棋士による棋士論

近代将棋1999年11月号、武者野克巳六段(当時)の王座戦第1局観戦記より。

ウサギとカメ

羽生善治王座と、挑戦者の丸山忠久八段。「この二人はともに昭和45年9月生まれの同い年である」と書いたら、意外に感じる方も多いだろう。将棋年鑑によると丸山が5日、羽生が27日の生まれだから、わずかばかり、丸山の方が兄ぃ分ということになる。

なのに同い年であることが意外に感じられるのは、羽生のタイトル戦登場が平成元年度のことだからで、丸山の活躍が目立つようになった昨今と比べると、実に10年近くのタイムラグがあるからだ。

現在の将棋界は佐藤名人、森内八段、郷田八段、中井女流五段など、昭和57年奨励会入会組を中心に展開しているが、羽生は57年組のトップをひた走って、昭和60年には中学生でプロ棋士になり、高校生のときに棋界最高の竜王を奪取した超英才であることは、今更記すまでもない。

一方の丸山は、昭和58年に初めて奨励会試験を受けた。受験者同士の一次予選では5勝1敗の好成績だったが、現役奨励会員に挑戦する二次予選ではあえなく3連敗。今にして思えば、二次の相手がレベルの高い57年組だったことが不運だった。

翌59年には中学生名人にもなり、「今度落ちたらプロ棋士の夢はあきらめ、学業に専念しよう」と悲壮な覚悟で私見に臨み、二次試験では現役奨励会員に1勝した。普段ならこれで合格なのだが、80人を越す大量受験者があった年のため合格率が20人と決まっており、微差で不合格となってしまったのだ。

なぜ微差での不合格だったことが分かるかというと、実は私が奨励会担当の総務理事だったからで、どこかに合格ラインを引かなければならないとはいえ、非常に心苦しい思いをしたからだ。

研修会

当時はプロ棋士になりたいという夢を持つ少年ファンが今以上に多くいて、福岡県出身の中田功六段や、新潟出身の近藤正和四段などは中学生で単身上京し、奨励会員でもないのに将棋の修行に明け暮れる毎日をおくっていた。そうでもしなければ奨励会試験に合格することも叶わなかったからだ。

そのようなこともあって、昭和59年の試験直後に、奨励会の下部組織として”研修会”を発足させた。

有料の将棋塾であるが、奨励会と同じように月2回の対局日を設け、成績抜群なら奨励会への編入を認めましょうという組織で、10数年後の今日でも会員が増え続け、さらに「東海本部にも作ることにした」という報に接してみると、我ながらいいアイデアだったなぁと誇らしい気持ち。

2度目の受験に失敗して、「プロ棋士になりたい」という情熱の炎が消えかかっていた丸山少年も、この”研修会新設のお知らせ”を見て、「もう少しだけ夢を追ってみよう」と気持ちをふるい立たせたようだった。研修会入会後は着実に勝ち星を重ね、わずかの間に奨励会編入を認められ、歯を食いしばって合格組のライバルたちと闘ったのである。

こうして丸山が奨励会に編入したのが昭和60年。この年の暮れに、羽生は四段としてプロ棋士デビューを果たしたのだから、まさにウサギとカメのように対照的な二人。寓話と少し違うのは、ウサギは疾走をやめなかったのにカメが追いついてきたことかな。

激辛流

前述のような事情もあって、丸山の将棋は勝負に辛く、受けを主体とした”泣きの入った芸”を築いてきた。勝ち将棋になったときの手堅さは無類で、「激辛流」というキャッチフレーズがついたくらいである。

もっとも棋界屈指の研究家で、生涯勝率が7割2分4厘という抜群の成績なのに、丸山の評価が今一つ低かったのは、こうした”渋い棋風”が影響してきたと私は見ている。

ある瞬間における果断さがないと、格下の相手にはめっぽう強くても、上位を突破する勢いにはつながらないわけで、それが昨年まで羽生に1勝10敗という一方的な対戦成績となって表れている。上位に弱くては、タイトルに手が届かないのも道理だからだ。

しかし、丸山将棋はここ一年で明らかに変わってきた。今年の初めに羽生への2連勝を含む10連勝をマークし、1敗をしたあと今度は18連勝!まさに破竹の進撃とは、こういう状態をいうのだろう。

(中略)

棋風に忠実な一手

私は、丸山がここ一年で大きな飛躍を遂げたのは、中座飛車の連続採用が好影響を及ぼしていると考えている。この戦法はご覧のように、飛車角桂香という長い駒を用いることが多い。一方丸山が得意とする受けの主体は金銀という短い駒だから、中座飛車により、丸山の新境地開拓がなったという推察なのだ。

(以下略)

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たまたまではあるが、昨日の深浦康市九段の花村門下兄弟子である武者野克巳七段の分析。

棋士による棋士論というというのは、非常に明快な切れ味を持つものなのかもしれない。