佐藤康光八段(当時)「6月19日の夜。ちょっと狭いけど、私の家でどうでしょう」

将棋マガジン1996年9月号、青島たつひこさんの「佐藤康光&森内俊之のなんでもアタック」より。

将棋マガジン同じ号より。

 前回の催し、「10秒将棋トーナメントが終わったあとの企画会議。

―次回の企画は「棋士の内蔵データに挑戦」というのをやりたいと思います。プロ棋士は他の棋士との対戦成績、自分の成績、自分の指した対局の棋譜、局面などをどの程度記憶しているものなのか。細かい質問をびっしり用意してきますからそれに答えてほしいんです。

佐藤 ほう、それは面白いかもしれませんね。

森内 でも、都合の悪いことは話せませんよ。どんな相手にどんな戦法を使っているとか、自分の研究内容とか。

―戦術ではなく、あくまで数値的なデータを示していただければいいんです。プロは自分の指した将棋をどの程度記憶しているのか、これはファンもきっと知りたがっていると思うんです。

佐藤・森内 ふーむ。ちょっと不安な点もあるけど、では、それでいきましょう。

―じっくり時間をかけてペーパーテストをやっていただくことになるから、次回は非公開でやりましょう。日程は……。

 ここからの協議には時間がかかった。両プロの手帳には3ヵ月、4ヵ月先の予定がかなり書き込まれている。棋士の仕事は対局以外は個人で受け付けるケースが多いから、人気棋士の場合だと1年先の予定まで押さえられていたりする。

「6月19日の夜。ちょっと狭いけど、私の家でどうでしょう」。提案してくれたのは佐藤八段。その日は佐藤八段の自宅で研究会があって森内八段も参加する予定。研究会が終わったあとなら、どちらも体が空いているという。

「では、それでお願いします」というわけで、今回のなんでもアタックは佐藤八段のお宅にお邪魔して行うこととなった。佐藤八段の住まいは世田谷区の三軒茶屋にある2DKのマンション。

(中略)

 6月19日午後7時。佐藤家に両八段および「佐藤さんに用事があったから、ついでに見物に来ました」という滝誠一郎七段が顔をそろえて第9回のなんでもアタックが始まった。分厚い問題用紙を前に、「なんだか学生時代を思い出して嫌な気分」と両八段。さすがのA級棋士も、将棋盤ならぬ問題用紙に向かって戦うのは勝手が違うようだ。

☆500局のデータに迫る

 今回の企画には、なによりも一観戦記者として興味があった。プロ棋士の持つ特殊能力は一般にはかなり理解されにくい面がある。将棋を知らない人にプロ棋士のすごさを説明するのは難しい。それを無理やり説得するため、「プロ棋士は記憶の天才だ」という論調の文章がかなり活字になっている。

 いわく、プロ棋士は一回麻雀をやると、使った牌の裏表をほとんど覚えてしまう。いわく、プロ棋士の中には大きなビル5つ分くらいの本が詰まっている。いわく、プロ棋士は勝った将棋は忘れても、負けた将棋だけは忘れない…等々。

 はっきりいってしまうと、これらの文章はみんなうそなのだ。プロ棋士にも麻雀の下手な人間はいくらでもいる。プロ棋士が必ずしも全部の定跡を知っているわけではない(振り飛車一辺倒の棋士は、矢倉の最新定跡などは知る必要がない)。大山十五世名人が言っていたように、将棋にとって一番大切なのは大局観とひらめきであって(これを具体的に説明するのが大変なのだが)、ある程度のレベルになれば、記憶の多寡などはあまり大した問題ではなくなってしまうのだ。

 ただし、小さい頃から将棋一途に修行を積んできたプロ棋士が、「その結果として」、自分の将棋にまつわるほとんどのことを覚えているという現象はありうる。筆者が目の当たりにしただけでも、20歳前後の羽生竜王・名人は自分が過去に指した将棋の指し手、経過、勝因と敗着などをすべて完全に記憶していた(最近はだいぶ怪しくなったそうだが)。

 それなら、現役のA級八段である佐藤八段と森内八段は自分の将棋に関してどの程度のデータを持っているのか。今回の企画は、それを確かめようというのである。

 設問は次の5分野に分けて用意した。

  1. 対戦成績に関するデータ
  2. 自己の成績に関するデータ
  3. 対局時の状況に関するデータ
  4. 棋譜に関するデータ
  5. 局面に関するデータ

 ちなみに、森内、佐藤両プロはこれまでに約500局の公式戦を指している。その500局の内容をどれだけ正確に記憶しているか、これらの設問によってそれを調べようというのである。

☆第1分野・森内八段、圧勝!

 早速、それぞれの問題と両八段の回答をご覧いただこう。

 まず第1分野問題。次の棋士との対戦成績を記入せよ(数字は自分から見た対戦成績。以下の成績はすべて1996年6月19日時点のもの)

①大山康晴十五世名人
 森内「1勝1敗」(正解)
 佐藤「1勝1敗」(正解)
②羽生善治七冠
 森内「7勝13敗」(正解)
 佐藤「11勝15敗」(正解)
③森下卓八段
 森内「10勝5敗」(正解)
 佐藤「7勝4敗」(正解)
④中原誠永世十段
 森内「8勝8敗」(正解)
 佐藤「8勝5敗」(不正解)正解は9勝5敗
⑤米長邦雄九段
 森内「6勝5敗」(正解)
 佐藤「2勝3敗」(正解)
⑥谷川浩司九段
 森内「6勝5敗」(正解)
 佐藤「6勝7敗」(正解)
⑦加藤一二三九段
 森内「5勝3敗」(正解)
 佐藤「1勝2敗」(不正解)正解は3勝3敗
⑧島朗八段
 森内「5勝1敗」(正解)
 佐藤「3勝2敗」(正解)
⑨佐藤康光八段
 森内「8勝12敗」(正解)
⑩森内俊之八段
 佐藤「12勝8敗」(正解)
⑪村山聖八段
 森内「3勝7敗」(正解)
 佐藤「3勝2敗」(不正解)正解は3勝3敗
⑫井上慶太七段
 森内「1勝0敗」(正解)
 佐藤「1勝1敗」(正解)
⑬藤井猛六段
 森内「2勝1敗」(正解)
 佐藤「0勝3敗」(不正解)正解は0勝2敗
⑭丸山忠久六段
 森内「4勝2敗」(正解)
 佐藤「3勝3敗」(不正解)正解は4勝3敗
⑮郷田真隆六段
 森内「2勝4敗」(正解)
 佐藤「1勝4敗」(正解)
⑯屋敷伸之七段
 森内「6勝2敗」(正解)
 佐藤「3勝3敗」(不正解)正解は5勝4敗
⑰三浦弘行五段
 森内「対戦なし」(正解)
 佐藤「1勝0敗」(正解)
⑱深浦康市五段
 森内「2勝0敗」(正解)
 佐藤「2勝2敗」(不正解)正解は2勝3敗
⑲先崎学六段
 森内「6勝1敗」(不正解)正解は7勝1敗
 佐藤「5勝3敗」(不正解)正解は6勝3敗

 なんと森内八段は18問中17問に正解した。佐藤八段は8問間違えたからこの分野は森内八段の圧勝である。

「いちいちチェックしているわけではありませんが、対戦成績はほとんど覚えています」と森内八段。佐藤八段は「こういうのは、あまり気にしないので…」

 この様子を見ていた滝七段、「二人が誰をライバルと見ているか、分かりますね」。ちなみに滝七段は「対戦成績?私にそんなことを聞いても無理です」ときっぱり。

☆第2、第3分野 名人戦の記録係は誰?

 続いて第2分野問題。自己の成績に関する問題である。

①現在までの通算成績を記入せよ。
 森内「343勝144敗」(不正解)正解は340勝141敗
 佐藤「勝ちが300から350。負けは120から150」(不正解)正解は341勝155敗。
二人とも不正解であるが、森内八段はほぼ正解というべきか。
②昨年度の成績を記入せよ。
 森内「34勝21敗」(正解)
 佐藤「33勝18敗」(正解)
③新四段1年目の成績を記入せよ。
 森内「24勝8敗」(正解)
 佐藤「37勝11敗」(正解)

 続いて第3分野問題。過去の対局時の状況に関する問題である。

①プロデビュー戦の相手、日付、戦型、結果を記入せよ。
 森内「森下卓五段。昭和62年5月28日。急戦矢倉で勝ち」(正解)
 佐藤「木村嘉孝五段。昭和62年の早指し戦。不戦勝」(ほぼ正解)
 佐藤八段は5月26日という日付を特定できなかった。

②次の対戦相手との初手合いの日付、戦型、結果を記入せよ。
◯中原誠
 森内「昭和62年11月8日。中飛車で負け」(ほぼ正解)日付は9日。
 佐藤「昭和62年の早指し戦。矢倉で負け。確か解説が芹沢博文先生でした」(ほぼ正解)
 日付は9月5日。
◯米長邦雄
 森内「昭和62年10月1日。同型矢倉で負け」(正解)
 佐藤「平成3年の王位リーグ。相掛かり中原流で勝ち」(ほぼ正解)
 日付は平成4年5月19日
◯羽生善治
 森内「昭和63年1月14日。急戦矢倉6二飛型で負け」(正解)
 佐藤「昭和62年か63年。若獅子戦、矢倉で勝ち」(ほぼ正解)
 日付は昭和63年7月15日。
◯森内俊之(佐藤八段に対して)
 佐藤「昭和62年の竜王戦。矢倉で勝ち」(ほぼ正解)日付は3月22日。
◯佐藤康光(森内八段に対して)
 森内「昭和63年3月27日。急戦矢倉6二飛型で負け」(ほぼ正解)日付は3月22日。

③次の対局の場所、日付、戦型、結果、記録係の名前、立会人の名前を記入せよ。
◯第18回新人王戦決勝第1局
 森内「将棋連盟。昭和62年10月14日。振り飛車穴熊に6筋位取り腰掛け銀で勝ち。記録は田口拓也さん。立ち会いは佐瀬勇次先生」(ほぼ正解)記録係は丸山忠久現六段。
◯第7回全日本プロ決勝第1局
 森内「羽澤ガーデン。平成元年2月7日。角換わり腰掛け銀で勝ち。記録は小池裕樹さん。立会いは加藤一二三先生」(ほぼ正解)だが、記録係は北島忠雄現四段。
◯第54期名人戦第1局
 森内「福岡市シーホークホテル。平成8年4月11日。矢倉で負け。記録は水津さん。立会いは五十嵐豊一先生」(ほぼ正解)だが、記録係は藤内忍三段と木村さゆり4級。
◯第31期王位戦第1局
 佐藤「平成2年7月10日。下呂温泉の水明館。相掛かりで勝ち。記録係は杉本昌隆さん。立会いは小林健二先生」(ほぼ正解)対局日は7月12、13日。
◯第6期竜王戦第6局
 佐藤「天童の滝の湯ホテル。平成5年12月10日。相掛かりで勝ち。記録は三浦弘行さん。立会いは広津久雄先生」(正解)
◯第7期竜王戦第6局
 佐藤「やはり滝の湯ホテル。平成6年1月8日。矢倉で負け。記録は岡崎洋さん。立会いは高柳敏夫先生」(正解)

 数値に関するデータは、明らかに森内八段の方がよく覚えている。

「とてもじゃないけど、対局日まで答えるのは無理ですよ」と佐藤八段。その対局日も7割以上正解した森内八段だが、重大な対局での記録係の名前は全部間違えた。それも、この4月に行われた名人戦の記録係まで忘れるとは意外。それだけ勝負に集中していたということなのだろうか。

☆第4分野 棋譜認識はプロの得意分野!

 続いて第4分野。自分の指した将棋の棋譜に関する問題である。例題は森内八段に対する問題。このように対局年、対戦者名、棋戦名を隠した棋譜を両八段に15局ずつ見せ、これを特定してもらった。

(中略)

 森内八段は対局年を2つ間違えたのみ。ほぼ完璧な解答ぶりである。佐藤八段も苦手な対局年の解答を除けば、ほとんど正解。棋譜を頭の中で並べて対局時の状況を思い出すというのは、プロにとって意外に易しい設問のようだ。

 第4分野には1問ずつ意地悪問題が隠されていた。森内八段の⑧と佐藤八段の⑥である。森内八段の⑧は小学校6年生当時の森内・羽生戦。佐藤八段の⑥は奨励会3級(佐藤八段は当時関西奨励会に在籍)同士の対戦である。

「この棋譜は羽生さんの特集で、最近の週刊誌に載っていたから知っていました」と森内八段。一方の佐藤八段は「さすがに、これは知りません」。

☆第5分野 図形認識は佐藤プロの勝ち

 最後の第5分野は自分の指した将棋の局面に関する問題である。

 1図は森内八段に対する問題。

 このように棋戦名、対局者名、勝敗、次の一手を隠した局面を両八段に12図ずつ見せ、これを特定してもらった。

①1図=王将戦、丸山六段(先手)、勝ち、▲8三香。(不正解)先手の次の手は▲2二と。

②=天王戦、羽生五段(先手)、負け、▲3五桂。(正解)

(中略)

 続いて佐藤八段に対する問題。

①6図=竜王戦、羽生棋王(後手)、勝ち、△4八銀。ちなみにこの局面は羽生さんと竜王戦で2局指して、いずれも勝っています。

②=王位リーグ、中原名人(後手)、負け、△9七桂成。(正解)

(中略)

 森内八段は12問中10問正解。佐藤八段は11問正解。正解率は微差だったが、佐藤プロが15分ほどで全部の解答を出したのに対し、森内プロは30分以上考えていた。というわけでこの分野は佐藤八段の勝ち。

 第1分野から第5分野まで、二人の解答を総合的に比べてみると、森内八段は数値データに強く、佐藤八段は図形認識に強いということが言える。佐藤プロが目隠し5面指しに成功したのも、この特性と無縁ではないような気がする。

 最後に両プロの感想を紹介して、今回のまとめとする。

佐藤「対戦成績や日付を全部覚えるのは私には無理です。でも、思ったよりは正解できたほうでしょう。記録係もちゃんと覚えていましたからね」

森内「図面も棋譜も七段時代までは全部覚えていましたが、20歳を過ぎてからかなり記憶力が落ちましたね。最近はここ2、3年の棋譜ならなんとかという感じです。対戦成績の勝ち負けは対局時の気分にかなり影響します。先輩の島さんが『強敵相手の時は睡眠時間が減る』といっていましたが、みんな同じようなことがあると思います」

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「今回のなんでもアタックは佐藤八段のお宅にお邪魔して行うこととなった。佐藤八段の住まいは世田谷区の三軒茶屋にある2DKのマンション」

一番上の写真の佐藤康光八段(当時)の、いかにも自宅にいるような雰囲気がたまらなく良い。

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「次の棋士との対戦成績を記入せよ」

佐藤康光八段は、

  • 対中原誠永世十段、加藤一二三九段、丸山忠久六段、屋敷伸之七段については実際よりも1~2勝少なく
  • 対藤井猛六段については実際よりも1敗多く
  • 対村山聖八段、深浦康市五段については実際よりも1敗少なく

思っていたということで、8つの間違いの中で6つまでが控え目(厳し目)だったことになる。

自分の勝敗数を厳し目に思っていた対戦相手の棋士と、逆だった対戦相手の棋士について、それぞれ傾向的にどのように感じていたのか、心理学的な分析をしたら面白いのかもしれない。

少なくとも、佐藤康光八段は、村山聖八段には特別な感情を抱いていたようだ。

佐藤康光名人(当時)「私の将棋は全面的に彼に認められていなかったと思う」

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⑲先崎学六段
森内「6勝1敗」(不正解)正解は7勝1敗
佐藤「5勝3敗」(不正解)正解は6勝3敗

二人とも、同世代で仲の良い先崎学六段との対戦成績を同じように間違っているのが可笑しい。

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「第1分野から第5分野まで、二人の解答を総合的に比べてみると、森内八段は数値データに強く、佐藤八段は図形認識に強いということが言える。佐藤プロが目隠し5面指しに成功したのも、この特性と無縁ではないような気がする」

森内俊之八段の日付や対戦成績の記憶の正確さ、佐藤康光八段の立会人と記録係についての記憶の正確さ、二人に共通するのは棋譜についての記憶の正確さ、それぞれ神の領域に達しているとしか言いようがない。

棋士の凄さが、違った角度から強く感じることができる企画だったと思う。