。
 6年前、屋上の庵へ行くときに昇った階段を踏みしめる。
 3階では奥様が待っていて、仏壇の部屋へ案内してくれた。
 奥様は、小柄な感じの美人で、高木さんとともに修羅場をくぐり抜けてきたとは思えないような温厚な雰囲気だった。
 仏壇の高木さんの写真は、6年前に会ったときと同じような感じ。懐かしい。
 線香と花をあげる。手を合わせたとき
「ゆっくりと休んでください」と祈った。
「亡くなる1ヵ月前から、物が食べられなくなったんです」
奥様が、そう話してくださった。
「最近『ある勇気の記録』を読んだのですが、高木さんのこと、とても良く書いてありましたね」
と言いそうになったが、今から40年近く前の本の話を突然出すのも変だと思い、ぐっとこらえた。
 5分ほどで辞し、「麻雀・喫茶よしみ」の外へ出た。近所には、やはり6年前に行った、高木さんの長男の広島焼きの店がある。
一人で寄ろうと思った。寄らなければいけないと思った。
5時過ぎなので、客は私一人。6年前に食べた名物「スペシャル」とビールを注文した。
出てきた「スペシャル」は絶妙なほどまでに美味しい。
この広島焼きの店は長男夫婦でやっている店。

この頃、ライブドアがパリーグ球団を買収しようと名乗りをあげて紛糾しているときで、テレビをみながら夫婦で会話をしていた。
長男は、高木さんにそっくりな顔立ちをしている。

私はとても感傷的になっていた。

高木さんがどんな父親だったのか聞いてみたくもあったが、お客さんが次々と入ってきたので、話しかけるのは見送った。
 高木さんは
「将棋が、わしを救ってくれた」
と言っていた。
高木さんがいた世界は、引くことをしない人があまりにも多く、それで亡くなっていった人が多い。

高木さんは、守るべきところでは守る、引く技を将棋で身につけたという。先を読む必要性も将棋から。
趣味の将棋をやることによって、肩の力を抜くこともできるようになったという。やはり高木さんがいた世界の人は、稼業的に肩の力を抜くことをしない。
至近距離でなければピストルは命中しないが、ピストルで狙われたときに肩に力が入っていると撃たれてしまう。
こちらが肩に力を入れないと相手に一瞬怯みが出る。その瞬間にピストルを取り上げて捨ててしまう。
昭和30年代までは、高木さんも狙われることがあった。自らの命を守るため、ビジネスのため、どちらも将棋が救ってくれたという。

私は、もっと感傷的な気分に浸りたくなって、長男に、さっき高木さんに線香をあげにいったことを告げずに店を出た。話はしたかったが、話をせずにいることで、もっと感傷的になれると思った。

「高木さんは、本当に魅力的な人だったんだな。そして、将棋って素晴らしいものなんだな」

東京へ向かう新幹線で、ずっとそのことを考えていた。