今ではとても考えられない、のどかな名人戦の光景。
将棋世界2005年11月号、故・田辺忠幸さんの「怪老のつぶやき」より。
振り駒の制度が確立したのは、そんなふるい話ではない。今から65年前、昭和15(1940)年の第2期名人戦の観戦記を読むと、何も決まっていないので、思わず笑ってしまう。
木村義雄名人(故・十四世名人)に挑戦するのは、兄弟子の土居市太郎八段(個人・名誉名人)。最初は挑戦者が先手という話もあったようだが、結局振り駒で決めることになったらしい。
駒を盤上に並べる前に、両棋士の師匠である立会人の故・関根金次郎十三世名人の手によって振り駒が行われたようだ。
当時の毎日新聞に掲載された文豪、里見弴の観戦記には次のような記述がある。
<「よろしい。ぢやア・・・」と、袋のなかから、歩を三つ掴み出して、両の掌の上で球をつくり、カチャカチャと振りだすと、「五つにしてください。五つに」「あゝ、さうか。ぢやアもう二つ・・・」まるで、子供の遊びごとでも始まる前のやうな暢気さに、一同も思はず失笑する。歩を二つ捜し出しながら土居氏が、「どつちを先にします、歩ですか金ですか」「さう、それをきめとかなければ・・・」>
振る歩の数も、「名人の振り歩先」も定かではない。「金」は「と金」のことだろう。
<十三世名人は、言下に、「あたしが金次郎だから、金を先にしよう」「金が先、はい」「ところで、土居さんと僕と、どっちが金なのだ」木村名人も笑ひ声で、「あなたが金でどうです」「えゝ、よござんすよ」「いゝかね、ぢやア・・・」>
なんと時代離れのした光景だが、結局「と」が多く出たようで、先手は土居八段に決まった。
タイトル戦では畳の上でじかに駒を振るのではなく、仰々しく白い布を敷いてその上で振る。これは昭和32年の第16期名人戦(升田-大山)からだ。
(以下略)
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里見弴(1888年-1983年)を”さとみとん”と読むことを初めて知る。
小説家の有島武郎は実兄。
代表作は、『善心悪心』(1916年)、『多情仏心』(1927年)、『安城家の兄弟』(1927年)。
菊池寛賞(1940年)、読売文学賞(1956年・1971年)、文化勲章(1959年)を受賞している。
第2期名人戦の観戦記を書いたのは、菊池寛賞を受賞した年ということになる。
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里見弴と志賀直哉は(絶交期間もあったが)大親友だった。
二人は吉原などで遊蕩したという。そして里見弴は、1915年に大阪の芸妓・山中まさと結婚する。
白樺文学館講演会「志賀直哉と里見弴」の講演録を読むと、『里見弴も作家になると言った時、家から当時で5万円もらっています。今に換算すると、2億5千万円くらいでしょうか。それをわずか3、4年で遊興費に使い切ってしまいます』とある。
2億5千万円を4年で使い切るにはどうすればよいか、考えてみたい。
2億5千万円を4年でということは、1年間で6250万円遊ばなければならない。
365日遊んだとして1日あたり171,200円。
年中無休は辛いので、週2日休んだとして1日あたり240,000円。
一人で遊ぶとすれば、
夕食(高級料亭)・・・7万円
銀座の高級クラブ・・・8万円
六本木の高級クラブへはしご・・・7万円
・・・などと真面目に見積もろうと思ったが、友人や後輩を3~4人ご馳走してしまえば、高級料亭だけで1日24万円を越してしまう。
友人3人を連れて、料亭→銀座のクラブ→六本木のクラブ→女の子たちと食事→タクシーで家まで送る、で推定見積り合計98万円。
このパターンだと年間に64回しか遊べなくなる。週に1回強という感じになる。
これなら無理なく4年間で2億5千万円を着実に使えそうだ。
しかし、当時は遊郭があったので、もっと手っ取り早くお金を使えたのかもしれない。
どちらにしても、高級店で複数人にご馳走してはしごすれば、2億5千万円を4年で使い切るのは意外と簡単だということになる。
恐ろしい。