2002年の「伝説の島研同窓会」(後編)

将棋世界2002年8月号、『伝説の「島研」同窓会』より。

―何か規律みたいなものは?出し惜しみはしないとか(笑)

佐藤 出し惜しみというか、当時はまだ定跡とかよく分からなかったですから。ぼくなんか奨励会時代は、将棋の勉強で序盤の研究はしたことがなかったです。

島・森内・羽生 (笑)

森内 力将棋ですからね(笑)。

佐藤 四段になってからは、8割がたは序盤の研究をするようになりましたが。

(中略)

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佐藤康光王将といえば居飛車正統派のイメージでありながら、指し手は天衣無縫。

その源泉は奨励会時代にあるのかもしれない。

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―2人の将棋を見てどう感じましたか。

島 いろいろな意味でスケールが違うっていうことを痛感しました。勝利を求めているようで将棋の本質を求めている。未来の将棋を先取りしていたという感じはしました。スピードボールに慣れてしまったので、研究会を始めてから公式戦がすごく楽になりました。当時六段で、自分としては最終目標の位置で満足していたんですが、それからより高い位置を目指す気持ちが出てきました。これからは進んでいる後輩の優れた人の将棋をいろいろ勉強しなければ駄目だと感じました。テクニックでは彼らより上回っていたかもしれないですが、スピードでは敵わないなと実感しました。

(中略)

島 島研のメンバーに入ってもらうように羽生さんに声をかけて頂いたのは佐藤さんと森内さんだったと思います。

佐藤 いや、島さんでしょう。

羽生 ええ、それしかないという気もするんですけど(笑)。でも、正確には覚えていないですね。

島 いずれにしろ、そろそろ研究会のスタイルを変えてみようということで羽生さんにお願いしたんですね。

森内 4人体制になったのは昭和62年頃ですね。

―何年ぐらい続いたんですか。

佐藤 数字のことを聞かれるのが一番困ります(笑)。

島 覚えてないですね。ノートとか取っていないので・・・。2年ぐらいかな。

森内 そのわりには積立金が随分貯まりましたよね。

―羽生さんが初めて竜王を取った時はやっていましたか。平成元年の12月ですが。

佐藤 さすがにタイトル戦を戦う前はやってないでしょう。

島 あの後も罰金をどんどん貯めていったような気がします。

羽生 やってなくても月の会費は取っていましたよね。

佐藤 それに公式戦で負けても罰金を取られていたような(笑)。

島 私は竜王の時に1勝5敗で、ひと月5万円払った記憶があるんですよ。負け越し4つで、月会費が1万円なので。

佐藤 棋戦で優勝したりすると、さらに寄付しなくてはいけないんです。

島 勝つ人も負ける人もまんべんなく払うようなシステムになっているんです。

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島研の罰金制度は、その月の負け越し数×千円×段位。

竜王は十段扱いとされている。

「島研」の罰金制度

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―場所は島邸で?

島 私が一人で暮らしていた時です。

羽生 マンションの一階がケーキ屋さんなので、ケーキを買ってお茶を飲むというの定番だったんです。

島 お酒は飲んだ記憶はないんですが、甘い物は食べましたね。まだ3人が成人に達するかどうかの頃でしたし、私自身、酒席とか打ち上げの席は苦手ですので、そういう雰囲気にもならなかったです。そもそもみんなで、夕食って食べたことあったっけ?

森内 記憶にないですね。お昼ご飯はみんなでとりますが。

島 あまり関係が濃くなり過ぎるのもよくない気がするので、ドライな付き合い方がいいかなと思います。その方が長続きするんじゃないでしょうか。

羽生 そうですね。

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ケーキを食べながら将棋を指す。

これはまさしく、タイトル戦へ向けての鍛錬になっているのではないか。

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―島さんが初代竜王になった時、メンバーの中でお祝いとか特別なことは。

島 別に・・・(笑)。今でもそうですが、誰かにおめでたいことがあっても基本的に「淡々と」いうのがテーマなので。だから羽生さんと竜王戦を初めて戦った時も、何もありませんでした。終わればそれで、わだかまりもないですし。それに棋士が棋士をお祝いする必要も感じません。ひと言「おめでとう」と言えばそれでいいかなと思います。

森内 仲間がタイトルを取っても、関係が変わるわけではなく、肩書きが変わるだけなので、別に・・・。やはり「淡々と」という感じですかね。

(中略)

―羽生さんとの竜王戦は?

島 楽しかったです。対局が終わった後にいつもモノポリーとかやってまして、竜王戦ご一行様で楽しい旅行をしていた感じでした。今では考えられませんね(笑)。

羽生 毎局やっていたような気がします(笑)。それが初めてのタイトル戦でしたが、タイトル戦っていつもこんな雰囲気でやっているのかなと思いました(笑)。でも、あの時が特殊だったんですね。

(中略)

―羽生さんの世代は、当時チャイルドブランドとかいわれてましたね。

島 あれは田中寅彦先生が作った言葉だと思います。ぼくは「恐るべき子どもたち」というのは言ったような気がしますが。

―そういう特殊な人間という見方をされたことについては。

佐藤 ぼくは、基本的にマスコミに対して関心があまりないので(笑)。

羽生 本当?(笑)

佐藤 だから、ぼくって書かれやすいんですよ、先崎さんとかに(笑)。基本的にマスコミに対して反応を示さないタイプなんです。だから当時はそのことに対して意識することはなかったですね。

羽生 ぼくも確かに何とも思ってなかったっていう感じなんです(笑)。

森内 ああ、そういうふうに呼んでいるんだっていう感じで、そんなに気にはしなかったですね。

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書かれやすい佐藤康光王将。

というより、結果的に佐藤康光王将自身が面白いネタを提供しているケースが多いように思われる。、書き手にとっては非常に有り難い存在なのだと思う。

先崎八段に書かれた例は次の通り。

1998年、佐藤康光八段名人挑戦権獲得前夜

佐藤康光九段の中学生時代のニックネーム

佐藤康光八段(当時)の逆襲

佐藤康光八段(当時)の災難

中井広恵女流六段にも書かれている。

たとえば、

佐藤康光九段の将棋入門書

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―平成元年に島さんが竜王になって以降は、島研は不定期になったんですか。

島 結構やっていたような気がしますけど・・・私も翌年に結婚したりして、ペースは落ちたのかな。

佐藤 でも、長期に休んだという記憶はないですね。

羽生 いつ頃までやっていたんですかね。

島 3人が公式戦で頻繁に当たるようになったので、気まずいかなと思ってやめたような気がするんです。だから、いつっていうのははっきり覚えてないです。

(以下略)

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島研で一度だけ旅行に行った時の話などは、また別の機会に紹介したい。